第19話 腹ペコ姫、父のもとへ帰る
追撃は、なかった。
それが、一番怖かった。
俺たちは走っていた。広場はもう遠い。白い雨の光も、背後に薄れている。
それでも、誰も足を緩めなかった。
追ってこない。
追えないんじゃない。追わないんだ。
アイズの声が、まだ耳に残っていた。
「どうせ、また会う」
焦りの欠片もなかった。ただ、確信だけがあった。
頭の隅に、さっきの光景が浮かぶ。
サディウスは、あっさり連れていかれた。
弟のはずの男を。ヴィタリス家のためだと、最後まで縋っていた男を。
アイズは、まるで一つの処置みたいに止めて、片づけた。
あの目は、白い雨よりもずっと冷たかった。
だが、今は考えるな。
ヴァルフェリアは先に逃がした。あの状態で、どこまで動けるか分からない。
ヴァルガルには、必ず連れて帰ると約束した。
「急ぐぞ」
くーちゃんを、抱え直す。
「きゅ……」
まだ、小さく震えたままだった。
走った。
***
森の開けた場所に出た。
先に離脱していた魔狼が、周囲を警戒している。松明が二本、地面に立っていた。
そのそばに、ヴァルフェリアが膝を抱えて座っていた。
俺に気づいて、ゆっくりと顔を上げる。
銀に近い灰色の髪が、松明の光を受けて揺れた。頬は、少しやつれている。
それでも、黄金の瞳だけは、まっすぐこちらを捉えていた。
何か言いたげなその目に、一瞬だけ吸い込まれかけた。
唇が、わずかに動く。
「……ごはん、ある?」
吸い込まれた先が、ごはんだった。
処刑台から救い出されて、まだ数時間。
姫の第一声が、ごはん。
腕の中で、くーちゃんがぴくりと反応する。
「きゅ?」
「ごはん」という言葉だけは、聞き逃さない顔をしていた。
俺は息を吐いた。
……生きてる。
腹が減るなら、生きている。
それは、悪いことじゃない。
「今、用意する。だから動くな。まだ回復してない」
「そう」
ポーチに残っていた干し肉を差し出す。
ヴァルフェリアは、ためらいなく口へ運んだ。
食べ終えても、じっと俺を見ている。
「……近い匂いがする」
「匂い?」
ヴァルフェリアは立ち上がろうとして、よろけた。
「動くなって言っただろ」
「確認する」
「何を?」
「匂い」
止める間もなく、目の前まで来た。
くん、と鼻先を寄せる。
「……お父様と、同じ匂いがする」
……ヴァルガルと同じと言われても。
あの人、魔狼王なんだが。
「あなた、いい人。匂いで分かる」
「その判断基準、大丈夫か」
「うん」
迷いがなかった。
カゲツが、少し離れた場所で小声で言った。
「……距離バグってるぞ」
「魔狼族だから」
リュシアは焚き火を見たまま答えた。
「……そう。魔狼族って、そういうものよね」
……なんか、声が冷たい。
そのとき、くーちゃんが近くの茂みから木の実を咥えて戻ってきた。
ヴァルフェリアの前に、そっと置く。
「きゅ」
「……ありがとう」
ヴァルフェリアは受け取って、そのまま食べた。
くーちゃんが尻尾を振る。
……どうやら、もう仲間らしい。
***
帰り道は、行きより時間がかかった。
ヴァルフェリアは歩けると言い張ったが、まだ身体は戻りきっていない。
少し進んでは休ませ、水を飲ませる。食事も、一度に腹いっぱい食わせるわけにはいかなかった。
「まだ食べられる」
「駄目だ。少しずつ」
「……けち」
ヴァルフェリアが、残った肉を見つめる。
その横で、くーちゃんも見ていた。
「……食べる?」
「きゅーん!」
「横流しするな」
そんな調子で、二日。
ようやく領地が見えた頃には、すっかり夜も更けていた。
遠くに、松明の列が見えた。
その光は、ただの明かりじゃなかった。
娘の帰りを待つための火だった。
魔狼たちが、道の両側にずらりと並んでいる。
誰も吠えない。誰も駆け寄らない。ただ、息を殺すようにして、俺たちを見ていた。
「姫様……ご無事で」
古参の魔狼が、掠れた声で言った。
伏せた耳だけが、小さく震えていた。
その先に、ヴァルガルがいた。
動かなかった。ただ、立っていた。けれど、その黄金の瞳だけが、静かに揺れていた。
魔狼たちが、道を開けた。
ヴァルフェリアが、前に出る。
足取りはまだ危うい。それでも、背筋だけはまっすぐだった。
