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# 第四章 月と、俺が書いた女の子

# 第四章 月と、俺が書いた女の子


今夜の月は、異常なほど大きかった。


おかしいくらいに大きい。


誰かが、わざと近づけたみたいに。


セバスチャンは東の塔の外壁に座って、足を外側に垂らしながら、月を見つめていた。


空の三分の一。


ほとんど月だけ。


(意味あるのか、これ)


特に深刻ぶらずに、自分にそう呟いた。


(何も止められない、何も変えられない、誰にも警告すらできないのに、ここにいることに何の意味がある)


(ただ見てるだけだ)


(俺が書いたものが、全部壊れていくのを、最前列で)


コートのポケットに手を入れた。


考える前に、指が小さなナイフを見つけていた。


それを見る。


何の変哲もない柄。なぜ持っているのかも覚えてない類のもの。


一度、ひっくり返した。


(ここで死んだら──)


(リセットされるのか。元の世界に戻されるのか。家に帰されるのか)


(それとも、ただ──終わるのか)


ゆっくりと持ち上げた。


刃を喉に、平らに当てた。


冷たい金属。本物の。


手が止まった。


ただ──止まった。


自分の意思じゃない。


腕が動きの途中で固まった。何かが仕組みの中に手を入れて、ピンを抜いたみたいに。


もっと力を入れた。


何も起きない。


もっと。


何も起きない。


そのまま数秒、構えていた。


それから腕を下げた。


ナイフを見る。


ポケットに戻した。


(思ったとおりだ)


(これすらできない)


(物語にはセバスチャンが生きてる必要がある。だからセバスチャンは生き続ける。本人が望もうと望まなかろうと)


月を見上げ直した。


(よく書けた物語だな、俺)


---


「セブ」


驚かなかった。


声がする前に、石の上の足音で気づいていた。


アリアナが、数歩後ろで足を止めた。


「こんなところで何してるの。一人で」


「何も」振り向かない。「暇なだけ」


「真夜中に外壁に座って、月をじっと見てるけど」


「美的な理由」


「……それ、答えになってない」


「これしか答えない」


彼女は前に出て、彼の横に座った。


後ろじゃなく。横に。


同じように足を外側に垂らして。同じ月を見て。


しばらく、何も言わなかった。


彼も。


下に見える都は、ほとんど暗い。市場区にいくつかまだ火が残っている。南の中庭を巡る巡回が静かに横切る。下町のどこかで、誰かが控えめに祝っている遠い音。


「今夜、大きいね」彼女がついに言った。


「うん」


「いつもより」


「うん」


横目で彼を見る。「気になる?」


「月が?」


「この静かさが」少し膝を抱える。「遠征のあと、いつもこの静けさがある。終わったあと、都が自分でもどうしたらいいかわからないみたいな」


セバスチャンは下の屋根を見た。


(それに気づいたのか)


(俺が書いたんじゃない。それは──彼女自身だ。誰も頼んでないのに、気づくこと)


「ちょっと気になる」と彼は言った。予定より、本心に近い答えだった。


彼女はゆっくり頷いた。納得したみたいに。


「今日、軍議室で倒れたって、レインが言ってた」


セバスチャンが固まった。


「あいつが言ったのか」


「心配してたから」あっさりと。「本人は直接言わないけど。私を探しに来たってことが、心配してたってことだから」


(レイン)


(そうだろうな)


「大丈夫だ」


「いつもそう言う」


「いつも大丈夫だから」


「セバスチャン」彼女が、ちゃんと彼の方を向いた。「私たち、八歳の時から知り合いだよ。あなたの『大丈夫』がどんな顔か知ってるし、今のがどんな顔かも知ってる。それは同じじゃない」


彼は彼女を見た。


肩に流れるピンクの髪。何も流さない目。


言っても伝わらないかもしれないと知りながら、それでも言うことを決めた人間の表情。


(八歳)


(彼女は彼が八歳の頃から知っている。蓮が一度も書かなかったことまで知っている。章の間も世界が動き続けたから生まれたこと。作者が見てない間も人は人であり続けるから)


