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第2話 魔狼王と、ぺたん

生暖かい風が、顔にかかっていた。


湿っている。獣の臭いがする。

土と血、それから舌の奥を痺れさせるような魔力の残り香。


背中が冷たい。岩の床だ。

体が重い。脇腹が鈍く痛む。


そうだ。

蹴られて、転移させられて、それから。


目を開けた。


金色の目があった。


近い。

俺の顔より大きい。

その下に濡れた鼻先。さらに下には、白い牙が並んでいる。


顔だけで、子牛くらいある。


「グルルル……」


喉の奥から、低い唸り。

音が、肋骨に直接響いた。


魔狼王だ。


治した。それは覚えている。

覚えているが、寝起きの目の前に牙があると、体は勝手に固まる。


目を閉じた。

呼吸を細くする。全身の力を抜く。


死んだふりだ。


……指は動く。

息もできる。肋骨も、たぶん無事。


薄目を開けて視線だけを動かして、くーちゃんを探す。


「きゅーん」


壁際を、てちてちと歩いている。臭いを嗅ぎ、岩の隙間を覗き込み、探検でも楽しんでいるような足取りだ。


よかった。無事だ。


その時、魔狼王の巨体が、くーちゃんの方へ動いた。


「くーちゃん!」


思わず跳ね起きる。


くーちゃんが振り向いた。

俺を見て、それから、すぐ横の魔狼王を見上げる。


逃げない。


その場で、ぺたん、と腹を床につけた。

前足を、まっすぐ前へ伸ばす。


「伏せてる場合か!」


魔狼王が、くーちゃんを見下ろしていた。


ゆっくりと、巨体が沈んでいく。


地面が揺れた。

砂埃が舞う。


巨大な前足が、ずずず、と前へ伸びる。


ぺたん。


……え?


四メートルの魔狼王が、ポメラニアンとまったく同じ格好をしていた。


通路の奥から、足音がした。

魔狼が三体、近づいてくる。魔狼王の様子を見るなり、三体とも床に伏せた。

お腹をぺたんとつけて、前足を伸ばして。


……いや、待て。完全に従ってる?


