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第36話 トキシード様は、いい人です?

翌朝、俺たちはトキシードを花洞窟へ連れていくことになった。


夜のうちに、アウレリアとフィーネには事情を伝えてある。

拒まれたら、その場で引き返す。処置の前には必ず説明する。魔力封じの枷は外さない。


その条件での、監視付きの移動だった。


左右に魔狼。前にヴァルフェリア。俺とくーちゃんが横。

魔力封じの枷をつけたトキシードが、その真ん中を歩いている。


「まるで重罪人の移送だな」


「まるで、じゃない」


トキシードは少し黙った。それから、前を向いたまま言った。


「逃げたとして、どうなる」


「噛む」


ヴァルフェリアが即答した。


「君は本当に噛むのだろうな」


「うん」


「交渉の余地がない」


くーちゃんが俺の腕の中で鼻をひくひくさせた。

花洞窟が近い。


「女王とフィーネが拒んだら、そこで終わりだ」


「患者が医師を選ぶ権利か。実に倫理的だな」


「違う。命を預ける相手を選ぶ権利だ。そこは譲らない」


トキシードは少し黙った。


「……君たちらしい」


***


花洞窟に入った瞬間、気づいた。


前に来た時より、甘い匂いが薄い。洞窟の奥から聞こえる羽音も弱い。花の色がくすんでいた。


「きゅ……」


くーちゃんが、不安そうに鼻を鳴らした。


トキシードが立ち止まった。


「巣全体の循環が落ちているな」


「まだ見てもいないのに分かるのか」


「音が少ない。蜜の匂いが薄い。働き蜂の動線が崩れている」


嫌な男だ。

でも、観察眼は本物だった。


洞窟の奥から、細い声がした。


「止まってください」


フィーネだった。

トキシードを見て、羽がぴんと張った。


「先生。その方は……」


「フィーネ。昨日話した研究者だ。俺たちは、こいつを信用していない。許してもいない」


俺は、トキシードではなくフィーネを見た。


「女王とあんたが拒むなら、ここで帰る。使うかどうかは、君たちが決めてくれ」


沈黙。


フィーネの視線が、トキシードに向いた。


「あなたに、本当に女王様を救う力があるのですか」


「力ではない。仮説、観察、検証、そして頭脳だ。祈りで救えるなら、君たちはとっくに救われている」


フィーネは、槍を握ったままトキシードを見た。


「……つまり、曖昧な希望ではなく、本当に救う方法を探すということですね」


「そうは言っていない」


……フィーネ、強い。


トキシードの嫌味が、善意として処理されている。


***


アウレリアの巣房は、前より静かだった。


働き蜂の姿が少ない。

花粉の蓄えも薄い。

蜜蝋の壁に、わずかに変色した部分があった。


アウレリアは、静かにトキシードを見た。


「あなたは、私を治せるのですか」


「治せない」


即答だった。


「削れた蜜脈は戻らん。寿命を巻き戻す方法もない」


フィーネが青くなった。


トキシードは続けた。


「だが、削れる速度を落とす仮説はある。次代女王が育つまで持たせる。それが現実的な目標だ」


アウレリアは静かに目を細めた。


「それは、未来を繋ぐ方法ですね」


「美化するな。ただの延命だ」


「延命とは、次の花を見る時間をいただくことです」


トキシードが少し黙った。何も言わなかった。


アウレリアが、静かに言った。


「条件があります」


「この巣の命を、素材として扱わないこと。何をするのか、先生に隠さないこと」


「……条件が多いな。まあいい」


トキシードは一拍置いた。


「……巣房を見せろ」


フィーネはまだ警戒したまま、女王の横に立った。


「女王様が許すなら、私も従います。ただし、少しでも危険なことをしたら——」


「噛む」


ヴァルフェリアが言った。


「女王やフィーネを怖がらせたら許さない」


アウレリアが、小さく笑った。


***


トキシードの調査が始まった。


巣の壁を叩き、蜜蝋の色を確かめ、働き蜂の羽音に耳を澄ませる。

言葉は最悪だったが、手つきは乱暴ではなかった。


「蜜蝋の層が薄い。巣が、女王から流れる王蜜を受け止めきれていない」


トキシードは、壁に指を当てた。


「このまま女王だけに作らせれば、蜜脈が先に切れる」


フィーネの羽が、ぴくりと震えた。


「では、女王様は……」


「このままなら死ぬ」


「トキシード」


俺が低く言うと、トキシードは肩をすくめた。


「事実だ。だが、回避する仮説はある」


全員の視線が集まる。


「女王が一人で背負っている王蜜生成の負荷を、巣そのものに逃がす。簡単に言えば、女王の代わりに少しだけ息継ぎをする核を作る」


「……女王様の、補助ですか」


