第39話 軍師がいない夜
ヴァルフェリアが、息を呑んだ。
「……カゲツ」
灰銀の髪が、わずかに揺れる。
「ニナ」
その名前を口にした瞬間、ヴァルフェリアは走り出していた。
「待て、ヴァルフェリア!」
俺の声は届かなかった。
灰銀の髪が、工房の入口を抜ける。
扉が、乱暴に開く。
魔狼が三体、無言でその後ろについた。
「敵の数も分からない。単独で行くな!」
ヴァルフェリアは、一度だけ振り返った。
「絶対に助ける」
それだけ言って、走った。
……くそ。
止められなかった。
くーちゃんが、俺の足元で扉の外を見ていた。
「きゅ……」
行くべきだ。
そう言っているような声だった。
分かってる。
俺だって、今すぐ走りたい。
「何があった?」
低い声が、工房の入口に落ちた。
ヴァルガルだった。
騒ぎを聞きつけたのだろう。金色の目が、泥と血に濡れた魔狼を見ていた。
「報告しろ」
魔狼が、荒い息のまま頭を下げた。
「清泉村が襲撃されました。街道で荷車が止まり、カゲツ殿が審査用の小箱を守っています」
「村人は?」
「避難中です。ですが、逃げ遅れがいます」
「敵は何だ」
「黒い犬のような魔獣です。魔狼に似せていますが、匂いが違います」
魔狼は、苦しそうに続けた。
「首に、黒い金属輪がありました」
トキシードの研究施設を思い出した。
命を縛る首輪。
命令で動かされる魔獣。
嫌なものが、胸の奥に沈んだ。
「……それから、水場の近くに、子どもが残っているとの情報があります。確証はありません」
くーちゃんの尻尾が止まった。
「掲示板には竜の鳴き声を聞いたという情報もあるわ」
リュシアが静かに補足する。
「清泉村でか?」
「分からない。書き込みが錯綜してる。ただ、誰かが大きな咆哮を聞いたのは確かみたい」
ヴァルガルは、わずかに目を閉じた。
開いた時には、もう決まっていた。
「清泉村へ向かう」
「私も行くわ」
リュシアが、端末を閉じた。
声は静かだった。
でも、紅い瞳の奥が冷えている。
「嘘のあとは、獣で村を襲う。本当に、嫌なやり方」
魔狼たちが動き始めた。
清泉村には、カゲツがいる。
ニナがいる。
審査用の小箱もある。
俺も、くーちゃんを抱き上げようとした。
その時だった。
「その判断、あの影の商人なら止めただろうな」
入口の奥から、白衣の男が現れた。
トキシードだった。
魔力封じの枷をつけたまま、壁にもたれている。
慌てた様子はない。
その顔が、腹立たしいほど冷静だった。
「黙っていてくれる?」
リュシアの声が低くなる。
「それでは、並びすぎた偶然を見逃すことになる」
トキシードは、わずかに口元を歪めた。
「審査箱が動いた夜。清泉水が王蜜補助機に組み込まれた直後。商人が拠点を離れたタイミング」
工房が静まった。
「偶然にしては、出来すぎている」
「何が言いたい?」
ヴァルガルが唸る。
「別に」
トキシードは肩をすくめた。
「君たちは今、全員で村へ向かおうとしている。実に分かりやすい」
その一言で、足が止まった。
分かりやすい。
嫌な言葉だったが、否定できなかった。
アイズなら、見る。
清泉村を。
ダンジョンの入口を。
神獣ボーロを載せた正規便を。
そして、俺たちがどう動くかを。
清泉村が襲われた。なら、全員で村へ向かう。
だから、罠になる。
……カゲツなら、きっと今の俺たちを止めた。
手帳を開いて、嫌な条件を並べて。
感情で走ろうとする俺たちに、冷たい線を引く。
今、そのカゲツはいない。
清泉村で、箱を守っている。
「……待ってくれ」
思わず声が出た。
ヴァルガルが、俺を見た。
「先生?」
「村は助ける。カゲツも、ニナも、箱も放っておかない」
言葉にしながら、自分にも言い聞かせる。
「でも、全員で出るのは駄目だ」
リュシアが、俺を見る。
「カゲツなら、そう言う」
誰も、すぐには反論しなかった。
嫌な沈黙だった。でも、必要な沈黙だ。
「……先生がそう言うなら」
リュシアが、静かに同意した。
「村へは、先生とくーちゃんが行くべきね。改造魔獣なら、先生にしか診られない。くーちゃんの光も必要になる」
リュシアの視線が、ヴァルガルへ移る。
「それに、ヴァルフェリア様が先に向かった。あの子を止められるのは、王である貴方だけ」
ヴァルガルが、わずかに目を細めた。
