第24話 月を纏う魔狼姫の一撃
朝の工房は、昨日より静かだった。
試作品が冷えたまま作業台に並んでいる。
神獣様用。
魔狼族用。
人間の子ども用。
老人用。
「分類が増えてないか?」
「食べる相手が違えば、硬さも香りも変わります」
ミルナが真剣に言った。
「人間の村に持っていくなら、子ども用は少し柔らかく。老人用は砕きやすく。神獣様用は香ばしさ重視です」
「最後だけ優先順位が高いな」
くーちゃんが試食席から身を乗り出した。
「きゅーん」
「順番待とうな」
「……きゅ」
待つ気はある、という顔だった。
だが、その三秒後、神獣様用ボーロが一つ消えていた。
「待ててない」
「きゅーん」
くーちゃんは、もぐもぐしながら目を細めた。
ミルナが真剣に頷く。
「今の『きゅーん』は、合格。ただし、もう一個ください、です」
後半が本音だろ。
ガルド爺が子ども用を一個手に取り、割った。断面を見て、匂いを嗅ぐ。
「悪くない。だが、後味に土が残る」
「土?」
「水だ。水が悪いと、粉がほどけん」
ヴァルフェリアが頷いた。
「丸くない」
「何が?」
「水。喉の途中で止まる」
「感想が独特すぎる」
ガルド爺が短く言った。
「今の水は、土の臭いが残る。保存食にはなる。だが、特産品にはならん」
工房が、少し静かになった。
「やっぱり清い水が必要か」
「小麦でも蜂蜜でもない。まずは、水だ」
壁のもふもふボードには、昨日と同じ文字が残っていた。
【不足】
・清い水
その項目だけが、やけに大きく見えた。
***
王の間に、全員が集まった。
カゲツは、しばらくこの領地に残るらしい。
「今ここを見捨てる商人は、未来の大口取引先を失う」
本人はそう言っていた。それだけでもない気はしたが。
カゲツが手帳を開いた。
「領地の現状を整理しよう」
「食料はしばらく持つ。だが、増えない。畑もまだ試験区画だけだ。土は戻り始めたが、収穫までは時間がかかる」
「小麦は?」
「芽は出たが、まだ食えない」
ヴァルフェリアが首を傾けた。
「芽は食べられる?」
「食べるなよ」
「きゅーん」
お前も食べるな。
カゲツが手帳の端を指で叩いた。
「ボーロの質を上げるには、清い水がいる。心当たりがある」
地図を広げる。
「清泉村。古くから湧き水を守ってきた村だ」
清泉村。
「取引できるのか?」
「今なら、できるかもしれない。食料不足らしい」
リュシアが静かに言った。
「試作品を持っていって、湧き水と交換するのはどうかしら?」
「ボーロと水の取引か」
「水が手に入れば、ボーロの質が上がる。ボーロの質が上がれば、外との信用も作れる」
ヴァルガルが、地図を見下ろした。
「メンバーは?」
「人間の村なら、私が行くわ」
リュシアが言った。
「いきなり魔狼を連れていくより、話が通じるでしょう?」
「商人の出番でもあるな」
カゲツが続けた。
「私も行く」
ヴァルフェリアが言った。
全員が少し黙った。
「……村まで?」
「途中まで」
ヴァルフェリアは、地図の村の手前を指で押さえた。
「村に私が行くと、村人が怖がる。水をもらいに行くのに、怖がらせるのは損」
食べ物の話になるとだいたい暴走するのに、こういうところで、ちゃんと姫だった。
「でも、ダンジョン出口までは危ない。先生とくーちゃんを送る」
「助かる」
ガルド爺が、試作品の入った袋を俺に押しつけた。
「持っていけ。神獣ボーロが目当てなら、他も見せろ。比べさせろ。値打ちが分かる」
くーちゃんが袋をじっと見ていた。
「くーちゃんの分も入ってる。道中は我慢しような」
「きゃん」
不満そうだった。
***
清泉村へ向かうには、本来なら正規出口を使うのが一番早い。
だが、カゲツは地図の上で、その道を指さしたまま黙った。
「そこはやめた方がいい」
「何かあるのか?」
「白い鎧の連中がいる。王国騎士団……いや、医務卿直属の警備隊だな」
空気が、少し冷えた。
アイズ。
その名前を、誰も口にしなかった。
「封鎖されているの?」
リュシアが聞く。
「完全封鎖じゃない。むしろ、通れるようにしてある」
「……誘ってるのね」
「ああ。通った相手を記録して、異常があれば処置する。そういう配置だ」
処置。
その言葉だけで、あの白い雨を思い出した。