ヴァルガルと、目が合った。
誰も、何も言わなかった。
風が、松明の火をわずかに揺らした。
「……ただいま」
ヴァルフェリアが、言った。
それだけだった。
その一言で、並んでいた魔狼たちの耳が、わずかに伏せた。
「……無事でよかった」
ヴァルガルが、短く返す。
声は低かった。いつもの王の声だった。
けれど、続く一歩だけは違っていた。
ヴァルガルが、ゆっくりと前へ出る。
巨大な鼻先が、ヴァルフェリアの髪に近づいた。
くん、と小さく息を吸う。
血の匂い。
薬の匂い。
恐怖の匂い。
それでも、その奥に、確かに娘の匂いを見つけたのだろう。
「……帰ってきたな」
その声は、王のものではなかった。
父の声だった。
ヴァルフェリアが、顔を背ける。
「……死んでない。だから、平気」
強がりだった。誰の耳にも、そうと分かる強がりだった。
くーちゃんが、二人の間に入った。
ちょこちょこと、ヴァルフェリアの足元に来て、見上げる。
「きゅーん」
その声で、ヴァルフェリアの肩から力が抜けていった。
「……でも、怖かった」
小さな声だった。
そのまま、前に倒れた。
ヴァルガルが、動く。
巨体が、音もなく前へ踏み出す。倒れかけたヴァルフェリアを、胸元で受け止めた。
一瞬だけ、黄金の瞳が揺れた。
大きな前脚が、娘の背を包むように添えられる。
ヴァルフェリアの額が、父の毛並みに触れた。
「……迎えに行けず、すまなかった」
低い声だった。
それは、父が娘にだけ落とした謝罪だった。
ヴァルフェリアは答えなかった。ただ、父の胸に顔を押しつけたまま、小さく息を吐いた。
どこかで、低く鼻を鳴らす音がした。
並んでいた魔狼たちが、耳を伏せ、声を殺していた。
しばらくして、ヴァルガルが、俺たちの方を見た。
娘を離さないまま。
「先生。リュシア。カゲツ殿」
名を呼ばれただけで、胸の奥が少し熱くなった。
「よく、連れ帰ってくれた」
その一言で十分だった。
くーちゃんが足元に来て、見上げる。
「きゅーん」
尻尾がゆっくりと揺れていた。
よかったね、と言っているみたいだった。
***
焚き火を囲んでいた。
ヴァルフェリアが、片手に肉を持って頬張っている。
煮込んだ肉だった。
「……煮たほうが、好き」
「捕まってた間、ずっとそれを考えてたのか?」
「うん」
迷いがなかった。
くーちゃんが「分かる」みたいな顔で頷いている。
……神獣様、そこは頷かなくていい。
魔狼たちが、焚き火の外側に自然に集まっていた。
輪になっている。
その中心に、くーちゃんがいた。
当然のように。
その輪を、俺は見渡した。
魔狼族。
ダークエルフ。
闇商人。
獣医。
ポメラニアン。
それに今日から、魔狼王の娘も加わっている。
……なんだ、このメンツ。
けれど、ヴァルガルとヴァルフェリアが並んでいるのを見て、思った。
帰ってこられる場所。
怖かった、と言える場所。
腹が減った、と言える場所。
命を生かす領地って、たぶんそういうものだ。
ヴァルフェリアが言った。
「もふもふ領地、作るの?」
「ああ」
「……私も参加する」
「理由は?」
「ごはんがある。くーちゃんがいる。それで十分」
基準が単純すぎる。
でも、悪くない基準かもしれない。
このメンバーで、作っていく。
もふもふ領地を。
くーちゃんが、俺を見上げた。
「きゅーん」
大丈夫だよ、と言われた気がした。
白い雨の冷たさが、ようやく体の奥から遠ざかっていく。
俺は、少しだけ息を吐いた。
それから、笑った。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
追放編、決着です。
処刑配信から始まった物語は、ようやくひとつの帰る場所へたどり着きました。
ここから、いよいよ「もふもふ領地編」が始まります!
トーマたちは、食料も畑も薬も安全もない場所から、本当に領地を作っていきます。
次回は掲示板回。
処刑配信のその後と、王国側の反応をお届けします。
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くーちゃん「……もふもふ領地で、待ってるワン」




