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第35話 最悪の研究者を、使う

王の間が、重かった。


金蜜蜂族の女王アウレリアを救う方法。

その手がかりを、牢のトキシードが持っているかもしれない。


だが、あの男は魔狼たちを素材と呼んだ研究者だ。


命を削った蜜は、もらえない。

けれど、女王を救うために、あの男の知識を借りるのか。


それだけで、空気は冷えていた。


ガルド爺とミルナは、ボーロ工房に戻っている。

工房は工房で、金蜜蜂の蜜以外に香りを上げる方法を探す必要があった。


こちらは、最悪の選択肢と向き合う。


「飲めぬ」


ヴァルガルが、最初に言った。


「あの男は、我が同胞を素材と呼んだ。その手を借りるなど、考えるべきことでもない」


「私も反対よ」


リュシアが続けた。声は静かだが、目が違った。


「あの男の言葉に、聞く価値があるとは思えない」


「嫌」


ヴァルフェリアが一言で切った。


「蜂の女王が怖がる」


全員が俺を見た。


……俺だって、行きたいわけじゃない。


トキシードは嫌いだ。信用できない。

できることなら、あの牢の奥で一生黙っていてほしい。


でも、アウレリアの顔が浮かんだ。


治せなくても見捨てなかった、と言った声。

フィーネの震えた手。

くーちゃんの悲しそうな鳴き声。


俺には治せなかった。


それなら、俺にできることは一つだけだ。


自分の手で治せないからといって、他の可能性まで捨てない。


「俺は行く。信じるためじゃない。可能性を捨てないためだ」


***


牢は拠点の奥にある。


魔力封じの結界と、魔狼の見張り。扉の前に立つと、中から声がした。


「やっと来たか。退屈で死ぬところだったよ」


トキシードは、汚れた白衣を着たまま壁に背を預けていた。姿勢だけは崩れていない。


「死なせないってヴァルガルが言っただろ」


「そうだったな」


トキシードは、口元だけをわずかに歪めた。


「実に残酷な処罰だ」


それから、俺を見た。


「サディウス様を破滅させるとは、なかなかやる。上司を失い、研究施設も失い、王都に戻っても研究はできない。つまり私は、ここでしか頭脳を使えない」


「それで?」


「不本意だが、君たちには幸運だ」


トキシードは、薄く笑った。


「私ほど優秀な研究者が、檻の中で暇を持て余している。必要なら、その頭脳を君たちのために役立ててやってもいい」


ヴァルフェリアが、低く言った。


「嫌い」


トキシードは気にしていない。


「勿体ぶらずに本題に入れ。金蜜蜂族を助ける方法があると言ったな」


「正確には、仮説がある」


全員の眉が動いた。


トキシードは続けた。


「女王個体は、王蜜生成によって蜜脈を消耗している。君の生命修復では治せなかった。黒い鎖が見えなかったのだろう?」


「……なぜ知っている」


「観察だ。牢にいると、それくらいしかすることがない」


カゲツが壁際から言った。


「牢の中でも情報収集か。性格悪いな」


「知性が高いと言ってくれ」


「どうすれば助けられる?」


トキシードは笑った。


「それを、ここで私が話すと思うのかね」


「答えろ!」


「断る」


一瞬、全員が固まった。それから、空気が冷えた。


「交渉する気がないなら、俺たちも話す気はない」


「そうかな?」


トキシードは、指を一本立てた。


「私を牢から出せ。監視付きで構わない。そうすれば、仮説を検証してやる」


「女王の命を、取引材料にする気か」


「違う。仮説を検証するための条件を提示している」


トキシードは、表情を変えなかった。


「巣を見せろ。作業場を用意しろ。話はそれからだ」


一拍置いて、トキシードは続けた。


「君たちにできるのは二つだ。私を使うか、使わずに女王が死ぬのを待つか」


ヴァルガルが立ち上がった。


「飲めぬ」


低い声だった。


「女王を助けたい。だが、命を材料のように扱う男に、巣を触れさせるなど認められぬ」


「私も反対よ」

リュシアが、扉の前から一歩離れた。


「トキシード。お前は、なんでその仮説を検証したいんだ? 女王が助かっても、お前に得はないだろ」


トキシードは、少し黙った。