「説明できるようなことじゃない」彼は慎重に言った。


「説明しなくていい」彼女は月に視線を戻した。「ただ、全部一人で抱えなければいい」


「それは同じことだ」


「全然違う」


言い返しそうになった。


しなかった。


しばらく、二人とも黙っていた。


下の巡回が一周を終えて、アーチの下に消えていった。


「ひとつ聞いてもいい?」アリアナが言った。


「聞くんだろ、どうせ」


「そうだね」少し首を傾げる。「本当に、皇帝になりたいの?」


セバスチャンは彼女を見た。


彼女はまだ月を見ていた。さりげなく聞いている。帝国で一番重い質問じゃないみたいに。


「みんな、あなたがそう望んでると思ってる」彼女は続けた。「父はもう決まったことみたいに話す。将軍たちもそう扱う。レインまで」少し止まる。「でも、あなた自身がそう言うのを、一度も聞いたことがない」


(言ったことあるか)


(セバスチャンが、原稿の中でそう言ったことが。望んでいると書いたか、それとも筋の都合でただそう動かしただけか)


考えた。


(有能に書いた。計算高く書いた。皇帝に必要な能力を持つ人間として書いた)


(彼が何を望んでいるかは、書かなかった)


(考えたこともなかった)


「守りたいんだ」ついに言った。「帝国を。そこにいる人たちを」


「それは、統治したいってこととは違う」


「違うな」彼は下の都を見た。「違う」


彼女は少し黙った。


「それが、ここ数ヶ月であなたが言った中で、一番本当のことだね」


否定しなかった。


彼女が肩を、軽く彼の肩にぶつけた。軽く。意図が伝わる程度に。


「ほら。そんなに難しくないでしょ」


「これ以上は無理」


「無理させてないよ」少し笑いそうになっている。「真夜中に壁の上に座ってるの、厳密に言えばあなたのせいだから」


「ついてきたのはお前だろ」


「あなたが、足を外側に垂らして外壁に座って、何かひどいこと考えてそうな顔してたから」


「月のことを考えてた」


「美的な理由で」


「そう」


彼女は笑った。


短く。本物の。適切かどうか決める前に出てしまった類の。


石に少し響いた。


セバスチャンは彼女を見た。


笑いが、小さくしようとしてる微笑みに変わっていく。


月の光が、彼女の髪に何かをしていた。


(視覚的に区別できる人物が必要だったから、ピンクの髪にした)


(脅威にならない近しい人物が必要だったから、従姉妹という役にした)


(この笑い方──これは俺が書いたのか?俺が考えたのか?それとも、彼女が勝手に──)


(関係あるか)


(どこから来たかなんて、今ここにいるなら関係あるか)


「アリ」


「うん?」


「ついてきてくれて、嬉しい」


彼女が彼を見た。


表情に、何かが動いた。


驚きとは少し違う。


驚きより静かな何か。


「そう?」


「うん」


彼女はもう一秒、彼を見ていた。


それから、先に目を逸らした。


それは珍しいことだった。


下に都。上に月。本当のことを言ってしまった二人が、それをどうしたらいいか考えている、あの特有の静寂。


セバスチャンは彼女の横顔を見た。


(エリナは、裏切る役として書いた。彼の側近に必要だったから。近さが必要だった。何年もかけて積み上げた信頼が必要だった。それが裏返った時、本当に彼を傷つけるように)


(アリアナには、何も重要な役を書かなかった)


(それなのに今、彼女は真夜中に壁の上で隣に座って、宮殿の中で唯一、彼が本当に望んでいるものを聞いてくれる人間だ)


(俺はそれを書かなかった)


(彼女は、ただそうであるだけだ)


