第38話 未来の蜜と、二つ星の香り
翌朝、俺たちは神獣ボーロを一つ星の先へ進めるため、再試作を始めた。
星皿審査会へ出す、次の一箱。
香りの芯に使うのは、アウレリアがくれた一滴の蜜だった。
ボーロ工房は、いつもより静かだった。
窯には火が入り、ミルナが粉をふるい、ガルド爺が道具を並べている。
くーちゃんは試食席に座っていた。
作業台の中央には、小さな蜜蝋の器。
中には、金色の雫が一滴。
命を削った蜜ではない。
昨日、女王が「少しだけ余った未来」と言って渡してくれたものだ。
使うなら、無駄にはできない。
「入れすぎるな」
ガルド爺が、低く言った。
「これは甘味じゃない。香りの芯だ。清泉水と小麦と火の中に、道を作るんだ」
ミルナが小さく頷いた。
「女王様からいただいたのは、材料というより……道しるべですね」
ガルド爺は窯の火を見た。
「一滴で十分だ。あとは、こっちの腕で立たせる」
その時、工房の入口に人影が立った。
「熱心なことだ。だが、配合は数値で管理しろ」
トキシードだった。
魔力封じの枷はついたまま。
横にはヴァルフェリアが腕を組んで立っている。
「ボーロ作りに興味があるのか?」
「神獣ボーロに王蜜を混ぜた時、流れがどう変わるかを見る。王蜜補助機の安定化にも使える」
ヴァルフェリアが一歩前に出た。
「怖いことしたら噛む」
「私は見るだけだ、と言っている」
「変な瓶を出したら噛む」
「……理屈が通じん」
この二人に理屈で決着をつけるのは、たぶん無理だ。
「好きにしろ。ただし壁から動くな」
トキシードは壁際に移動した。
思いのほか素直だった。
「濃くすればいいものではない。大事なのは、循環が乱れていないことだ。清泉水を軸にしろ」
ミルナが、こくこくと頷いた。
「……はい。清泉水で、香りを受けます」
「理解したなら、手を動かしたまえ」
くーちゃんがトキシードを見た。
「きゅ……」
少し渋い声だった。
試作の方向性は、すぐには決まらなかった。
一度目は、香りが立ちすぎた。
蜜の香りが前に出すぎて、くーちゃんが鼻を近づけた瞬間、少し後ろへ下がった。
「神獣様が引いたぞ」
ガルド爺が言った。
「蜜が主役になっとる。これは失敗じゃ」
二度目は、清泉水を増やした。
香りは丸くなったが、今度は弱い。
くーちゃんは食べた。
食べたが、尻尾は一度だけだった。
「一つ星の時と同じくらいか」
「はい……」
ミルナが悔しそうに唇を結んだ。
でも、すぐに顔を上げる。
「方向は合っています。清泉水で香りは通りました。でも、受け止める場所が薄いんです」
「小麦か?」
「はい。早生小麦を増やして、焼きは弱く、長く」
トキシードが壁際から言った。
「火が強すぎると香りが飛ぶ。低温で時間をかけろ。内側に残る」
「……なるほど、それで試してみます!」
俺は三回目の配合を見ながら、トキシードに言った。
「お前、意外と教えるの好きだろ」
「失敗する試作を眺める時間が惜しいだけだ」
素直じゃないな、本当に。
三回目。
蜜は少量。清泉水で香りを開き、早生小麦で受け止める。
焼きは弱く、長く。
窯の前で待った。
焦らず、急かさず、ただ火の温度を守る。
窯の前で、ミルナは息を殺していた。
ガルド爺は何も言わない。
それが、今は一番の指示だった。
やがて、窯が静かに鳴った。
「出せ」
ガルド爺が言った。
鉄板が出た瞬間、工房の空気が変わった。
花洞窟の蜜の香り。
清泉村の水の澄んだ匂い。
焼きたての小麦が、その二つをやわらかく包んでいた。
くーちゃんが、試食席で立ち上がった。
「頼む」
「きゅーん」
俺はボーロを一つ、皿に置いた。
くーちゃんが、ぱくりと食べた。
尻尾が、ふわりと揺れた。
もう一度。
さらに、もう一度。
「……三振り」
ミルナが息を呑んだ。
「一つ星の時より、多いです!」
くーちゃんは、もう一つほしそうに皿を見ていた。
尻尾はまだ動いている。
「二つ星、いけるか?」
俺が聞くと、ガルド爺は首を振った。
「分からん。星は、神獣様の尻尾だけで決まるわけではない。保存性、香りの安定、食べる者への負担。審査会はそこを見る」
ガルド爺は、焼き上がったボーロをじっと見た。
「だが、一つ星の先には来た」
その一言で、ミルナの肩から力が抜けた。
ヴァルフェリアが、短く言った。
「前より、深い」