「ならば、我が清泉村へ向かう」
「ええ」
リュシアは、少しだけ唇を結んだ。
行きたいのだ。
分かる。
清泉村は、リュシアが日常を映して守った村だ。
「……嫌ね」
リュシアが、小さく息を吐いた。
「行きたい時ほど、残る理由ができる」
「リュシア」
「謝らないで、先生」
紅い瞳が、淡く光った。
「先生は、村を見てきて。ここは、私が護るから」
リュシアの足元に、黒い蝶の翅が広がった。
闇が床を這い、工房の入口へ、廊下へ、花洞窟へ向かう分かれ道へ染み込んでいく。
「目蓋の裏に咲く道は、戻る場所を忘れない」
リュシアの声が、低く沈んだ。
「迷いなさい。ここへ来たいなら」
黒い蝶が、一斉に羽ばたいた。
「黒蝶幻廊」
闇が、工房の入口と花洞窟への道を覆った。
廊下の奥に、同じ扉がいくつも並ぶ。
今まで見えていた道が、どれが本物か分からなくなる。
「この幻廊は、入る者の目を裏切るわ」
リュシアは、黒い蝶を指先に止まらせた。
「正面から崩すのは難しい。少なくとも、簡単には帰り道も入口も見つからない」
紅い瞳が、トキシードへ向く。
「それに、トキシードを無監視で置いていくわけにもいかないでしょう?」
トキシードが、壁際で薄く笑った。
「私への信頼が低すぎるな」
「そんなもの、あると思う?」
リュシアは即答した。
「あなたが怪しい行動をすれば、悪夢に落とす」
「……実に怖い女だ。だが、術式の使い方は悪くない」
ヴァルガルは、迷宮と化した入口を一瞥した。
「……見事だ」
それから、リュシアを見た。
「すまぬ、リュシア。拠点を任せる」
「ええ、任されたわ」
ヴァルガルは魔狼たちへ視線を向けた。
「部隊を二つに分ける。半数は我と共に清泉村へ。残りはリュシアの指揮下で拠点を守れ」
魔狼たちが、無言で散った。
決まった。
俺たちは清泉村へ向かう。
リュシアは、帰る場所を隠す。
ガルド爺が、包帯と消毒液の入った袋を押しつけてきた。
「持っていけ」
「助かる」
「礼はいらん。村を救うのだ」
ミルナが、小さな袋を差し出した。
「神獣様用です。少しだけですが」
くーちゃんが袋を見た。
「きゅ」
いつもの催促ではない。
分かっている顔だった。
「ありがとう」
俺は袋を受け取った。
ヴァルガルが身を沈める。
「先生、神獣様。我が背へ」
くーちゃんを抱えて、ヴァルガルの背に乗った。
大きな体温が、足元から伝わる。
魔狼たちが半数、すでに後ろへついていた。
リュシアが、俺の袖を軽く引いた。
「先生」
「戻ってきたら、ちゃんと話を聞かせて」
ほんの少しだけ、距離が近い。
「ああ、もちろんだ」
「それから」
リュシアは、少しだけ視線を逸らした。
「今度、ボーロ工房のカフェ店員をやるの」
こんな時に、何を言っているのかと思った。
でも、リュシアは笑っていなかった。
「だから、最初のお客さんになって」
胸の奥が、少しだけ詰まった。
「ああ」
俺は頷いた。
「約束する」
「先生、そろそろ行くぞ」
ヴァルガルが走り出した。
工房の灯りが、後ろへ流れていく。
魔狼たちの足音が続く。
腕の中で、くーちゃんが小さく息をした。
……カゲツ、持ちこたえてくれ。
ニナ、無事でいてくれ。
ヴァルフェリア、先に突っ込みすぎるなよ。
***
清泉村の街道。
荷車が、止まっていた。
審査用の小箱は、まだ荷台の上にある。
白木の蓋に、銀の術式が薄く光っていた。
カゲツは、荷車の影に片膝をついていた。
影が、箱の周囲をかすかに揺れている。
外から術式はかけられない。
影収納にも入れられない。
それでも、荷車ごと押し潰されれば終わりだ。
前方から、子どもの泣き声が聞こえた。
村人が二人。
逃げ遅れている。
その奥に、小さな声が混ざっていた。
ニナかもしれない。
黒い魔獣が、二手に分かれた。
一方は、荷車へ。
一方は、村人へ。
箱を守れば、村人が危ない。
村人を守れば、箱が潰される。
ただの荷物なら、迷わなかった。
だが、あの箱には。
金蜜蜂族の未来がある。
清泉村の証明がある。
ニナの言葉がある。
それでも、前にいるのは生きた人間だ。
影を伸ばせるのは、片方だけ。
過去が、勝手によぎった。
北の隠れ家。
南の谷。
薬。
どちらも間に合わなかった、あの夜。
嫌な商談ほど、条件だけは綺麗に揃う。
「……またかよ」




