第34話 見えない鎖と、治せない女王
金蜜蜂族に会いに行く。
そう決めた翌朝、俺たちは花洞窟へ向かう準備をしていた。
神獣ボーロを一つ星で終わらせないために、香りのいい蜂蜜が必要だった。
だが、地図は古く、ヴァルフェリアの記憶は味に偏っていた。
「情報が少なすぎるな」
「あの蜂蜜は深かった」
「味の話じゃない」
そう言いかけた時だった。
工房の窓に、小さな音がした。
こつん。
くーちゃんが耳を立てる。
「きゅ?」
窓辺に、金色の何かが落ちていた。
小さな蜂だった。
片方の羽が欠けている。
蜜を探しに来た、というより、助けを求めて、ここまで飛んできたように見えた。
俺は、そっと指先に乗せた。
「……まだ息はある」
くーちゃんが、心配そうに鼻を近づけた。
「きゅ……」
俺は神獣ボーロをくーちゃんに差し出した。ぱくりと食べる。白い光が広がる。
視界が切り替わった。
蜂の小さな体に、黒い鎖はなかった。
羽の根元に細い傷。体内の蜜は薄い。
「怪我と、衰弱だな」
指先に水を一滴落とす。清泉水だ。
ミルナが、慌てて小皿を持ってきた。
「神獣ボーロの粉を、ほんの少し溶かしますか?」
「頼む」
清泉水に、神獣ボーロの粉をほんの少しだけ溶かした。蜂の前に置く。
金色の蜂が、前脚を伸ばした。
ゆっくり、飲む。
羽の震えが、ほんの少しだけ落ち着いた。
「助かりそうですか?」
ミルナが小さく聞いた。
「この子は大丈夫だ」
「この子は?」
俺の言葉に、工房が少し静かになった。
蜂は、俺の指先で羽を震わせた。
飛ぼうとして、一度浮きかける。
だが、すぐに俺の指へ戻ってきた。
「無理するな」
「きゅ……」
くーちゃんが、心配そうに鼻を近づける。
その時、金色の蜂が、くーちゃんの周りをゆっくり一度だけ回った。
飛んだ、というより。
最後に残った力で、方角を示したように見えた。
そして、工房の奥ではなく、領地の奥へ向かって小さな体を傾ける。
「……案内してるのか」
「きゅーん」
ミルナが、慌てて小さな薬瓶を空にした。
清泉水を少しだけ残し、柔らかい布を敷く。
「この中なら、揺れにくいと思います」
「助かる」
俺は蜂をそっと瓶の中へ移した。
金色の蜂は、弱々しく羽を震わせながらも、瓶の中で同じ方角を向いていた。
カゲツが、蜂の向いている方角を見た。
「領地の奥だな。地図の花洞窟の方角と同じだ」
「金蜜蜂族の巣か」
「ああ。だが、この状態で助けを求めに来たなら、巣に何かあったんだろう」
ヴァルフェリアが、蜂を見ていた。
「匂いが薄い」
「蜂蜜の?」
「命の」
その言い方に、少しだけ胸が重くなった。
星を上げるための香りを探す話では、もうなくなっていた。
目の前にいるのは、助けを求めてきた命だった。
「行こう。花洞窟へ」
行くのは、俺とくーちゃん。方角を示す金色の蜂。そして、花洞窟を知っているヴァルフェリア。
リュシアとカゲツには拠点の監視を頼み、俺たちは蜂の示す方角へ向かった。
***
花洞窟は、拠点の奥にあった。
本来なら甘い香りが満ちているはずの場所だ。
でも今は、花が半分枯れていた。
くーちゃんが鼻をひくひくする。
「きゅ……」
不安そうだ。
ヴァルフェリアも眉を寄せた。
「さっきより薄い」
「命の匂いか」
「うん」
洞窟の奥へ進もうとした、その時。
「止まってください!」
細い声が、洞窟に響いた。
小柄な金蜜蜂族の少女が、槍を構えていた。
金色の髪。透明な羽。黒と金の軽装。
羽は震えている。
それでも、槍の穂先は下がっていなかった。
「女王様には、指一本触れさせません」
ヴァルフェリアが一歩前に出た。
「蜂蜜を分けてほしい」
「言い方」
「略奪者……!」
緊張が走った。
その時、くーちゃんが前に出た。
「きゅーん」
少女の目が、くーちゃんに向いた。槍が、わずかに揺れた。
「も、もふもふ……?」
尻尾が振られた。
少女の警戒が、少しだけ崩れた。
俺は言った。
「蜂蜜を奪いに来たんじゃない。話をしに来たんだ」
少女は迷った。
そこへ、さっき俺たちが応急処置した金色の蜂が、くーちゃんの周りを飛んだ。何かを伝えるように。
少女が、ゆっくりと槍を下ろした。
「……女王様に、確認します」
***
奥の巣房に、女王がいた。
アウレリア・ミエル。
淡い金髪に、透き通った薄い羽。
体は頼りないほど軽そうなのに、声だけは静かに澄んでいた。
巣全体が弱っていた。