少し、前に身を寄せた。


その動きで、彼女が振り向いた。


顔が近づいた。


彼女は引かなかった。


キスをした。


柔らかく。短く。本物の。


彼女は一瞬、完全に固まった。


それから手が上がって、彼の顎の側面に添えられた。


本当にそこにいるか確かめるみたいに。


「あー、うん」


二人とも振り向いた。


アルドリック叔父が、塔の入り口に立っていた。


夜着。手を組んで。明らかに照明のために必要ではない蝋燭を片手に。


表情は完全に読めなかった。


目だけが違った。


笑みとは言い切れない、けれど近いものをしていた。


二年かけて仕組んだことが、ようやく自然に起きるのを見ている人間の、あの目。


セバスチャンは姿勢を正した。


「アルドリック叔父上」


「殿下」完璧に平静な声。「アリアナ嬢」


「父上」アリアナの声は、ある種、完全に平坦だった。


「夜更けだな」二人を一度、ゆっくり見比べた。文書を読むみたいに。「夜気は冷える。二人とも、休んだほうがいい」


背を向けた。


来た道を戻っていく。


足音が遠ざかる。


完全に、急がずに。


残された静寂は、うるさかった。


アリアナが両手で顔を覆った。


「明日、めちゃくちゃ機嫌よくなって面倒なことになる」


「もう面倒だっただろ」


「これは違う」顔を上げる。「これは──朝食の時に持ち出すよ。大臣たちの前で。次の評議会でも。きっと──」


「アリアナ」


「何」


「部屋に戻れ」


彼女は彼を見つめた。


「あなたも戻りなさいよ」


「すぐ後から行く」


彼女は壁から降りた。


止まる。


振り返る。


いつもと同じやり方で、彼の手首をつかんだ。両手で。強くなく。ただ、そこに。


彼女は彼を直接見ていなかった。


「ちゃんと、自分のこと大事にして」


それだけ。


セバスチャンは長い間、彼女を見ていた。


(ピンクの髪。緑の目。一段落だけ与えて、それで先に進んだ女の子)


(彼女は俺が八歳の頃から知っている。俺は二十二歳の時、深夜3時にアパートで一人で彼女を作った)


(その二つは両方本当で、どうしたらいいかわからない)


「お前も」


彼女は手を離した。


振り返らずに、回廊を歩いていった。


---


彼女の足音が消えるまで待った。


それから壁から降りた。


歩き始めた。


目的地はない。


ただ回廊。石。自分の足音が響くだけ。


(これが、これからの俺の人生だ)


冗談でも、鎧でもなく。ここに来た日から盾みたいに使ってきたあの皮肉な笑いでもなく。


ただの事実として。


(俺は中村蓮じゃない)


(東京のアパートもない。給料もない。何夜書いても変わらなかった47,832アクセスもない。月曜になると焼肉のメッセージを送ってくる光もいない。いつも疲れすぎて行けなかった、あの焼肉も)


(あの人間は、奥多摩の森で、胸に弾を受けて死んだ)


(あの人間は、もういない)


窓のところで足を止めた。


下に都。暗く、眠っている。


キスした時のアリアナの顔を思い出した。


完全に固まった、あの一秒。


本物かどうか確かめてるみたいな。


(すまない、アリ)


(お前の父親の野心を、俺が書いた。政治的な角度を俺が設計した。セバスチャンの継承を守る理由が必要で、それでお前の父親に目標を与えて、お前にその中での役割を与えて、それがお前という人間にとって何を意味するか考えずに、書き続けた)


(お前は政治の駒じゃない)


(一度もそうじゃなかった。ただ、それをまだわかってない作家しかいなかっただけだ)


冷たい石の壁に、手のひらを当てた。


(それと、エリナ)


(裏切れる人間が必要だったから、セバスチャンの側近にエリナを置いた。冷たいスパイは退屈だから、温かさと頭の良さと緑の目を与えた。セバスチャンが完全に愛して、完全に信頼するように作り込んだ。彼女が反対側を選んだ時、全部を奪われるように)


(彼女はいつか、彼の目を見て、反対側を選ぶ)


(いつか、正確に知っている。どうやってかも、正確に知っている)


(それでも俺は、彼女を愛してしまう。俺がそう書いたから。変えられないから)


ゆっくり息を吐いた。


(俺は、すごい悲劇を書いた)


(その中で生きることになるとは、思ってなかった)


少し笑いそうになった。


そこまでは行かなかった。


(何かしないと。このまま、全部起きるのをただの幽霊みたいに見てるだけじゃ駄目だ。ロザリン。レイン。エリナ。全部これから来る。俺はただ──)


(シャストリンとの婚姻だ。それが手だ。レインとロザリンがこれ以上進む前に、ロザリンをシャストリンの皇子に嫁がせる。それが彼を壊すものになる前に、その繋がりを切る)


(最初の本当の一手だ。明日。シャストリンに使いを送ろう──)


「シャストリンだ──!」


下の方から、叫び声がした。


それを別の声が引き継ぐ。


また別の声。


石の上を走る足音。たくさん。


三つ目の声が重なる前に、セバスチャンはもう動いていた。


(何だ)


(あの章はまだ来るはずが──)


(あの章は、まだ来てはいけないはずだ──)


つづく──

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