「素材説が破れたからだ」


「……素材説?」


「命は、性質を抜き出し、配合し、制御すれば使える素材だ。そう考えていた。防衛術式も、毒も、改造魔獣も、その延長線上にある」


トキシードは、不快そうに俺とくーちゃんを見た。


「だが、君たちは違った。君だけでも、神獣だけでも、あのボーロだけでも説明できない。君の意志、神獣、食物、患者。その循環が、命の状態を変えている」


「俺たちが、その仮説を壊したのか」


「そうだ。壊された仮説は、修正しなければならない。それを怠る者は、研究者ではない」


「命とは、素材ではなく循環として扱うべきだ。少なくとも、その方が現象に合う」


謝罪ではない。反省でもない。

でも、その循環という言葉だけは、俺の中に引っかかった。


獣医だった頃も、そうだった。

動物だけを診ても治らないことがある。


餌。

水。

飼い主との関係。

暮らしている環境。


命は、体だけで完結していない。


だから、トキシードの言葉は腹立たしいほど正しかった。


「だから検証したいのか」


「そうだ。崩れかけた循環に、どこまで介入できるのかを」


嫌な男だ。


でも、こいつは女王だけを見せろとは言わなかった。

巣を見せろと言った。


そこだけは、正しかった。


こいつが魔狼たちにしたことも、命を素材と呼んだことも、消えはしない。


それでも、アウレリアの静かな目が頭から離れなかった。

フィーネの震えた声も。

くーちゃんの悲しそうな鳴き声も。


俺には治せなかった。


なら、次にするべきことは一つしかない。


自分の手に負えないなら、別の手段へ繋ぐ。

専門医に頼る。助かる可能性を捨てない。


それが、命を診る仕事だった。

たとえ、その専門医が最悪の白衣でも。


俺が黙っていると、くーちゃんが一歩前に出た。


トキシードの前で、止まる。


尻尾は振っていない。

耳も、少し伏せている。


でも、逃げなかった。


「きゅ……」


好きではない。許しているわけでもない。

それでも、完全には拒んでいない。


くーちゃんも、アウレリアを諦めていなかった。


「……俺は、試してみたい」


牢の前が、静まり返った。


「こいつの仮説で、女王の命を繋げられるか」


俺は、トキシードを見た。


「許すわけじゃない。信じるわけでもない。俺に治せなかった命を、ここで諦めないためだ」


カゲツが手帳を閉じた。


「こいつを使わずに女王が死んだら取り返せないからな。嫌な話だが、選択肢は多い方がいい」


リュシアが静かに言った。


「私は反対よ。でも、先生が使うと決めるなら、私は監視する」


「私も見る」


ヴァルフェリアがトキシードを見た。


「蜂の女王に怖いことしたら、噛む」


「……君は本当に噛みそうだな」


「うん」


ヴァルガルが前に出た。


「我は、お前を許さぬ。だが、先生が見捨てぬ命を、我が怒りで潰すわけにはいかぬ」


金色の目が、真っすぐにトキシードを見た。


「先生の監視下でのみ、牢の外へ出ることを許す。一度でも命を弄べば、今度こそ、お前の研究ごと潰す」


トキシードは、少しだけ口角を動かした。


俺は、その笑みを無視して条件を告げた。


「魔力封じの枷は外さない。患者に触れる時は許可を取れ。女王とフィーネの同意も取る。命を素材扱いする処置をしたら、その場で終わりだ」


「ずいぶん条件が多いな」


「嫌なら牢に戻れ」


トキシードは、しばらく黙っていた。


「……不満だらけだ」


「だが、牢よりはましだろ」


魔狼の一体が、牢の扉を開けた。


トキシードが、一歩外へ出る。


魔狼たちの視線が突き刺さる。

リュシアが腕を組む。

ヴァルフェリアが半歩前に出る。

くーちゃんは、俺の足元からじっと見ていた。


歓迎する者は、一人もいなかった。


それでもトキシードは、周囲の視線を浴びながら、白衣の襟を軽く払った。


「では、仮説の検証を始めようか」


最悪の研究者が、牢の外へ解き放たれた。


それは、どう考えても危険な選択だった。


けれど、この選択がやがて女王の命だけでなく、領地の明日まで繋ぐ一手になるとは。


その時の俺たちは、まだ知らなかった。

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