フィーネが、小さく言った。


「そうだ。雑に呼ぶなら、王蜜補助機だ」


「王蜜補助機……」


「何を感心している? 正式名称にするなよ」


「でも、分かりやすいです!」


***


王蜜補助機の試作は、すぐには進まなかった。


清泉水、蜜蝋、女王の王蜜を一滴。

巣房の温度と湿度。


トキシードは何度も組み替えた。


試作品は泡を吹いて崩れた。

壊れた蜜蝋片だけが、作業台の端に増えていく。


フィーネは、黙って見ていた。


トキシードは、蜜蝋片を雑に扱わなかった。

幼虫の近くでは手を止め、女王の呼吸が乱れる前に接続を外す。


一度だけ、「素材」と言いかけて、「巣材」と言い直した。


「何を見ている」


「……怖い人なのか、確かめています」


「見れば分かるだろう」


「見ているうちに、分からなくなってきました」


フィーネは、少しだけ首を傾げた。


「トキシード様は……いい人です?」


トキシードは、心底不快そうに眉を寄せた。


「違う。私は断じて善人ではない」


その翌日から、フィーネは蜜蝋板に何かを書き始めた。


「何を書いている?」


「記録です。トキシード様の行動を」


「やめろ」


トキシードが即座に言った。


フィーネは手を止めなかった。


「……私は観察する側のはずなのだが」


トキシードは、珍しく困った顔をした。


「金蜜蜂族は、私の想定を妙な方向に超えてくる」


***


十二日目。


王蜜補助機の試作版が完成した。


金色の蜜蝋で作られた、小さな巣核。

中心には、清泉水を満たした小瓶。

見た目だけなら、綺麗だった。


「これで女王様は……」


「救えるとは言っていない。負荷を逃がせるか試すだけだ」


「それでも、期待します」


トキシードは答えなかった。


アウレリアが静かに目を開けた。


「私は、構いません」


「無理が出たら、すぐ止める」

俺は言った。


「君は命の限界を見たまえ、あの力で。私は巣の流れを見る」


「分かった」


俺はくーちゃんを見た。


「くーちゃん、頼む」


「きゅ!」


くーちゃんがボーロを食べる。

白い光が広がり、視界が切り替わった。


黒い鎖は、やはり見えない。


代わりに、アウレリアの胸元から巣全体へ伸びる、細い金色の糸が見えた。

王蜜を生み出すたびに削れていく、命の流れ。


「蜜脈は細い。かなり危ない」


「わかっている」


トキシードが、王蜜補助機の管を巣房の壁へ差し込んだ。


アウレリアが、小さく息を呑んだ。


「負荷、上がってる」


「まだ許容範囲だ」


「慎重にやれ」


「言われなくても分かっている」


王蜜補助機が、ゆっくりと脈打ち始めた。


最初は、うまくいくように見えた。


薄かった蜜の匂いが、ほんの少し戻る。

働き蜂の羽音が、わずかに揃う。


フィーネの顔に、希望が浮かんだ。


「女王様……」


その瞬間だった。


金色の糸が、跳ねた。


「負荷が跳ねた!」


王蜜補助機の中心が、強く光る。

光が鋭くなり、棘のように蜜脈へ刺さろうとした。


「止めろ!」


「まだだ。流れを見ている」


「止めろ、トキシード!」


くーちゃんが、俺の腕の中で鳴いた。


「きゃん!」


俺は王蜜補助機の管を掴み、引き抜いた。


ぱきん、と音がした。


王蜜補助機の光が、霧のようにほどけて消えた。

アウレリアが、浅く息をした。


「女王様!」


フィーネが駆け寄る。


アウレリアは目を開けた。

けれど、顔色はさっきより悪い。


「……大丈夫です。少し、驚いただけです」


「大丈夫じゃない」


俺は言った。


くーちゃんが、アウレリアのそばで悲しそうに鳴いた。


「きゅ……」


トキシードは、壊れた王蜜補助機を見下ろしていた。いつもの嫌味はなかった。


「……失敗だ」


その声は、低かった。

だが、目だけは冷たく動いていた。


「原因は見えた。水でも、蜜蝋でも足りない。流れを受け止めるものがない」


「受け止めるもの?」


「蜜脈の負荷が、逃げずに跳ね返った。補助機が、女王を支える前に女王を傷つける」


フィーネが、唇を噛んだ。


「では……」


トキシードは答えなかった。

あの男が、黙った。


巣房に、弱い羽音だけが残った。


王蜜補助機・試作版。


それは、女王の命を繋ぐどころか、蜜脈を切りかけて終わった。

王蜜補助機・試作版は、失敗しました。


女王を助けるための選択が、逆に命を傷つけかける。

トーマたちは、まだ正解に届いていません。


次回。

突破口を持ってくるのは、なぜか選ばれし水守り(みずにえらばれてない)です。

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