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第25話 選ばれし水守りと、溺れかけの村

畑が、沈んでいた。


清泉村に着いて、最初に見えたのはそれだった。


水面から、折れた葉だけが覗いている。

止まった水車。傾いた橋。家の前に積まれた土嚢。


村人たちは、全員泥だらけだった。

靴も、裾も、手も。乾いている場所を探す方が難しい。


子どもが、母親の後ろでこちらを見ていた。

顔色が悪い。腹が空いているだけじゃない。冷えと疲れが混じっている。


「食料難だけじゃないな。水害で村が弱ってる」


カゲツが手帳を開いた。


「そこへ、“魔物領地が水を奪いに来る”って噂。できすぎてる」


「アイズか」


「ああ。俺達の信用を潰しにきてる」


リュシアが配信端末を確認した。

けれど、すぐには起動しなかった。


「顔は映さない。困っている姿も、見世物にはしない」


「記録は残すのか?」


「ええ。何をしに来たのか。何をしたのか。それだけは、後で嘘にされないように残す」


「ああ、そうしよう」


くーちゃんが俺の腕の中で、鼻をひくひくさせた。


「きゅ……」


いつものボーロ要求の声じゃない。


畑も、人も、家畜も、濡れたまま弱っている。

このままでは、長くもたない。


「……この村、溺れかけてる」


「……診てるな、先生」


カゲツが小声で言った。


その時、村の入口で男たちが立ちはだかった。


「止まれ!」


「魔物領地の連中だ。やっぱり来やがった」


「水を奪いに来たんだろ」


くーちゃんが、俺の腕の中でしょんぼりした。


「きゅ……」


「奪いに来たんじゃない。水を分けてもらうために、話をしに来た」


村人が顔を見合わせた。


そこへ、声がした。


「止まれ、外から来た者たちよ」


泥まみれの外套を払って、中年の男が前に出た。

胸だけは、やけに張っている。足元は水浸しだった。


「この清泉村の水は、村長である我が守る!」


一拍。


「この選ばれし水守り(みずにえらばれてない)、バルグレイ・カイゼルがな!」


足元の泥で、カエルが一匹、ころんとひっくり返った。


……たぶん、水には選ばれてない。


「先生。面倒なタイプだ」


カゲツが小声で言った。


「見れば分かる」


バルグレイがリュシアを見た。

鼻の下が伸びた。


「しかし、美しき客人(たぶん女神)よ。あなたの話なら、少しは聞いてもよい」


話は聞くのかよ。


「では、少しお話ししましょうか」


「我が村に伝わる王酒(ただの安い酒)を振舞おう」


「飲みません」


「即答……!」


バルグレイは強がったが、話は聞いた。


カゲツが簡単に説明する間、村の子どもが一人、物陰からくーちゃんを覗いていた。

くーちゃんは、自分から近づかなかった。少し離れた場所に座って、尻尾だけ振った。


「きゅーん」


「わんちゃん……?」


母親が慌てた。


「ニナ、近づいちゃだめ!」


子どもはニナ、という名前らしかった。

腹が空いているのが遠目でも分かった。


俺はポケットからボーロを出した。


「食べられるか?」


ニナが母親を見た。

母親が迷った。


「毒はない。俺たちも食べる」


俺は自分で一つ食べた。


少し硬い。

でも、ちゃんと食べ物だった。


リュシアが、母親に向き直った。


「無理に食べさせるものではありません。いらなければ、断ってください」


その言い方に、母親の肩が少しだけ下がった。


バルグレイも、腕を組んだまま唸る。


「……ふむ。無理に食わせぬ、というなら」


ニナが、そっと手を伸ばしかけた。


「お待ちください」


低い声が、横から割り込んだ。


村人の後ろから、灰色の外套を着た男が一歩出た。

泥だらけの村にいるのに、靴だけが妙に綺麗だった。


「その菓子については、王国医務卿閣下より、摂取を控えるよう通達が出ています」


リュシアの紅い瞳が、わずかに細くなった。


「王国医務卿?」


「はい。魔物領地で製造された未認可食品です。成分も、安全性も確認されていません。特に、子どもへ与えるのは危険かと」


ニナの手が止まった。

母親が、また迷う。


その時、ニナの腹が、小さく鳴った。


男は、その音を聞いていない顔をしていた。


「バルグレイ村長。冷静な判断を」


