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第29話 神獣ボーロ、疑われる

朝から、ボーロ工房は静かだった。


昨日の偽動画は、もういくつもの掲示板に貼られていた。


神獣ボーロは洗脳食。

子どもに強制給餌。

魔物領地が、水と食料で村を支配している。


文字だけ見れば、よくできた筋書きだった。


だからこそ、腹が立った。


振り返ると、ミルナが作業台の前で止まっていた。


手元には、丸めかけの生地があった。

指先に粉がついたまま、動いていない。


「ミルナ」


ミルナが顔を上げた。青ざめていた。


「……これ」


小さな声だった。


「私、昨日と同じように丸めているだけなのに」


指先の生地を見る。


「怖いものを作っているみたいに、見えてしまって……」


「神獣様に食べていただいて、ニナちゃんにも、美味しいって言ってもらえて」


ミルナの耳が、少し伏せる。


「やっと、私にもできることがあったって思ったんです」


丸めかけの生地が、少しだけ潰れた。


「でも、あれを見た人には……これが、子どもを騙すものに見えるんですね」


ガルド爺が、粉を一握り取った。


「……食い物を、嘘で汚すか」


声は静かだった。


「それは職人への侮辱だけではない。食べた者への侮辱だ」


粉が、ふるいに落ちる。

ガルド爺の手が、ゆっくり動き始めた。


俺は、作業台の上のボーロを一つ取った。


「これは、怖いものじゃない」


ボーロを、指先で転がす。


「俺は見た。くーちゃんが食べた。ニナが笑った。母親も、ちゃんと自分の目で見てから頷いた」


ミルナの喉が、小さく動いた。


「でも……みんなが、あの動画を信じたら」


「それでも、昨日あったことまでは消えない」


俺は続けた。


「お前が丸めたものを食べて、子どもが笑った。それは本当だ」


ミルナが、俯いた。


「……本当、ですか」


「ああ」


くーちゃんが、試食席から身を乗り出した。


「きゅーん」


ミルナが、少しだけ目を瞬いた。


「……神獣様が」


「何て?」


「ボーロもう一個ください、です」


「通常営業だな」


ミルナが、ほんの少しだけ笑った。


***


休憩スペースに戻ると、リュシアがまだ画面を見ていた。


俺が隣に座っても、いつものようには笑わなかった。


「こういう嘘で、人は殺せるの」


静かだった。

静かすぎて、怖かった。


「リュシア」


「ダークエルフは、そうやって減った」


俺は、何か言おうとして、やめた。


慰めるには早い。

否定するには、何も知らなすぎる。


「聞いてもいいか」


リュシアは、少しだけ目を伏せた。


「……途中で、軽いことを言わないでくれるなら」


「ああ。言わない」


「じゃあ、少しだけ」


リュシアは、端末の黒い画面を見た。


「最初に消えたのは、道だった」


「どういうことだ?」


「商人が来なくなった。薬が届かなくなった。村の門が閉じた。誰も、ダークエルフを見なくなったの」


「人を惑わす。子どもを攫う。闇の食べ物で村を堕とす」


リュシアの指が、端末の縁を掴んだ。


「誰かが作った嘘を、誰かが本当みたいに語る。それだけで、村は扉を閉める。商人は道を変える。兵士は剣を抜く」


少しだけ、息を吸う音がした。


「そのあとに、火が来た」


くーちゃんが、小さく鳴いた。


「きゅ……」


「……逃げられたのか」


「逃がされたの」


リュシアは、端末の黒い画面を見ていた。


「森を抜けて、街まで行った。耳を隠して、肌を隠して、名前も変えたわ」


「……つらかったな」


「ええ」


少しだけ、目を伏せる。


「でも、街外れに古い雑貨屋があったの。お爺さんとお婆さんが二人でやっている、小さな店」


「……その人たちが、匿ってくれたのか」


「匿う、というほど立派なものではなかったと思うわ」


リュシアは、薄く笑った。


「私が何者か、たぶん気づいていた。でも、何も聞かなかった。ただ、倉庫の隅に毛布を置いてくれた」


「優しい人たちだったんだな」


「優しかったわ。でも、怖がってもいた」


リュシアの声は静かだった。


「だから、私も長くはいられなかった。迷惑をかけるわけにはいかなかったから」


「……そうか」


「でも、その店に古い端末があったの」


こんな話の中に、急に端末という言葉が出てきて、少しだけ現実感がずれた。


