第3話 毒を砕く、王の咆哮
奪われた領地に踏み込んだ瞬間、臭いが来た。
焦げた毛と薬品と血の臭い。重い空気に、別の何かが混じっている。崩れた石柱。残された装置。床にへばりつく魔法陣の残光。
……ろくでもない現場だ。
通路の奥には、鎖に繋がれた魔狼が数体、横たわっていた。呼吸はある。でも動けない。
脱水、栄養不足、裂傷。
……全員、患者だ。見捨てられない。
「止まれ! 不法侵入者だ!」
武器を構えた男たちが立ち塞がる。
ヴァルガルが一歩、前に出た。
「グルル……」
次の瞬間、男たちは散った。振り返りもせず、逃げた。
十秒もかからなかった。
足元で、くーちゃんがお腹をぺたんとつけていた。最初からこうなると分かっていた顔だ。
そのとき、背中に視線が刺さった。
「素晴らしいタイミングだ」
奥から、楽しげな声が響いた。
影の奥から、白衣の男が歩み出てきた。まるで最初から、そこにいたように。
手には、まだ温かそうな薬液アンプル。細身で長身。白衣は薬品に汚れ、片目の魔導レンズが鈍く光る。
トキシード。
サディウス直属の研究者だ。
「今しがた完成したばかりでね。生体反応を見るには、鮮度が重要なんだ」
トキシードが、笑った。
「被検体は、そこに転がっている魔狼から見繕うつもりだった」
鎖に繋がれた魔狼たちを一瞥した。
「だが、もっと大物が戻ってきた」
ヴァルガルへ、次に俺へ。視線が移った。
「なるほど。サディウス様が探していた弟か」
口元は穏やかなのに、目だけがまるで笑っていない。
「君と魔狼王を捕らえろと命令は受けていたんだがね。捜索のために研究を止めるのは非効率だ」
「そちらから来てくれて助かったよ」
答える気にはならなかった。壁の染みと話す方が、まだマシだ。
トキシードの視線が、ヴァルガルに戻った。
「その個体……君が治したのか?」
「……いや、いい。後で分解すれば分かる」
白衣の内側から、短銃が抜かれた。
「今は、実験の時間だ!」
引き金を引いた。
紫の弾が弾けて霧が広がり、甘ったるい臭いが一気に満ちた。
魔狼たちが、次々と膝をついた。呼吸が乱れていく。
「息を浅くしろ! 動くな、毒が回る!」
叫びながら、くーちゃんを抱えて後ろへ下がる。
戦えない。それでも、症状なら読める。死なせないために、やれることはある。
「安心したまえ。死ぬ濃度ではない。生きたままの素材ほど、価値がある」
その霧の中で。
「グルル……」
ヴァルガルだけが、微動だにせず立っていた。
霧の中で、黄金の目が燃えている。あの霧を浴びて、普通に立っている。
「ほう。耐性があるか――」
言い終わる前に、ヴァルガルの喉元が赤く光りだす。
「グゥゥ……」
空気が、軋んだ。
「ガァァアアアアアッ!!」
咆哮。
次の瞬間、ブレスが吐き出された。
紅蓮の炎が通路を埋め尽くす。空気が焼ける。壁が赤く染まる。
熱波が叩きつける。
炎はトキシードを飲み込んだ。
……そう、見えた。
だが、白衣には触れてすらいなかった。
体の表面を覆う薄い膜が、どくん、と脈打つ。膜の内側で、何かが蠢いていた。
「バイオシェル。生きた防御膜だよ」
トキシードは、無傷のままだった。
「全属性耐性……完璧に機能している。素晴らしい、これは貴重なデータだ!」
紅蓮のブレスを浴びて、心底嬉しそうにしている。
……頭のネジ、抜けてるだろ。
トキシードが、短銃に新しいアンプルを装填した。黒紫の液体だ。
「先ほどのは前座だ。こちらが本命、魔力汚染型でね」
