第40話 選べなかった商人と、選ばれし水守り
清泉村へ向かう街道で、カゲツは荷車を止めていた。
審査用の小箱は、まだ荷台の上にある。
白木の蓋に刻まれた銀の術式が、薄く光っていた。
影収納には入れられない。外から術式をかければ、審査記録が濁る。この小箱は、箱のまま守るしかない。
村人が逃げ切るまで、時間を稼ぐ。
審査用の小箱も守る。
そのつもりだった。
だが、黒い魔獣は二手に分かれた。
半分は荷車へ。
半分は逃げ遅れた村人へ。
箱を守れば、村人が危ない。
村人を守れば、箱が潰される。
ただの荷物なら、迷わなかった。
だが、あの箱には。
もふもふ領地が、ただの魔物の巣ではないと示すための信用が入っている。
潰されれば、王国は喜んでそこを突いてくる。
それでも、前にいるのは生きた人間だ。
影を伸ばせるのは、片方だけ。
親父なら。
どちらも助ける、と笑った気がする。
先生なら。
命を諦めるな、と言った気がする。
だが、俺の影は片方にしか届かない。
もう一手あれば。
あと半歩、影が伸びれば。
それだけの差で、また何かを選ばされる。
俺は、また選べないのか。
その時だった。
「おおおおおおおおおおおおおおッ!」
水場の方から、やたら大きな声が響いた。
カゲツは、思わず顔を上げた。
泥の向こうから、一人の男が走ってくる。
バルグレイだった。
泥まみれで、外套の裾を引っかけながら、なぜか胸だけは張っている。
「この選ばれし水守り(まだみずにえらばれてない)、バルグレイ参ったァ!」
馬鹿げていた。
あまりにも馬鹿げていて。
だからこそ、カゲツの中で固まりかけていたものが、少しだけ割れた。
北の隠れ家。
南の谷。
薬。
選べなかった夜。
そこへ、泥まみれの男が全力で突っ込んできた。
何も考えていないような顔で。
けれど、村人の前に出て。
――そうだ。
今は、過去の中に沈んでいる場合じゃない。
「逃げよ、皆の者!」
バルグレイが叫んだ。
「見るがよい! この選ばれし水守り(選ばれてない)の勇姿(ただの囮)を!」
村人へ向かっていた黒い魔獣たちの耳が、一斉に動く。
首輪が赤く光り、反応が切り替わる。
戦場の形が、変わった。
村人たちが、戸惑いながらも動き始める。
水路の方へ走る。子どもの手を引く。
黒い魔獣が、バルグレイを追い始めた。
村人へ向かっていた魔獣が、バルグレイに釣られている。
荷車へ向かう魔獣とそう遠くない位置にいる。
届く。
今なら、両方に届く。
「……いい陽動じゃねえか、村長さん」
呆れたはずなのに、喉の奥で笑いが漏れた。
足はもう動いていた。
「バルグレイ! こっちへ走れ!」
「カゲツ殿ォォォ!?」
「いいからまっすぐ来い! 曲がるな! 転ぶな! 喋るな!」
「最後だけ無理である!」
バルグレイが、こちらへ向かって走る。
黒い魔獣もついてくる。
泥を跳ね、牙を剥き、バルグレイの背中へ殺到する。
荷車へ向かっていた魔獣も、もう射程に入っていた。
今しかない。
親父。
先生。
俺に、少しだけ力を貸してくれ。
「《影そよぎ・乱舞》」
泥道に落ちた影が、走る。
黒い線が蜘蛛の巣のように枝分かれし、地面を這い、戦場へ広がっていく。
黒い魔獣の足元へ。
バルグレイの背後へ。
逃げる村人たちの進路へ。
影が絡みつく。
縛るためじゃない。
止めるためでもない。
ほんの少しだけ、そよがせる。
バルグレイへ振り下ろされた爪が、肩を外れた。
荷車へ向かった牙が、横板をかすめた。
飛びかかった魔獣の着地が、泥で半歩ずれた。
たった半歩のずれ。
それだけで、命が残った。
「今だ、押さえろ!」
護衛の魔狼二体が、同時に飛んだ。
一体が前脚を払う。
一体が喉元へ噛みつく。
黒い魔獣が、荷車から引き剥がされた。
白木の小箱が、荷台の上で小さく揺れる。
封印は、割れていない。
村人の足元の影が、もう一度そよいだ。
泥に足を取られかけた老人が、倒れずに前へ出る。
子どもを抱えた女が、水路の陰へ滑り込む。
黒い爪は、誰にも届かない。
