第18話 痛みだけを消す兄
「……終わったな」
背を向けかけたところへ、かすれた声が届いた。
「……兄上」
振り返った。
サディウスは、バルコニーの床に両手をついたまま、独り言のようにこぼしていた。
「アイズ様なら……分かってくださる」
白衣は汚れ、髪は乱れている。さっきまで広場を見下ろしていた顔には、もう余裕がなかった。
「私は、ヴィタリス家のために……研究を……」
そこにあるのは、縋るような期待だけだった。
……アイズ。
その名を聞いた瞬間、胸の奥が冷えた。
俺たちの兄。
そして、サディウスが唯一、頭を下げる相手。
そのときだった。
空が、白くなった。
「《白雨治式》」
静かなのに、よく通る声だった。
光の雨が、降り始めた。
苦しんでいた観客の呼吸が、静かに整っていく。叫び声が、止まった。
……おかしい。
傷は、塞がっていない。裂けた肉も、折れた骨も、さっきのままだ。
なのに、悲鳴だけが消えている。
治療じゃない。
これは、麻酔だ。
広場全体にかけられた、集団麻酔。
腕の中で、くーちゃんが小さく震えている。
「……くーちゃん?」
「きゅ……」
いつもなら、光るものには真っ先に顔を上げる。なのに今は、俺の服に鼻先を押しつけたまま、動こうとしなかった。
……怖がってる。
サディウスが顔を上げた。
その表情が、わずかに明るくなる。
「兄上……」
救われた、という顔だった。
広場の出口という出口が、白く塗り潰されていく。
白い重鎧。
王国騎士団の紋章。
重騎士たちが、出口から一人、また一人と姿を現す。
観客席の通路にも。
バルコニーへ続く階段にも。
包囲は、もう完成していた。
《王国騎士団って何で》
《誰の指示だよ》
《白雨治式……もしかして》
白い雨の向こう側に、一人の男が立っていた。
白衣。眼鏡。一点の乱れもない立ち姿。
光を背にして、表情は見えない。
それでも、その立ち姿だけで分かった。
アイズ・ヴィタリス。
ヴィタリス家長男。
王国医務卿。
そして、俺が一番苦手だった兄。
「見苦しいよ、サディウス」
アイズが、雨の中を一歩進む。
「痛みも制御できないようでは、それは研究とは呼べない」
眼鏡のレンズが、光を反射する。
「医療とは、救うことではない。壊れない状態に保つことだ」
広場は、静まり返っていた。痛みだけを消された者たちが、穏やかな顔のまま動けずにいる。
これを全部、たった一手でやってのけた。
カゲツが、俺の横で小さく息を吐いた。
「……先生、あいつはヤバいぞ」
リュシアも、息をひそめる。
「優しい顔をしているのに、一番怖いタイプね」
二人の勘は、たぶん正しい。
アイズは、怖いことを“正しい処置”として実行できる男だ。そこに迷いも、怒りも、ためらいもない。
サディウスが、バルコニーの端で顔を上げた。
「兄上……アイズ様」
さっきまでの声とは、まるで違っていた。叱責を恐れる、弟としての声だった。
「これは、違うんです。ヴィタリス家のためにやったことで……」
アイズが、サディウスを見下ろす。
「知っている」
サディウスの顔が、わずかに緩んだ。その一瞬だけ、弟の顔に戻る。
「なら――」
「だから、余計に見苦しい」
その一言で、サディウスの表情が凍りつく。
「お前の研究に、価値はない」
アイズは、それだけを静かに告げた。
「価値が、ない……?」
サディウスの唇が震えた。
「そんな……兄上。違います。命は管理し、運用するものだと。そう教えてくださったのは、兄上では――」
言葉の途中で、アイズが白衣の内側から白い懐中時計を取り出す。
蓋が、開いた。
「《白停時計》」
針が、止まる。