引き金が鳴り、黒紫の弾がヴァルガルへ直撃した。
爆発が広がり、粘つく霧が床を這った。石を腐らせ、金属を黒く変色させていく。
踏み出しかけた足が、止まった。喉が焼ける。息が吸えない。これ以上近づけば、終わる。
「ヴァルガル……!」
声は、霧に飲まれて消えた。返事はない。
霧の中心で、低い唸りが静かに響いた。
「グルル……」
ヴァルガルの体表から、青白い光が滲み出た。月明かりのような、冷たい光。
毒霧が触れた瞬間、バチンと火花が散り、黒紫の霧はそのまま凍りつき、砕け散った。
霧が晴れると、ヴァルガルは無傷のまま立っていた。
毒は、体に届く前に砕かれていた。
……なんだそれ。王すぎるだろ。
「きゅうーーん!」
くーちゃんが尻尾を振りながら、自分がやりましたみたいな顔をしている。
……お前は何もしてないけどな。
トキシードが、初めて動きを止めた。
「……ばかな」
声から、余裕が消えていた。
「耐性ではない。中和でもない」
トキシードの目が、ヴァルガルに釘づけになる。
「まさか……毒式そのものを、破壊したというのか?」
ヴァルガルは答えなかった。
鎖に繋がれた仲間たちを、ゆっくりと見回す。改造装置。血の染み。焼け焦げた残骸。
爪が、地面に食い込んだ。
「……許さぬ」
空気が、変わった。繋がれた魔狼たちの鎖が、びりびりと音を立てた。
トキシードが、一歩退いた。
白い光を帯びていくヴァルガルの喉元を、レンズが捉える。
「先ほどの術式破壊は想定外だ。だが、問題ない」
口元に、わずかに笑みが戻った。
「バイオシェルは術式ではない。生きた防御膜だ。全属性耐性——」
言葉の続きを、ヴァルガルが断ち切った。
「……終わりだ」
その声には、怒りがなかった。ただ、裁定のように静かだった。
喉元が、白に近い光を帯びていく。熱じゃない。もっと根本的な何かが、空間そのものに満ちていく。
「ガァァアアアアアッ!!」
白いブレスが放たれた。
炎ではない。熱でもない。
王が、終わりを告げる光だった。
トキシードのバイオシェルが脈打つ。
完全耐性の膜が、白光を受け止めようと膨れ上がる。
そして、砕けた。
「な……がは……っ!」
あれほど余裕に満ちていた声が、ただの悲鳴に変わった。
膜が破れ、白衣が裂け、魔導レンズが砕け散る。
トキシードの体が岩壁に叩きつけられた。
壁にもたれたまま、男はずるりと崩れ落ちる。
命を素材呼ばわりしていた男が、今はただの人間みたいに崩れている。
気づけば、拳を握っていた。
……その程度で、うちの王にかなうと思うなよ。
ヴァルガルが一歩踏み出す。逃がすつもりは、ない。
トキシードの目が、見開かれた。
震える手が白衣の内側に伸びる。取り出したのは、小さな青い結晶。内側から光が滲んでいた。
「完全耐性のバイオシェルが……砕けた」
信じられない、という顔だった。
それでも、口元だけは歪んでいた。
「……面白い」
震える手で、結晶を握る。
「その力……必ず分解して、再現してやる」
結晶を握り潰した。
青い光が弾け、転移の術式が広がった。
光が消えた時には、白衣の男の姿はどこにもなかった。
残ったのは、焼けた石の臭いと、鎖の軋む音だけだった。
勝った。少なくとも、あの余裕の笑みは砕いた。魔狼王の領地も、取り戻した。
けれど、勝利に浸っている暇はなかった。
鎖に繋がれた魔狼たちが、まだ横たわっている。
ゆっくりと息を吐いた。
「……まずは、目の前の患者からだ」