「アイズらしいな」
「先生。正規出口を使えば、村へ着く前に面倒が起きる」
カゲツが、地図の端を叩いた。
「東出口を使う。近い分、危ない。だが、見張りは薄い」
「つまり、最短だけど最悪の道か」
「そういうことだ」
出口が見えた、その時だった。
空気が、黒く沈んだ。
岩壁の奥で、何かが動いた。
影だと思ったが、違った。
翼だった。
黒い鱗。金色の目。ダンジョンの出口を塞ぐように、巨大な竜が身を起こした。
「ブラックドラゴン……」
カゲツが真顔になった。
「先生。迂回するか?」
「……できれば避けたいが」
そのとき、ヴァルフェリアが前に出た。
「私がやる」
「待て。ドラゴンだぞ」
「知ってる」
ヴァルフェリアは、首を鳴らした。
「硬そう」
「感想が食材寄りなんだよ」
だが、次の瞬間。ヴァルフェリアの動きが止まった。
「……でも、今は無理かも」
「なんで」
「お腹が空いた」
沈黙。
カゲツが、無言で胃を押さえた。
俺は鞄を開けた。ガルド爺が押しつけてきた試作品が入っている。
神獣ボーロの改良版を、一個取り出した。
「これでいいか」
ヴァルフェリアが鼻をひくつかせた。
「……神獣ボーロ?」
「試作品だけど」
「ちょうだい」
即答だった。
一口で食べる。
灰銀の耳が、ぴくりと動いた。
「香ばしい。水は、まだ少し角がある。でも――」
ヴァルフェリアが、ゆっくり目を開けた。
「これならいける」
空気が、変わった。
さっきまで腹を空かせていた少女が、ブラックドラゴンの前に歩き出す。
灰銀の髪が、出口の光を拾って輝く。細い腕が、ゆっくりと引かれた。
爪先に白い魔力が集まっていく。月の光みたいな、冷たい輝きだった。
ブラックドラゴンが咆哮した。
喉の奥で、黒い炎が膨れ上がる。
ブレスが、放たれた。
だが、遅かった。
「月狼爆衝」
囁くような声だった。
次の瞬間、白い牙が走る。
黒炎ごと、竜の咆哮が噛み砕かれた。
世界そのものに、巨大な獣が噛みついたみたいだった。
音が、遅れて来た。
俺は咄嗟に腕でくーちゃんを庇った。
風が抜けた。石の欠片が頬をかすめる。
数秒後、顔を上げた。
ブラックドラゴンは、いなかった。
さっきまで竜がいた場所に、岩壁だけが残っていた。牙の形をした巨大な抉れ目が、一点だけ刻まれている。
竜の鱗も、翼も、黒い炎も。
何も残っていなかった。
ただ、竜のいた場所だけが、綺麗に噛み抜かれていた。
カゲツが、無言で胃を押さえた。
「……先生。ありゃあ、護衛の火力じゃない」
「……俺もそう思う」
ヴァルフェリアが振り返った。
「出口、開いた」
「開きすぎだ」
リュシアが、静かに言った。
「配信しなくて正解だったわね」
「……村に着く前に、交渉が終わる。悪い意味で」
「きゅーん!」
くーちゃんが、俺の腕の中で誇らしそうに鳴いた。
「お前は何もしてないけどな」
カゲツは、抉れた壁をしばらく見ていた。
「……一点だけ、綺麗に抜けてるな」
カゲツは、すぐに首を振った。
「いや、何でもない。今は村が先だ」
***
外の風が入ってきた。
ダンジョンの湿った空気とは違う。草と、土と、遠くの水の匂いがした。
ヴァルフェリアは、そこで足を止めた。
「私はここまで。怖がらせるから、今は我慢する」
その「我慢する」が、妙に真剣な顔だった。
さっきドラゴンを噛み消した少女は、村の手前でちゃんと足を止めていた。
「きゅーん」
くーちゃんが、俺の腕の中からヴァルフェリアを見上げた。
行ってくるね、とでも言うように。
「くーちゃん。先生をお願いします」
「きゅ!」
ヴァルフェリアは、少しだけ満足そうに頷いた。
そのまま、ダンジョンの出口に残った。
俺たちは、清泉村へ向かった。
くーちゃんが腕の中で鼻をひくひくさせている。リュシアは配信端末を確認し、カゲツは行く先の空を見ていた。
清い湧き水を求めて。
ボーロの試作品を抱えて。
食料不足を少しでも和らげるために。
今度診るのは、魔物ではない。
人間の暮らしだった。
その暮らしが、川に沈みかけているとも知らずに。
次回、清泉村へ。
待っていたのは、選ばれし水守りを名乗る村長と、白い監査の気配。
ボーロ外交、いきなり試されます。
くーちゃん「……ボーロ、待ってるワン」