くーちゃんは、大きなあくびをした。


魔狼王も、あくびをした。

後ろの三体も、順番にあくびをする。


「……お疲れではないか」


魔狼王が祈るような仕草でくーちゃんの前に鼻先を下げる。


「先ほど、あれほどの光を放たれた。どうか、無理はなさらぬよう」


「きゅーん」


くーちゃんは、いつもの調子で鳴いた。


……もふもふ宗教か。教祖、犬なんだが。


現実逃避している場合じゃない。周囲を見る。


ここにいる魔狼は、王を入れて四体だけ。

毛並みは乱れ、耳の角度も低い。どの魔狼も、疲弊している。


……少なすぎる。


こんな数で群れをなすはずがない。


視線を感じて振り向くと、魔狼王がこちらを見ていた。さっきまでとは違う、静かでまっすぐな目。


そのまま、深く頭を垂れた。


「……神獣様と歩む者よ。我らは貴殿に救われた」


神獣様。


くーちゃんのことらしい。

さっきの白い光を思えば、否定はできない。


……ただ、歩む者というより散歩係ではある。


そこまで考えて、口には出さなかった。目の前の王は、本気で頭を下げている。


「俺のことは、トーマでいい。獣医のトーマ・ヴィタリスだ」


「では、先生とお呼びしよう」


その呼び方だけが、妙に耳に残った。

もう二度と、誰かにそう呼ばれることはないと思っていた。


「我が名はヴァルガル。この群れの王だ」


一拍置いて、続けた。


「……領地を焼かれた。仲間をやられた。そして我は捕らえられ、あの男に改造された」


静かな声だった。その分だけ重かった。


あの黒い鎖が、頭をよぎる。

背骨に沿って、命の奥まで食い込んでいたあの棘だらけの呪い。


刻んだのはサディウスだ。ただの拘束具じゃない。命そのものを歪める処置だった。


「先生のあの力は」


ヴァルガルの声が、わずかに低くなった。


「歪められた命を、修復していたように見えた」


俺は、思わず自分の手を見た。


「……あんな力を使ったのは、初めてだ」


まだ、手に感触が残っている。くーちゃんの光の中で見えた、黒い鎖の感触だ。


「あれを、夢中で断ち切っただけだ」


ヴァルガルは、一瞬だけ黙った。

金色の瞳が、くーちゃんへ向いた。


「神獣様は、契約した者と共鳴し、その内にある力を光で引き出すと聞く」


ヴァルガルは、低く続けた。


「先生の中にあった“命を修復する力”が、あの瞬間、形を得たのだろう」


ゲームなら、《共鳴スキル・生命修復》とか名前がつきそうだ。


当のくーちゃんは、岩の上に乗って周囲を見回している。たぶん、少し高いところに登りたかっただけだ。


「理屈は分かった。でも、まだ実感が追いついてない」


「それで構わぬ。ただ、あの光が我を救ったことだけは確かだ」


くーちゃんが岩の上から降りて、足元に来た。


「きゅーん」


いつものボーロ要求だ。


「ない。さっきので最後だ」


「きゃん!」


くーちゃんは、ぷいっと顔をそらすと、ヴァルガルの前脚にひょいと飛び乗り、そのまま丸くなった。


完全に座布団扱いだ。しかも高級毛皮の。


その時、通路の奥から足音が響いた。


一体の魔狼が、息を切らして駆け込んでくる。


「王! 入口に、ヴィタリス家の兵が集まっております!」


ヴァルガルの金色の目が細くなる。


「ダンジョンの入口を封鎖するつもりのようです。我らを外へ出さぬために」


……もう動いたのか。


いや、当然か。


処刑配信で全部見られていた。


俺が生きていることも。

魔狼王が正気に戻ったことも。


「数は」


ヴァルガルが短く問う。


「まだ揃っておりません。急ぎ招集している最中かと」


魔狼が顔を上げる。


「今なら、王の御力で突破できます」


逃げられる。外へ出られる。

生きて、この深層を抜けられる。


処刑されかけてから、初めて見えた出口だった。

ここにいる魔狼たちも、助かる。


「……ですが、王」


別の魔狼が、ためらうように口を開いた。


「領地には、まだ動けぬ仲間が残っております。連れ去られた者も」


ヴァルガルの耳が、ぴくりと動いた。


入口へ向かえば、ここにいる者たちは助かる可能性が高い。

先へ進み、領地へ向かえば、サディウスの手の内へ、自分から飛び込むことになる。


「王。いかがなさいますか」


ヴァルガルは答えなかった。


しばらく、何かを量るように黙っている。


やがて、その金色の瞳が俺に向いた。


「……先生なら、どうされる」


「領地に残ってる奴らは、生きてるんだよな?」


ヴァルガルは、少しだけ目を細めた。


「……まだ、息のある者はいるはずだ」


それで決まった。


「なら、領地だ」


魔狼たちの耳が動いた。


「まだ息があるなら、患者だ。置いて逃げるなんてできない」


くーちゃんがヴァルガルの前脚から飛び降りた。


「きゅーん!」


……お前もそう思うのか。


ヴァルガルは、しばらく俺とくーちゃんを見ていた。


やがて、牙を見せるように笑う。


「ならば、決まりだ」


巨体が立ち上がった。


「我らの領地を奪還する。残された同胞を取り戻す」


伏せていた魔狼たちが、一斉に立ち上がる。


「敵が待ち構えていようと関係ない。もう二度と、我が民を好きにはさせぬ」


低い唸りが、通路に重なった。


ヴァルガルが俺を見る。


「……共に来ていただけるか。先生。神獣様」


「聞くまでもない。患者がいるなら行く」


ヴァルガルが、深く頷いた。


***


ヴァルガルを先頭に、通路を進んだ。


ダンジョン深層の通路は、どこまでも同じ岩壁が続いていた。魔力が濃い。息を吸うたび、肺の奥に重さが沈む。


ヴァルガルの足は止まらない。巨体で、一歩ずつ確かめるように前へ進んでいた。

くーちゃんは俺の横を、てちてちとついてきていた。前を歩く魔狼の尻尾を見上げたり、岩の臭いを嗅いだり、忙しい。


……危機感、どこに置いてきた。


通路の先で、岩壁が途切れた。

天井が高くなり、重かった空気が上へ抜ける。前方には、崩れた石柱と、黒く焼け焦げた地面が広がっていた。


ヴァルガルが、止まった。

消えきらない魔法陣の光だけが、地面に薄く残っている。


「……あれか」


「……我が領地だ」


ヴァルガルの声は静かすぎて、逆に怖かった。


くーちゃんが、鼻をひくつかせた。


「……きゅ」


いつもの声じゃない。


風が吹き抜けた。

薬品と、焼けた毛の臭いを乗せて。


……これは。

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