第22話 神獣ボーロ工房、始動します
昨日、王の間で手を上げた雌魔狼の名前は、ミルナというらしい。
会議が終わった後、ヴァルガルが教えてくれた。
小柄で、灰色の髪。大きな狼耳は、常に少し伏せ気味。人狼形態でも、どこか子犬みたいにおどおどしている。
戦闘には向いていない。本人も、そう思い込んでいる。
だが、ヴァルガルは静かに言った。
「鼻がいい。耳もいい。神獣様の声の違いを、群れで一番よく聞き分ける」
「……そんな特技があるのか」
「本人は、役に立たないと思っている」
ヴァルガルは、少しだけ目を細めた。
「だから今日、手を挙げたのは珍しかった」
俺は、さっきの震える手を思い出した。
下ろさなかった手を。
話し合いの結果、まずは拠点の横穴を一つ、試作場にすることになった。
工房、と呼ぶにはまだ早い。
壁は岩肌のまま。床も平らとは言いがたい。それでも、石の作業台を運び込み、小さな窯を据えた。
カゲツが手配した小麦粉と蜂蜜と魔鳥卵。焼け残りの鉄板。道具は最低限だ。
それが、もふもふ領地最初の工房だった。
「ふん、ふんふん……きゅーん、ふんふん……」
小さな鼻歌が聞こえた。
作業台の前で、ミルナが粉袋を抱えている。狼耳は緊張でぴんと立っているのに、尻尾は丸まっていた。
そこに、扉の外から低い声がした。
「……なんでワシが菓子作りなど」
ガルド爺は、心底不本意そうに鼻を鳴らした。
「ワシは遠征の兵糧を作ってきたんだ。飾りだの甘味だの、女子どもの喜ぶものは知らん」
ミルナの鼻歌が、ぴたりと止まる。
片足に古傷のある老魔狼が、入口に立っていた。欠けた牙と、白い毛が混じった耳。
ガルド爺だった。
昔は遠征隊で保存食を担当していたと聞いた。
今は、前線には出ていない。出られない、と言った方が正しいのかもしれない。
廊下の奥から、ヴァルガルの低い声が届いた。
「神獣様の食事だ」
それだけで、工房の空気が変わった。
ガルド爺が、黙った。逃げられないと悟った顔だ。
「……菓子など、作ったことはないぞ」
「保存食の知識があれば十分だ」
俺も思わず口を挟む。
「食べ物を作るのも、命を守る仕事だ」
ガルド爺が、ふん、と鼻を鳴らした。
それでも、中に入ってきた。
くーちゃんが、工房の端をてちてちと歩いていた。
棚の臭いを嗅いで、窯を覗いて、ミルナの足元に座った。
見上げる。
「きゅーん」
「は、はい! 頑張ります!」
ミルナが、びしっと返事をした。
くーちゃん、ボーロをねだっただけだと思う。
***
次の日、神獣ボーロの試作が始まった。
ミルナが小麦粉を量る。手が震えている。粉も震えている。
結果として、作業台の上がうっすら雪景色になった。
「す、すみません!」
「謝るな。粉が湿る」
ガルド爺が即座に言った。
謝罪すら品質に影響するらしい。
神獣ボーロ、思ったより厳しい世界だった。
「蜂蜜を先に入れるな。焦げる」
「は、はい」
「丸が歪んでいる。神獣様に失礼だ」
「……申し訳ありません」
ガルド爺の指導が厳しい。
でも手は動いている。口では文句を言いながら、粉の量を確かめて、火加減を調整していた。
ヴァルフェリアが、作業台の端に腰かけて見ていた。
その瞬間、ミルナの尻尾がびくっと跳ねた。
「姫様が……見ている……」
「集中しろ」
ガルド爺が言った。
「は、はい!」
ヴァルフェリアが、真剣な顔で言った。
「蜂蜜はもっと深く」
「蜂蜜に深さってあるのか」
「ある」
「あるぞ」
ヴァルフェリアとガルド爺が同時に答えた。
あるらしい。
俺の知らない場所に、蜂蜜の深淵が存在していた。
焼き上がった。
俺は一個つまんで確かめた。
「……硬い」
表面はところどころ焦げていて、丸というより、小さな岩だった。指で叩くと、こつん、と乾いた音がした。
「保存性は高い」
ガルド爺が、ぼそりと言った。
ヴァルフェリアが一個食べた。
「硬い。香りが浅い。蜂蜜が死んでいる」