サディウスの声も、そこで止まった。
口を開いたまま。
目を見開いたまま。
指先だけが、宙で固まっている。
時間そのものを止めたのかと思った。
だが、違う。
光の雨は降り続けている。スクリーンのコメントも流れている。俺たちの呼吸も、止まってはいない。
止まったのは、サディウスひとりだけだった。
心臓は動いている。
呼吸も止まっていない。
けれど、意識も、声も、指先の震えも、すべて止められていた。
眠りではない。
麻酔でもない。
これは、保存だ。
アイズが、懐中時計の蓋を閉じる。
「これ以上、価値のない記録を増やすな」
感情のない声だった。
「連れていけ」
騎士がバルコニーへ上がってくる。
身じろぎ一つできないサディウスは、そのまま運ばれていった。
《え、何今の》
《医務卿、格が違いすぎる》
《これさっきより怖いんだが》
アイズの目が、俺に向いた。
サディウスを止めたことなど、もう終わった処置なのだろう。眼鏡の奥の目には、何の揺れもない。
それなのに、俺へ向けられた目には、わずかな温度があった。
優しさのように見えるもの。
価値あるものを、壊さず手元に確保しておこうとする目だった。
それが、怖かった。
「トーマ」
兄の声だった。
「帰ってこい。お前の力は、家に必要だ」
必要、か。
昔なら、その一言を聞きたかったのかもしれない。
だが、もう違う。
腕の中のくーちゃんを見た。
震えている。
小さな前足を俺の腕にかけて、離れようとしなかった。
ヴァルフェリアを連れて帰ると、約束した。ヴァルガルが、領地で待っている。カゲツも、リュシアも、魔狼たちも隣にいる。
俺が必要なのは、こっちだった。
アイズに向き直る。
「俺は帰らない」
くーちゃんが、腕の中で小さく鳴いた。
「俺は、こいつらと生きる」
一拍置いて、言った。
「命を殺す場所じゃない。命を生かす領地を作る」
アイズは、穏やかに微笑んだ。
「理想は、制度の中でしか機能しないものだ」
優しげな声だった。
「現実を見ろ、トーマ」
「見てるよ」
俺は、まっすぐアイズを見返した。
「見てるから、帰らないんだ」
アイズの笑みは、消えなかった。
「そうか」
声は、微塵も揺らがなかった。
「全員、拘束しろ。壊れる前に回収する」
騎士団が、一斉に動いた。
《拘束って》
《いや強引すぎるだろ》
《ヴィタリス家、怖すぎ》
「撤退だ!」
カゲツが叫ぶ。
影が広がった。
リュシアも闇を展開する。
騎士団の視界と足並みが、そこで乱れる。
「きゃん!」
くーちゃんが、腕の中で鳴いた。
左へ走りかけていた魔狼が、寸前で足を止める。
直後、白い重騎士たちが左の通路に滑り込んだ。盾が並び、退路が消える。
あのまま突っ込んでいたら、挟み撃ちだった。
「……助かった!」
カゲツが、短く息を吐く。
「先生、犬ナビに従え!」
「犬ナビって呼ぶな!」
くーちゃんが、今度は右を指すように顔を向けた。
「きゅ!」
魔狼たちが、包囲の薄い一点をこじ開ける。
走った。
背後で、アイズの声だけが届いた。
「追うな」
騎士団の足が、そこで止まる。
「今、壊す必要はない」
感情のない声だった。
「どうせ、また会う」
……逃がされたのか。
理解した途端、背筋が冷えていく。
広場を、抜けた。
白い雨の冷たい光が、背中の向こうで遠ざかっていく。
くーちゃんは、まだ俺の腕の中で小さく震えていた。
アイズが、動いた。
サディウスより、ずっと厄介な相手が。
次回。
処刑配信編、最後の帰還。
奪われた魔狼姫が、
ようやく父のもとへ帰ります。
父と娘の再会。
そして、腹ペコ姫の第一声。
くーちゃん「……ボーロ、待ってるワン」




