第21話 犬のおやつで、領地を作ります
白い雨の冷たさは、夢の中に残っていた。
痛みだけを消す雨。命を救わない、壊れないように保つための雨。
あの光から逃げて、俺たちはようやく戻ってきた。
もふもふ領地へ。
名前だけは、もうある。
けれど、形はまだ何もない。
それでも、ここは確かに、誰かが帰ってこられる場所になり始めていた。
目が、覚めた。
最初に感じたのは、温かさ。次に、柔らかさ。それから、覚えのない甘い匂い。
……くーちゃんか?
いや、違う。
瞼を開けると、紅い瞳がすぐそこにあった。
リュシアだった。
近い。
近すぎる。
「おはよう、先生」
「おはよう、じゃない。なんでここにいる」
「様子を見に来たの」
「様子を見る距離じゃない」
「近い方が、呼吸が分かるでしょう」
分かる。分かるけど、その距離で言うな。
リュシアは、少しだけ顔を引いた。
いつもの余裕の笑みが、ほんの一瞬だけ消える。
「本当に、起きなかったのよ」
「呼んでも、揺すっても、くーちゃんが顔を舐めても」
「……悪かった」
「怖かったわ」
言葉に詰まった俺を、リュシアがじっと見た。
「だから、起きたか確かめてたの」
唇の端に、やわらかいものが触れた。
一瞬だった。
頭が真っ白になった。
「診断、完了」
「……な、ななな」
「先生の真似よ?」
「俺の診断に、唇は使わない!」
「そうなの?」
「当然だ!」
その瞬間。
「先生。朝ごはんは?」
ヴァルフェリアだった。
空気が、一瞬で死んだ。
ヴァルフェリアは、何のためらいもなく入ってくる。
リュシアを見て、俺を見て、鼻をひくひくさせる。
「何してるの? 二人とも」
「何もしてない」
「生存確認よ」
声が、ぴったり重なった。
「ふうん」
ヴァルフェリアは、それ以上気にしなかった。
「じゃあ、ごはん」
切り替えが早すぎる。
寝床の端で、くーちゃんも鳴いた。
「きゅーん」
……お前もそこだけ拾うな。
リュシアが、何事もなかったように笑った。
「さあて、会議の時間よ、先生」
「この流れで会議に連れていくな」
「流れより、食料の方が切実だもの」
連れていかれた。
***
王の間に、全員が集まっていた。
ヴァルガル、カゲツ、リュシア、ヴァルフェリア、魔狼たち。
くーちゃんは、ヴァルフェリアの足元でボーロをねだっていた。
カゲツが手帳を開いた。
「先生、起きた直後で悪いが、現実の話をするぞ」
「頼む。これ以上、寝起きに心臓へ負担をかけないでくれ」
「安心しろ。今から負担がかかるのは胃の方だ」
カゲツが、手帳の端を、指先で叩く。
「まず食料だ」
「食料?」
「先の取引で入った分はある。だが、今の人数と食う量だと、二か月ももたない」
「契約では二か月分だっただろ」
「それは最初の人数での見積もりだ。姫さんが戻った。負傷者の回復食もいる。神獣様はボーロを要求する」
ヴァルフェリアが、肉を噛みながら小さく首を傾げた。
「成長期だから」
「便利な言葉で片づけるな」
カゲツが、続ける。
「足りないのは食料だけじゃない。薬、布、燃料、農具の替え。全部だ」
リュシアが、口を開く。
「つまり、この領地は、まだ生き延びているだけなのね」
「ああ。暮らせる場所には、まだなってない」
処刑配信をひっくり返し、魔狼王を救い、領地を取り戻した。
だが、それだけだ。
眠れる場所はある。けれど、暮らせる場所じゃない。
俺は、王の間に並ぶ魔狼たちを見渡した。
傷の残る者。疲れた顔の者。それでも、こちらをまっすぐ見ている者たち。
……ここを、ただの避難所で終わらせるわけにはいかない。
「今日から必要なのは、戦いじゃない。暮らしを作ることだ」
「でも、暮らしを作れば、狙われるわ」
リュシアが静かに言った。
「アイズ・ヴィタリスに」
空気が変わった。
「王国医務卿だ。サディウスみたいに感情で動くタイプじゃない。まず評判を潰してから、合法的に来る」
「危険な魔物の集落。追放犯の隠れ家。神獣を騙る異端領地」
リュシアが、指を折るように並べていく。
「そういう噂を流されるだけで、誰も取引しなくなる。水も、食料も、薬も止まる」
「国と戦うってのは、そういうことだ」
カゲツは、手帳から顔を上げた。
「だから俺たちには、信頼がいる。討伐対象じゃなく、取引相手になる必要がある」
ヴァルガルが、静かに頷いた。
「……我々は、かつてそれができずに、滅びかけた」
俺は、全員の顔を見回した。
アイズが本格的に動き出すまで、そう時間はない。
何か、取引相手として見てもらうきっかけはないか。
「評判づくり、か」
「綺麗事じゃない。生存戦略だ。」
カゲツが言い切った。
そのとき、くーちゃんが俺を見上げた。
「きゅーん」
ボーロをねだっていた。
「ない。切らした」
「きゃん!」
くーちゃんが、本気で抗議する。
ヴァルフェリアが真顔になった。
「それは、大問題」
「神獣様のご機嫌を取れない領地に、未来はない」
「……領地運営の基準が、犬のおやつになってるぞ」
呆れて言った。
だが、すぐに気づいた。
怖い魔物の領地。追放犯の隠れ家。魔狼王とその群れ。
そんな噂をひっくり返すのに、剣や牙は向いていない。
誰が見ても、危なくないもの。
誰が見ても、少し頬が緩んでしまうもの。
犬のおやつ。
「……だったら、作るか」
くーちゃんを見た。
「くーちゃん用のボーロを」
王の間が、しんと静まり返った。
「神獣様の……食事を、我らが?」
誰かが、震える声で言った。
魔狼たちが顔を見合わせる。恐れ多い。でも、必要だ。そんな空気が広がっていた。
ヴァルフェリアが、真顔で頷いた。
「神獣様の食事に、妥協は許されない」
「カゲツ、小麦と蜂蜜は?」
「手配できる」
即答だった。もう頭の中で計算が済んでいたらしい。
「神獣ボーロって名前、売れるぞ」
リュシアが、カメラをちらりと見やった。
「配信映えはするわね」
そのときだった。
王の間の端で、小さな手が上がった。
耳を伏せた、若い雌の魔狼だった。
これまでの会議では、ほとんど声を出したことがない子だ。
「わ、私……」
「……ミルナ?」
ヴァルガルが、わずかに目を見開いた。
声が、震えている。
それでも、手は下ろさなかった。
「やってみたいです」
くーちゃんが、俺の足元から一歩前に出た。
「きゅーん」
尻尾が、ふわりと揺れる。
まるで、それで決まりだと言うみたいに。
この日、もふもふ領地で、最初の工房計画が動き出した。
次回。
神獣ボーロ工房、始動します。
おどおどした小さな魔狼、ミルナが工房に立ち、
老職人が文句を言いながら火を見て、
くーちゃんが当然のように試食係になります。
ただのボーロ作り。
でもそれは、もふもふ領地が外の世界とつながる最初の一歩でした。
くーちゃん「……試食係、するワン」




