第4話 魔狼王の帰還と、先生の一針
取り戻したはずの領地に、勝利の匂いはしなかった。
静まり返った空間で、ヴァルガルが荒れ果てた領地を見渡している。何も言わない。
壁には、深い引っ掻き傷が残っていた。連れて行かれる時に抵抗した跡だ。空になった鎖が、床に転がっていた。
言葉にしなくても、何が起きたのか分かってしまった。
「……グルル……」
奥から、低い唸りが返ってきた。まだ鎖に繋がれた魔狼たちがいる。立ち上がれないまま、こちらを見ていた。
息がある。
……間に合った。
問題は、道具だった。包帯も、消毒薬も、縫合糸もない。素手だけでできることには限界がある。
考えていると、足元でくーちゃんが動いた。
てちてち、と奥へ歩いていく。
三歩進んで、振り返る。つぶらな瞳が、俺を見ていた。
「……ついてこい、ってことか」
「きゅ」
尻尾を一回だけ振って、また歩き出す。
犬の方が落ち着いている。
たどり着いたのは、物資置き場の残骸だった。棚は崩れ、薬品の瓶は割れ、揮発臭が鼻を刺す。ほとんどは使い物にならない。
「きゃん!」
くーちゃんが、倒れた棚の隙間を前足で叩いた。
覗き込むと、箱がひとつだけ残っていた。
包帯、消毒薬液、縫合糸、水袋が二本。
「……これならいける!」
箱を抱え、すぐに引き返した。
最初に目に入ったのは、若い魔狼だった。
後ろ足の裂傷が深い。立とうとして、何度も失敗した跡がある。爪が石畳を引っかき、血の筋を残していた。
それでも、こちらを見るなり前脚に力を込める。
「……まだ、動けます」
声は震えていた。強がりだ。呼吸は浅く、耳は痛みで伏せたままだった。
「名前は」
「ロッカ、です」
「ロッカ、動くな」
「でも、俺は、まだ……」
「動けてない。だから縫う」
ロッカの口が、悔しそうに閉じた。
水で汚れを流し、消毒する。
裂けた皮膚を寄せて、縫う。
「よし、終わった」
糸を切ると、ロッカが首を巡らせ、縫われた後ろ足を見た。
「先生。俺、また走れますか」
「この傷なら、塞がればまた走れる。だから今は動くな」
伏せていた耳が、わずかに上がった。
けれど、その視線はすぐに、床に転がる空の鎖へ移った。
「……みんな、連れて行かれた」
くーちゃんの尻尾が、ぴたりと止まった。
誰も、何も言えなかった。
その沈黙の中で、ヴァルガルがゆっくり前へ出た。
傷ついた魔狼たちが、顔を上げる。
「お前たち。よく戦ったな。……よく、生き残った」
低い声だった。命令じゃない。群れに向けた、王の言葉だ。
負傷した魔狼たちの背が、わずかに伸びた。
王が、戻った。
「聞け。傷ついた者は、治せる」
ヴァルガルの視線が、俺に向く。
「この者がいる」
全員の視線が、俺に集まった。
……王の紹介、荷が重い。
まだ伏せたままのロッカも、俺を見ていた。絶望で濁っていた目に、ほんの少しだけ光が戻っている。
そこへ、別の魔狼が崩れ落ちた。
「……っ、毒が……」
呼吸が浅く、瞳が濁りかけている。さっきまで持ちこたえていた神経毒が、今になって回ってきたのか。
「先生、頼めるか」
ヴァルガルが、物資置き場で見つけたらしい小袋を差し出した。
中に残っていたのは、ボーロが一粒だけ。
ここで使えば、次はもうない。くーちゃんの光も、俺の処置も、使える保証が消える。
だが、目の前の呼吸は今、止まりかけている。
迷っている暇はない。
「動くな、処置する」
くーちゃんにボーロを差し出す。
ぱくり。
白い光が広がり、魔狼の体を取り巻く黒い鎖が見えた。
――診断完了。
鎖を掴む。
引きちぎる。
黒い鎖は、光の粒子になってほどけるように消えていった。
魔狼が、大きく息を吸う。
「……痛みが、引いている」
濁りかけていた瞳に、色が戻った。
……間に合った。
周囲が、静まり返る。
最初に絶望を口にしたロッカが、俺を見ていた。縫われた後ろ足をかばいながら、それでも前脚に力を込めている。
「……奇跡だ」
声が震えていた。
「先生。これなら、まだ終わってない」
別の魔狼が、傷ついた体を起こした。
「連れて行かれた仲間も、取り戻せる」
低い唸りが、少しずつ戻ってきた。
絶望で沈んでいた空気に、じわりと熱が戻っていく。
「きゅーん!」
くーちゃんが鳴いた。
「神獣様も、いけるとおっしゃっている!」
くーちゃんは足元で尻尾を振っていた。
ボーロをねだる時と、まったく同じ顔で。
たぶん腹が減っただけだ。
それでも、魔狼たちの目つきは変わっていた。それだけで十分だった。
***
夜になった。
ヴァルガルは入口側にも見張りを出していた。
サディウスの兵はまだ、深層へは入ってきていないらしい。
応急処置を終えた魔狼たちが、焚火の周りに集まっていた。
ふいに、四足の巨躯が縮み、二足に立ち上がる。耳と尻尾だけを残して、毛並みが肌に馴染んでいく。
気づけば、人狼たちが立っていた。
……え、変形するの?
ヴァルガルだけは変わらなかった。まあ、あのサイズで人狼になられても困る。
食事になると、魔狼たちが次々にくーちゃんへ干し肉や木の実を置いていく。ヴァルガルまで、無言で肉の一番いい部位を押し出した。
……お前ら全員、くーちゃんに貢いでるな。
くーちゃんは神妙な顔で一つずつ確認し、気に入った順に食べていく。巨大な魔狼王が、それを満足げに見守っていた。
何も言うまい。これが正しい世界なんだろう、たぶん。
食事を終えると、ヴァルガルが深く頭を垂れた。
「……先生。改めて感謝する」
魔狼たちが一斉に頭を下げた。
「大げさだ。患者だから助けた。それだけなんだ」
ヴァルガルは何も言わなかった。ただ、それで十分だと言うように、目を細める。
魔狼たちが頭を下げる光景を見て、ふと思った。
ここなら、生きていけるかもしれない。
人間の国では罪人でも。
この群れの中では、俺は“先生”だった。
壁に背中を預ける。
くーちゃんが、いつの間にか隣に寄ってきていた。体を押しつけて、丸くなる。
温かかった。
気づいたら、目が閉じていた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
魔狼王の領地を取り戻し、先生にもつかの間の休息が訪れました。
一方、入口を塞ぐサディウスのもとへ、敗れたトキシードが戻ります。
次に命じられるのは――たった一人での“再戦”。
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くーちゃん「……ボーロ、補充希望ワン」




