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第13話 影の宴と、王の涙

商談は、成立した。

カゲツが手帳を閉じた瞬間、俺たちの有り金は全部消えた。


二百四十万アーク。

配信で稼いだ全財産だ。


だが、二か月分の食料が届くのは、救出から戻ったあとだ。


カゲツが言っていた、滅多に切らない札。

それが何なのか、まだ分からない。


沈黙を破ったのは、リュシアだった。


「……カゲツ。その影、攻撃を逸らすだけじゃないんでしょう?」


全員の視線が、一斉に集まる。


「目ざとい女だな」


カゲツが、わずかに目を細めた。


「商人の手札を、そう簡単に読むもんじゃないぜ」


足元の影が、じわりと広がっていく。

黒い床が、水面のように波打った。


どこからともなく、匂いが流れ込んでくる。


焼けた肉の匂い。

濃いスープの温かい香り。

甘い蜂蜜の気配。


ダンジョン深層だぞ、ここ。


影が、ゆらりと膨らんだ。


最初に出てきたのは、湯気だった。

白い湯気が、黒い影の上で揺れている。


次に、皿。

深い器。

焼けた肉の脂が、じゅう、と小さく鳴った。


王の間から、物音が消えた。


影の中から、次々と料理がせり上がってきた。


焼きたての肉の塊。

湯気の立つスープ。

蜂蜜がかかった焼き菓子。


そして、ボーロの山。


「きゅーん!」


くーちゃんが、ボーロの山に突っ込んだ。


……これが、カゲツの言っていた札か。


「二か月分全部じゃない。俺の手持ちだ」


カゲツが、影の上へ視線を落とした。


「救出から戻るまで、ここに残る連中が食いつなぐには足りる」


わずかに口の端を上げる。


「いい商談だったからな。サービスだ」


古参の魔狼の一体が、肉を口に運んだ。


「……久しぶりだ」


低い声で、それだけ言った。


他の魔狼たちも、次々と食べ始める。

声はない。

ただ黙々と、口を動かしていた。


俺も、スープを一口飲んだ。


うまい。

本当に、うまい。


こんな味を最後に口にしたのは、いつだっただろう。

生きてる味がした。


隣に、リュシアが腰を下ろした。

何も言わず、焼き菓子を差し出してくる。


「先生。食べて」


「俺は大丈夫だ」


「ここ最近、ろくに食べてないでしょう。顔を見れば分かるわ」


言い返せず、焼き菓子へ手を伸ばした、その瞬間。


「きゅーん!」


横からくーちゃんが割り込んだ。

ぱく。

焼き菓子が消えた。


「……それ、俺のだったんだが」


くーちゃんは、もぐもぐしながら尻尾を振った。まったく悪びれていない。

リュシアが、小さく笑った。


しばらく、王の間には食器の触れ合う音だけが響いた。

魔狼たちは、黙って食べていた。声はない。それでも、張り詰めていた空気が、少しずつほどけていくのが分かった。


ただ一人、料理に手をつけていない者がいた。


「きゅ……」


くーちゃんが、ボーロを咥えたまま部屋の奥を見つめる。


王の間の端。

ヴァルガルは、石像のように動かなかった。


「……教えてくれ」


低く、絞り出すような声だった。


「娘は、どこにいる」


カゲツは、すぐには口を開かなかった。


手帳を開きかけた手を止め、一度だけ俺を見た。

その視線だけで、嫌な予感がした。


「ヴィタリス家の研究拠点だ」


思考が止まった。


「ダンジョンから北に、二日ほどの距離にある」


ヴィタリス家の研究拠点。

俺が育った場所だ。

周囲の地形も、抜け道も、全部知っている。


最悪な形で、役に立ちそうだった。


足元で、くーちゃんが小さく鳴いた。


「きゅ……」


サディウスは、また命を道具にしようとしている。

絶対に止める。


「姫さんは、首輪を嵌められてる」


カゲツが続けた。


「強い魔物を支配するための実験台だ」


ヴァルガルの爪が、石の床に食い込んだ。


「……こうしてはおれん」


次の瞬間、巨体が踏み出していた。


「待ちなさい」


リュシアが、低く割り込んだ。


「あなたが動けば、この領地が落ちる」


ヴァルガルの足が、止まる。


「この場所は、まだ生まれたばかりよ。傷ついた魔狼ばかりで、防壁も畑もない」


リュシアは、静かに続けた。


「あなたがここにいるから、かろうじて領地の形を保っているだけ」


王の間が、静まり返った。


「サディウスたちは、必ずそこを突く。今度は取り返せないかもしれない」


そして、こちらを見る。


「それに、魔狼王は目立ちすぎる。潜入には向かないわ」


ヴァルガルは、何も言わなかった。


娘を助けに行きたい父親と、領地を守らなければならない王。その両方が、金色の瞳の奥でせめぎ合っていた。


頭の中で、拠点の地図をなぞる。

ヴィタリスの研究拠点なら、潜入はできる。地形も、通路も、警備の癖も、身体が覚えている。


だが、戦力が足りない。

ヴァルガルがいなければ止められない。かといって連れていけば、ここが落ちる。


もう一手、足りない。


ふと視線を上げると、カゲツと目が合った。

カゲツの口元が、わずかに歪む。


「……仕方ないな」


全員が振り返った。


「道案内だけで済ませるつもりだったが」


カゲツが、壁から背を離す。


「誤解するなよ。善意じゃない。商人にとって、信用は商品だ」


一拍置いて、肩をすくめた。


「拠点の中まで付き合う。俺も、戦力に数えろ」


ヴァルガルが、カゲツを見た。


それから、俺を見る。


巨大な体が、ゆっくりと折れた。

魔狼王が、深々と頭を下げる。


「……頼む」


王の声じゃなかった。


「……あの子を、死なせたくない」


前脚の先に、雫が一つ、ぽたりと落ちた。


「娘を、連れ戻してくれ」


息を呑んだ。


「……必ず連れて帰る」


考えるより先に、言葉が出ていた。


「約束する」


くーちゃんが、ヴァルガルの前脚にそっと身を寄せた。

誰も、何も言わなかった。


やがて、ヴァルガルが顔を上げた。

頬を伝った涙は、そのままだった。

ただ一度、深く頷いた。


夜明けとともに、ヴィタリス家の研究拠点へ向かう。


処刑まで、あと三日。

次回、因縁のヴィタリス家研究拠点へ。


かつて薬草を干した中庭は、処刑劇場に変わっていました。


くーちゃん「お姫様、絶対に助けるワン」

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