バルグレイが、泥の中で胸を張った。


「治水監査官殿。私は冷静だ」


「感情で判断しているように見えますが?」


「感情ではない」


ニナを見る。


「……空腹だ」


村の空気が、少しだけ止まった。


「この選ばれし水守り(みずにえらばれてない)は、民の腹音を無視せぬ」


「食べるかどうかは、この子と母親が決めればいい」


俺は、治水監査官ではなく、母親を見て言った。


「少なくとも俺は、毒を渡すつもりでここに来たわけじゃない」


リュシアが静かに頷く。


「選ぶのは、あなたたちです」


ニナが恐る恐る、前に出た。


小さな手が、ボーロに触れる。

母親は止めなかった。


ニナは、少しだけかじった。


「……おいしい」


村の空気が、少しだけ変わった。


カゲツが静かに前に出た。


「これは神獣ボーロの試作品だ。保存が効く。腹持ちも悪くない。今すぐ大量には出せないが、定期供給の目はある」


バルグレイが胸を張った。


「……ありがたくいただこう」


「民を飢えさせぬことも、王たる責務(ただの村長の仕事)だからな」


カゲツが、ボーロを食べる子どもたちを見た。


「なら、話は早い。こちらは清浄な湧き水が必要だ。その神獣ボーロを完成させるためにもな」


バルグレイが顔を引き締めた。


「水は渡せん」


「なぜだ?」


「渡したくないわけではない」


バルグレイの声が、少しだけ落ちた。


「渡せる状態ではないのだ」


バルグレイは村の現状を話した。


畑が沈んでいること。

備蓄が湿気で駄目になっていること。

水害で、湧き水を外へ出せる状態ではないこと。


「水神の試練(ただの水害)だ」


バルグレイが言った。


「だが、我が治水眼(ちずをながめただけ)により、必ず乗り越える」


足元の泥で、またカエルが一匹、ころんとひっくり返った。


「乗り越えられてないな」


バルグレイは何も言わなかった。


それが、答えだった。


カゲツが川の方へ歩いていった。

バルグレイが水路図を持って追った。


しばらくして、カゲツが戻ってくる。


「上流の岩盤が崩れて、流れが村側に寄ってる」


「やっぱりか。水の逃げ場がない」


「先生の診断通りだ。このままだと、村がもたない」


バルグレイが唇を噛んだ。


「我が聖なる防波堤(どろのう)をさらに積めば、あるいは——」


「無理だな」


カゲツが続けた。


「交渉しよう。こちらは水害をなんとかする。その代わり、清浄な湧き水の供給と、交易の窓口を頼む。証言もほしい。魔物領地が村を助けた、という事実の」


「お待ちを」


治水監査官が、静かに口を挟んだ。


「村長。王国の許可なく、魔物領地と交易の約定を結ぶのは危険です。清泉村が魔物領地に与したと受け取られかねません」


バルグレイは、泥に沈んだ畑を見た。

それから、ボーロを食べている子どもたちを見た。


「民の安全を守ることが、我が仕事だ」


「王国への報告は」


「後でよい」


「後で、ですか」


「今、畑が沈んでいる」


治水監査官は黙った。


「この選ばれし水守り(みずにえらばれてない)は、沈む村を見ながら紙を待つ趣味はない」


ボーロを食べていたニナが、母親の袖を握っていた。

泥に沈んだ畑の向こうで、水車はまだ止まっている。


「……その条件、飲もう」


バルグレイが、俺たちに向けて言った。


「交渉成立だな。良い判断だ、村長さん」


カゲツが不敵に笑った。


「だが、どうするつもりだ。我が治水眼(ちずをながめただけ)でも、あの川を止める手段は——」


「止める?」


カゲツが、濡れた地図を広げた。

指先が、村の北側の岩盤を示した。


「そんな必要はない」


「どういうことだ?」


カゲツは、少しだけ笑った。


「変えるのさ」


「……川の流れを、な」


川の流れを変える。


そんなことができる相手を、俺は一人だけ知っていた。


ドラゴンを噛み消して、平然と腹を鳴らしていた魔狼姫を。

ニナちゃん、ボーロを食べてくれました。


そして次回、魔狼姫ヴァルフェリアの真骨頂!


「川を止める」のではなく――

「川の流れを変える」。


腹ペコ姫、出番です。


くーちゃん「ボーロを食べてくれて、うれしいワン」

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