届かせない。
「行け!」
カゲツは叫んだ。
「振り返るな!」
村人たちが、水路の陰へ逃げ込んでいく。
バルグレイが、泥まみれでこちらへ転がり込んできた。
「カゲツ殿! 私は今、役に立ったのでは!?」
「黙れ、まだ終わってねえ!」
「役には立ったのだな!?」
「びっくりするほどな」
カゲツは、歯を食いしばった。
だが、まだ終わっていない。
盤面は崩れかけたまま、かろうじて保っているだけだ。
爪を半歩外す。
牙を逸らす。
荷車へ向かう突進を、泥へ流す。
そのたびに、影が薄くなる。
使える線が減っていく。
護衛魔狼が喰らいつき、バルグレイが泥の上を転がり、村人が水路の陰へ逃げ込む。
箱は、まだある。
村人も、逃げた。
両方、残った。
親父。
見たかよ。
俺は、止まらなかったぞ。
そう思った瞬間。
水場の奥で、赤い光が三つ灯った。
「……まだいるのか」
黒い魔獣が、新たに姿を現した。
さっきの群れよりも小さい。
だが、速い。
泥の上を低く走り、影の隙間を抜けてくる。
首輪が赤く点滅している。
命令が、変わったのだ。
荷車でもない。
村人の集団でもない。
水路の裏手。
崩れかけた木柵の陰に、小さな影があった。
カゲツの目が、見開かれる。
「ニナ……!」
なぜ、そこにいる。
逃げた村人の列とは、反対側。
古い水路の影で、ニナが泥に膝をついていた。
顔は真っ青だった。
口を押さえたまま、声も出せずに震えている。
黒い魔獣が、三体同時に向きを変えた。
泥の上を低く滑るように走り、ニナとの距離を一気に潰していく。
カゲツは影を伸ばそうとした。
だが、影は足元で揺れただけだった。
駄目だ。
魔力が、形にならない。
乱舞で散らしすぎた。
もう、届かない。
「くそっ!」
それでも、カゲツは泥を蹴った。
黒い魔獣の牙が、ニナへ迫る。
間に合わないと分かっていても、足は止まらなかった。
「ニナ!」
小さな体を抱き込んだ。
「おにい、さん……?」
「黙って伏せてろ!」
カゲツは、ニナを胸に押し込める。
そのまま背中を向けた。
黒い牙が、視界を覆う。
影は出ない。
計算もできない。
逃げ道も見えない。
ただ、体だけが間に入っていた。
ああ、くそ。
親父。
先生。
俺は、こういうのは向いてねえんだよ。
そう思った瞬間、夜が白く裂けた。
「月狼爆衝」
囁くような声だった。
白い牙の衝撃が、地面を噛んだ。
直撃ではない。
カゲツとニナのすぐ横の泥を、巨大な牙が噛み砕く。
衝撃が横へ走り、黒い魔獣たちの身体をまとめて吹き飛ばした。
牙は、カゲツにもニナにも触れなかった。
泥と水しぶきの向こうに、灰銀の髪が揺れていた。
月を背に、ヴァルフェリアが立っている。
さっきまで黒い魔獣がいた場所に、白い牙の跡だけが残っていた。
その中心で、魔狼姫は静かにこちらを見ていた。
綺麗だ、と思った。
場違いにもほどがある。
泥だらけで、血の匂いがして、腕の中には震える子どもがいる。
それなのに、そう思ってしまった。
カゲツは、ニナを抱えたまま息を吐いた。
安心より先に、胃の痛みが戻ってきた。
「……姫さん」
笑おうとして、失敗した。
「来てくれたのか」
「……間に合った」
ヴァルフェリアは、ただそれだけ言った。
カゲツは腕の中を見た。
ニナは震えていた。
でも、息をしている。
荷車の上では、白木の小箱がまだ光っていた。
ニナも、箱も。
今度は、どちらも残せた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、カゲツが過去の夜を少しだけ越える回でした。
一人では届かなかった影が、
バルグレイの囮と、ヴァルフェリアの一撃で届く。
今度は、ニナも、小箱も、どちらも残せました。
こういう「誰か一人では足りない半歩を、別の誰かが埋める」場面を、
もふもふ領地では大事にしていきたいです。
次回、黒い首輪をつけた魔獣たちの正体へ。
くーちゃん「……どっちも残せて、よかったワン」




