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第12話 姫か、食料か

くーちゃんが、ボーロの瓶から目を離さない。


カゲツが瓶を指で弾いた。

かちん、と乾いた音が、王の間に響く。


「これが欲しいなら」


笑みが消えた。


「有り金、全部だ」


一瞬、王の間から音が消えた。

それから、低いどよめきが広がる。


「全部だと?」


魔狼の一体が、唸った。


「ひどくないか、それは」


思わず口を挟んだ。


「ひどくない」


カゲツは即答した。


「食料二か月分。種。最低限の農業器具。全部つける。不満か?」


……いや、待て。普通にいい条件だぞこれ。


「信用できない」


別の魔狼が言う。


「逃げたら、終わりだ。人間を信用するな」


魔狼たちが次々と続ける。誰も、人間との取引を信じていなかった。


カゲツは動じない。

肩をすくめて、くーちゃんに視線を落とした。


くーちゃんは、カゲツの足元で尻尾を振っている。


「神獣様が懐いておられる。神獣様の目は、間違わない」


一体の魔狼が、ぽつりと言った。


揉めていた声が、少しだけ静まった。


ヴァルガルが、金色の瞳を細める。


「……お前は、なぜここに来た」


「商売だ。配信が面白かったのもあるけどな」


「商人が、わざわざダンジョン深層まで来る理由としては、薄いな」


「鋭いね、王様」


カゲツは、面白そうに目を細めた。


「じゃあ、商談の前に本題を一つ片づけるか」


「本題?」


「ああ」


ローブの内側から、小さな魔道具を取り出す。

手のひらに収まるくらいの、丸い記録石だった。


「厄介な荷を預かってる。届け先が分からなかったが、昨日の配信で決まった」


カゲツは記録石を指で弾いた。


「勘違いするなよ。善意じゃねえ。こいつを届けたあとで、あんたらが商売相手になるか見に来ただけだ」


ざ、と小さな雑音が鳴る。


「魔狼姫ヴァルフェリアの、声だ」


王の間が、凍った。


記録石が、起動する。


ざ、と小さな雑音。


『お父様、私は生きてる』


若い声だった。

張りがある。だが、その奥に、何かを堪えている気配があった。


『サディウスという男に捕らえられた。首輪を付けられた。自由はない。でも、心まで渡した覚えはない』


魔狼たちの息が、詰まる。


『食事はひどい。正直、許せない』


少しだけ、声が柔らかくなった。


『だから、帰る。お父様も、無茶しないで。私が帰る場所、残しておいて』


雑音。


そこで、声は途切れた。


「で、そのあとだ」


淡々とした声だった。


「魔狼王が生きてるって、奴らにバレた。その結果、姫の処刑が決まった」


カゲツは、一拍置いた。


「期日は、三日後だ」


ヴァルガルが、立ち上がる。


「……ヴァルフェリア」


娘の名を呼んだ。


その直後、喉の奥から低い唸りが漏れた。


「グルルルル……」


王の間の空気が沈む。

魔狼たちが、本能的に身を低くした。


足元の石が、細かく震えた。

魔力が、王の間全体に満ちていく。


そして、ヴァルガルは出口に向かって一歩踏み出した。


魔狼たちが、道を開ける。

誰も止めなかった。

止められない。


単騎で行くつもりだ。


三日後に処刑される娘のいる場所へ、今すぐ。


「きゅーん……」


小さな声だった。


ヴァルガルの足が止まる。


くーちゃんが、前脚のそばに座って、静かに見上げていた。

小さな体が、細かく震えている。


ヴァルガルを、心配しているんだ。


ヴァルガルは、長い間くーちゃんを見ていた。


それから、目を閉じる。


「……神獣様」


魔力が引いていく。

乱れた空気が、少しずつ落ち着いた。


「……娘は、どこだ?」


低く、掠れた声だった。


「それは、取引成立してからだな」


カゲツが、手帳を取り出した。


「ただし、一つだけ言っておく」


紙をめくる音だけが、王の間に響く。


「姫か、食料か。どちらかを選べ」


王の間が、止まった。


「……何?」


リュシアが、低く言った。


「今夜、俺ができる仕事は一つだ」


カゲツが、初めてこちらを向いた。


「食料を運ぶなら、俺自身が仕入れ先まで戻る。姫の居場所まで案内するなら、俺自身がそっちに付く」


手帳を閉じる。


「俺の身体は一つしかない。両方は無理だ」


沈黙。


ヴァルガルが、床を踏みしめた。


「……娘を取り戻す」


爪が、石に食い込む。


「それだけだ」


迷いはなかった。


魔狼たちが、次々と頷く。


「姫のためならば、飢えても構わん」


「我らの命など惜しくない」


「姫が生きているなら、それでいい」


熱があった。感情だけで動こうとしていた。


「……冷静に考えれば、逆よ」


リュシアが、静かに言った。


空気が、割れる。


「ヴァルフェリア様お一人のために、群れ全体を危険に晒すの? 数で考えれば、答えは出てる」


誰も、返せなかった。


どちらも正しかった。


だから、決められない。


くーちゃんを見る。

カゲツの足元で、尻尾を振っている。


こいつは、どっちを選ぶんだ。


違う。


こいつは、選ばない。


「……どっちも助ける」


顔を上げた。


カゲツが、目を細める。


「は?」


「どっちも命だ。切り捨てない」


「とんだ甘ちゃんだな」


カゲツが、一歩踏み込んだ。


「で、どうするつもりだ? 方法があって言ってるのか」


方法はない。


それでも、選ばないと決めたなら。


俺にできることは、一つしかなかった。


その場で膝をついた。


床に、額を擦りつける。


また、土下座か。


あの時は、サディウスに命じられた。

くーちゃんを助けるために、笑われながら頭を下げた。


でも、今は違う。


これは、俺が選んで下げる頭だ。


命を切り捨てないための土下座だ。


「頼む」


声が、震えた。


「有り金、全部出す。だから……どっちも助かる方法を、一緒に考えてくれ」


魔狼たちがざわめいた。


リュシアが、息を止めていた。


カゲツは、俺を見下ろしたまま、何も言わない。


それから。


ふ、と笑った。


「……それでも、両方を取るか」


カゲツの声から、さっきまでの軽さが少し消えていた。


「目の前の命を見捨てられない。そんな生き方してたら、苦労しただろ」


顔を上げると、カゲツが笑っていた。


今までとは違う顔で。


「アンタみたいな馬鹿を、俺は一人知ってる」


「馬鹿?」


「どっちも助けるって言って、最後まで引かなかった男だ」


カゲツは、ほんの少しだけ目を伏せた。


「まあ、俺はそういうの、嫌いじゃない」


足元の影が、静かに広がる。


「……俺にも、滅多に切らねえ札が一枚ある」


「それで、両方助けられるのか?」


「そこまで便利な札じゃない」


カゲツは肩をすくめた。


「だが、今ここでどちらかを捨てずに済む手にはなる」


それ以上は語らなかった。


「金だけじゃない。面白いもんも見せてもらった」


カゲツは、手帳を閉じた。


「商談成立だ」

次回、取引成立後。


カゲツの影から、次の一手が現れます。


三日後の処刑を、どうひっくり返すのか。


くーちゃん「ついにボーロ、もらえるワン?」

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