働き蜂は少なく、幼虫の動きも鈍い。
「ようこそ。小さな子を助けてくださった方」
アウレリアが言った。
「蜂蜜を求めて来られたのですね」
俺は言いにくくなった。
「……そうだ。でも、先に診せてくれ。あんた、かなり悪い」
近衛の少女、フィーネが前に出た。
「女王様の診察が必要かどうかは、我らが——」
「フィーネ」
アウレリアが、静かに遮った。
「良いのです」
アウレリアが説明してくれた。
金蜜蜂族の女王は、王蜜で群れを支えている。
それが薄くなれば、幼虫は育たず、働き蜂も長く飛べない。
「最近、その王蜜がほとんど作れなくなりました」
アウレリアは、自分の胸元にそっと手を当てた。
「蜜脈が、もう応えてくれないのです」
フィーネが、唇を噛んだ。
「そんなはずありません。女王様は、まだ……」
「フィーネ」
アウレリアが、優しく遮った。
「先代の記録では、ここまで蜜脈が薄くなった女王は、三か月を持ちませんでした」
フィーネが、黙った。
声が震えていた。
「命は、蜜のように次へ渡すものです」
アウレリアは、穏やかに微笑んだ。
「そう教えられてきました」
ヴァルフェリアが、俺を見た。
「先生がいる。お父様も、私も、リュシアも助かった。だから女王も助かる」
真っ直ぐな目だった。
純粋に、俺を信じていた。
フィーネの目にも、希望が灯った。
「本当ですか……?」
「診てみないと分からない」
俺は、くーちゃんを見た。
「やるぞ、くーちゃん」
「きゅ!」
ポケットのボーロをくーちゃんに差し出した。
ぱくりと食べる。
白い光が広がった。
視界が切り替わる。
いつもなら、黒い鎖が見える。
呪い。奴隷契約。毒。
歪められた命には、必ず鎖がある。
でも。
見えない。
アウレリアの体を巡る蜜脈は、細く、薄く、今にも途切れそうだった。
けれど、黒く濁ってはいない。
誰かに壊された痕跡もない。
これは、歪められた命じゃない。
女王として群れを支えるために、使い続けて、削れていった命だ。
「……鎖がない」
「え?」
フィーネが聞き返した。
「俺の力は、命の歪みを整える力だ。呪いや毒、絡まった術式をほどく。でも、これは違う」
言葉が、喉に引っかかった。
「女王として王蜜を作り続けた、自然な消耗だ」
「治せない、のですか」
フィーネの声が、かすれた。
「きゅーん……」
くーちゃんが悲しそうに鳴いた。
ヴァルフェリアが、何かを言おうとして、言えなかった。
アウレリアが、静かに言った。
「分かっていました」
穏やかだった。取り乱さなかった。
「それでも、診てくださってありがとう」
「……ごめん」
「謝らないでください」
アウレリアは、小さな蜜壺を差し出した。
「せめて、お礼に。少量ですが、蜂蜜を」
「受け取れない」
俺は首を振った。
「今のあんたたちに必要なものだ。命を削った蜜なら、なおさら受け取れない」
フィーネが、少しだけ目を見開いた。
蜂蜜を分けてもらう話は、もう終わっていた。
***
帰り道、三人とも黙っていた。
ヴァルフェリアは何も言わず、くーちゃんも俺の腕の中でじっとしていた。
……治せない命がある。
分かってはいた。
それでも、三か月という言葉は重かった。
拠点に戻り、王の間で報告した。
全員が静かに聞いた。
金蜜蜂族は絶滅寸前だった。
女王は群れを支えるために命を削り続け、その消耗は俺の力では戻せない。
ミルナが、小さく言った。
「蜂蜜があれば、ボーロが改良できると思っていました。でも、そんなふうに作られた蜜なら……」
言葉が、そこで途切れた。
「命を削った蜜なら、もらえん」
ガルド爺が、静かに言い切った。
カゲツが、帳面を閉じた。
「先生が治せないなら、厳しいな」
場が重くなった。
その時、扉の外から魔狼の一体が入ってきた。
「先生!」
魔狼が、言いにくそうに続けた。
「牢のトキシードが、話があると」
空気が変わった。
「今はそれどころではない」
ヴァルガルが言った。
「あの男の話なら後でいい」
リュシアも続いた。
「蜂の女王が先よ」
魔狼が、さらに言いにくそうに言った。
「それが……」
全員が見た。
「金蜜蜂族を助ける方法について、話があるとのことです」
久々に登場、トキシード。
第7話で捕らえてから、彼はずっと牢の中にいました。
トーマでは治せなかった命に、あの男は何を提案するのか。
次回、牢の研究者と向き合います。