「姫様が……蜂蜜が死んでいると……!」
ミルナが、青くなった。
「そこまで真に受けなくていい」
くーちゃんが台の前に来た。
くんくん。
一口、かじる。
工房の空気が止まった。
ガルド爺が息を止める。ミルナは祈るように両手を握る。ヴァルフェリアは肉を食べる手を止めた。
くーちゃんは、もう一口食べた。
「きゅーん」
尻尾が、ゆっくり揺れる。
ミルナが泣きそうな顔になった。
「神獣様が……食べてくださいました……!」
「よかったな」
「違います」
「……今の『きゅーん』は、美味しい、ではありません」
「え、食べたのに?」
「悪くないけど、もっと香ばしさが欲しい、です」
「犬のおやつレビューが料理評論家より細かい」
「尻尾の角度も違います」
俺は、くーちゃんの尻尾を見た。
確かに、いつもより少し低いような。ミルナには分かるらしい。
ガルド爺が、試作品を手に取った。
割って、匂いを嗅いで、噛んだ。
しばらく、黙った。
その顔から、さっきまでの面倒くさそうな色が消えていた。
「……粉が粗い。蜂蜜を入れる順が悪い。焼きが強すぎる。外だけ固く、中が死んでおる」
「急に本気だな」
「神獣様は、食べてくださった。だが、喜んではおらん」
その声に、さっきまでの文句はなかった。
「ならば次は、目を細めていただく」
ミルナを見た。
「やるぞ、ミルナ」
「は、はい!」
***
さらに翌朝。
工房に入った俺は、まず足を止めた。
作業台の横に、小さな木台が置かれていた。
柔らかい布と干し草を重ねた、もふもふのクッション。小皿置きまである。
くーちゃんが、当然のようにそこに座っていた。
「……待て。何だその席」
「神獣様の試食席だ」
ガルド爺が、窯の火を見ながら当然のように言った。
「……いつ作った」
「夜明け前だ」
「最初は菓子作り、嫌がってたよな?」
「菓子ではない」
ガルド爺が、ぴしゃりと言った。
「神獣様の兵糧だ」
「きゅーん」
くーちゃんが、専用席から満足そうに鳴いた。
改良版の試作が始まった。
ガルド爺の指示で粉を挽き直す。蜂蜜は後入れ。火を弱めて、余熱で通す。
ミルナが、くーちゃんの反応を見ながら微調整していく。
「今の鼻の動き、蜂蜜の香りは良さそうです」
「でも耳が少し寝ています。水分が多いかもしれません」
耳で水分が分かるのか。
改良版が焼き上がった。
くーちゃんが食べる。
少し間を置いて。
目を、細めた。
「きゅうーん」
「これは……かなり良いです!」
ミルナの声が、少し弾んだ。
ガルド爺は、腕を組んだまま満足げだった。
でも言う。
「まだだ。神獣様の尻尾が二振り半で止まった。三振りを目指す」
尻尾が基準なのか。
ヴァルフェリアが、改良版を一個つまんだ。
「まだ浅い。でも、昨日より良い」
「姫様が……昨日より良いと……!」
ミルナが、今度こそ泣きそうになった。
ガルド爺が、ボーロを一個手に取った。
しばらく、黙って見ていた。
「これは菓子ではない。群れを生かす兵糧だ」
ミルナが、小さく頷いた。
それから、俺を見た。
「私たちにも……守れるものが、あるんですね」
ミルナの声は、小さかった。
けれど、さっきまでより少しだけ前を向いていた。
「あるだろ」
俺は、作業台の上の不揃いなボーロを見た。
「戦えるやつだけが、群れを守ってるわけじゃない。食べるものがなければ、誰も明日まで持たない」
少し言いすぎた気がして、咳払いする。
「……まあ、つまり、食べさせることも命を守る仕事だ」
ミルナの耳が、ぴんと立った。
「……はい」
小さな返事だった。
でも、さっきまでの震えた声ではなかった。
くーちゃんが、専用席で尻尾を振った。
「きゅーん」
今度は、三振りだった。
次回。
材料不足のボーロ工房。
なら、畑を作るしかない。
……え?
そんな方法で畑って作れるの?
次回、くーちゃん参加のもふもふ農業回です。