「夜になると、その端末から街の声が流れてきた。ダークエルフは子どもを攫う。見つけたら通報しろ、って」


リュシアの指が、端末の縁を掴んだ。


「でも、その古い端末から、一つだけ違う声が聞こえた」


リュシアの指先が、そこで少しだけ止まった。


「蒼猫ちゃんねる」


「……配信者か」


「馬鹿みたいに明るい声だったわ」


リュシアは、ほんの少しだけ笑った。


「今日も生きてるだけでえらいにゃん、って」


俺は、何も言えなかった。


「最初は腹が立った。何も知らないくせにって。こっちは息をするだけで精一杯だったのに」


リュシアの声が、少しだけ揺れた。


「その声を聞いている間だけ、私は化け物じゃなかった」


リュシアは、黒い画面を見たまま言った。


「誰も私の耳も、肌も、名前も知らなかった。ただ、画面の向こうで馬鹿みたいに笑っていた。生きてるだけでえらいって、何でもないことみたいに言っていた」


指先が、端末の縁をなぞった。


「その夜だけは、息をしてもいい気がしたの」


リュシアは笑おうとした。


けれど、うまく笑えていなかった。


俺は、その言葉を頭の中で何度か転がした。


一晩だけ、死なずに済んだ。


「それは、治療だったんだと思う」


リュシアが、俺を見た。


「治療?」


「ああ。薬でも、包帯でもない。でも、一晩生きる理由になったなら、それは治療だ」


「……配信が?」


「少なくとも、俺はそう思う。命って、体だけで続いてるわけじゃないからな」


リュシアは、何かを言いかけて、やめた。


「先生は、そういうことを平気で言うのね」


「平気じゃない」


「じゃあ?」


「本気で言ってる」


言ってから、少しだけ息を吐いた。


「……その一晩を越えてくれて、よかったと思ってる」


リュシアの紅い瞳が、揺れた。


いつものように笑って、からかって、距離を取る。

たぶん、そうしようとしたのだと思う。


でも、うまくいかなかった。


リュシアは、俺から逃げるように、端末の黒い画面へ視線を落とした。


「そんなふうに言われたら、この領地で、ずっと生きていたいって思ってしまうから」


軽く返せば、嘘になる。

重く返せば、縛ることになる。


でも、否定だけはしたくなかった。


「……思えばいい」


言ってから、少しだけ自分でも驚いた。


リュシアも、目を見開いていた。


「……先生は、そういうところがずるいのよ」


リュシアは、小さく息を吐いた。


「私は、そういう場所を持たないようにしてきたんだから」


その夜、リュシアは配信をしなかった。


ただ、端末の赤いランプを消したまま、長いあいだ画面を見ていた。


くーちゃんは、その足元で丸くなっていた。

ときどき、夢を見るみたいに尻尾だけを揺らしていた。


***


翌朝。


ボーロ工房には、いつもの匂いが戻っていた。


粉の匂い。

火の匂い。

清泉水で淹れた月灯草茶の匂い。


リュシアは、作業台の前に立っていた。


昨日のような震えは、もう指先にはなかった。

ただ、紅い瞳の奥に、静かな怒りと、決意だけが残っていた。


「方針を決めたわ」


カゲツが手帳を開く。


「反論動画を出すか?」


「出さない」


リュシアは即答した。


「洗脳食じゃありません、強制していません、虐待していません。そう繰り返すほど、嘘の言葉をこちらの口で広げることになる」


カゲツの指が、手帳の上で止まった。


「……で、どうする」


「否定しない。映すだけよ」


リュシアは、静かに言った。


「子どもが自分で手を伸ばすところ。親が見守るところ。ミルナが普通に焼くところ。ガルド爺が普通に怒るところ。くーちゃんが普通に寝るところ」


「……それだけか」


「ええ。それだけ」


リュシアは、端末の赤いランプを見た。


「タイトルも煽りもいらない。ただの日常に、名前はいらないわ」


くーちゃんが、試食席で丸くなった。


「きゅ……」


「……寝てるだけだぞ」


「ええ」


リュシアは、少しだけ笑った。


「嘘は動きすぎる。日常は、動かないから強いの」


くーちゃんは、もう目を閉じていた。


「それが、一番強いのよ」

次回。


嘘は、派手に動く。


なら、こちらは動かない。


まさかの方法で、偽動画に対抗します。


くーちゃん「……作戦中ワン」

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