トキシードは、焼き上がったボーロを見ていた。
「……現存する材料なら、これが最適解に近い」
それだけ言って、黙った。
たぶん、褒めた。
トキシード基準では、たぶん。
「きゅーん!」
くーちゃんは、おかわりを要求し続けていた。
***
「再審査には、星皿審査会の正規便を使う」
夕方。
カゲツが、白木の小箱を机に置きながら言った。
「正規便?」
「ああ。審査会の指定箱だ」
小箱には、銀色の細い術式が刻まれていた。見るからに高そうだった。
「中の温度、湿度、香りまで記録する。作成工程の記録も、この箱に入れる決まりだ」
リュシアが端末を掲げた。
「補足資料として、工程を映した配信記録石も添えられるわ」
「ずいぶん本格的なんだな」
「星がつく食べ物だからな」
カゲツは箱の蓋を軽く叩いた。
「ただし、この箱には外から余計な術式をかけられない。影収納に入れても駄目だ。記録が濁って、審査に引っかかる」
「つまり、箱は箱のまま運ぶしかないのか」
「そういうことだ」
カゲツは、もう一通の封書を取り出した。
皿の上に星が三つ並んだ封蝋。
「それと、提出は俺が行う。星皿審査会から、招待状が来ている」
「カゲツが?」
「ああ。清泉村で水の証明を受け取って、そのまま街道便に乗せる。正規の提出者としてな」
カゲツは小箱を見た。
「こいつは、ただの菓子じゃない。もふもふ領地と、清泉村と、金蜜蜂族の信用をまとめて運ぶ荷だ」
ミルナが、少し緊張した顔で頷いた。
審査用の神獣ボーロを小さな木箱に詰めた。
蓋には、ミルナが丁寧に押した小さな肉球印。
中には工程記録と、リュシアの配信記録石。
それから、小さな手紙。
『わんちゃんのぼーろは、こわくありません。おいしいです』
ニナの字だった。
「……これも入れるのか?」
カゲツが呟くと、ヴァルフェリアが口をはさんだ。
「ニナの言葉。大事」
ヴァルフェリアは、いつもより慎重に手紙を箱へ入れた。
「カゲツ。ちゃんと届けて」
「……分かったよ、姫さん」
あの偽動画で、怖いものにされかけたボーロ。
それを食べて、美味しいと言ってくれた子どもの字。
たしかに、必要だった。
夕方、審査用の小箱を載せた荷車は、清泉村へ向かった。
護衛に魔狼三体。そして、カゲツ。
「無事に届くといいな」
くーちゃんが荷車を見送って鳴いた。
「きゅーん」
「心配するな。戻ってきたら、また焼いてもらおうな」
「きゅ」
くーちゃんは少し考えてから、尻尾を振った。
審査結果は、まだ分からない。
けれど、あの小箱は確かに、一つ星の先へ向かっていた。
***
夜になっても、清泉村からの到着報告は来なかった。
「遅れているだけか?」
俺が言うと、リュシアは端末から目を離さなかった。
「……ただの遅延ではなさそうね」
「何か分かるのか?」
「清泉村の周辺掲示板が変よ」
リュシアの声が低かった。
「水車が止まったって書き込みがある。村の北側で、黒い影を見たって。あと……竜の鳴き声を聞いたって」
「竜?」
工房が静まり返った。
くーちゃんが試食席から降りて、扉を見た。
尻尾が止まっている。
リュシアが、さらに端末を操作した。
「待って。これ……」
画面に、短い書き込みが流れていた。
《清泉村の街道で荷車が止まってる》
《魔狼? いや違う、黒い犬みたいなのがいる》
《子どもがまだ村に残ってる》
胸の奥が冷えた。
その瞬間、扉が開いた。
飛び込んできた魔狼の毛並みに、泥と血がついていた。
「先生……!」
「大変です。清泉村が、襲われました!」
俺は立ち上がった。
「村人は?」
「避難中です。ですが、逃げ遅れがいます」
「審査用の箱は?」
魔狼は、苦しそうに続けた。
「襲撃地点にあります。カゲツ殿が、守っています」
空気が凍った。
あの小箱が。
一つ星の先へ向かったはずのボーロが。
清泉村で、襲撃に巻き込まれた。
「……カゲツ」
ヴァルフェリアの声が、かすれた。
灰銀の髪が、わずかに揺れる。
「ニナ」
その二つの名前だけを呟いて。
俺は、初めて見た。
あの魔狼姫が。
誰かを失うことに、怯えている顔を。
一つ星の先へ向かった神獣ボーロ。
けれど、清泉村から届いたのは、到着報告ではなく襲撃の知らせでした。
次回、清泉村へ。
水守りの村で、何が起きたのかを追います。
くーちゃん「……ボーロ、待ってるワン」




