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第三部 作家は死んだ

第三部 作家は死んだ


蓮はノートパソコンを開いた。


新規ドキュメント。


『セバスチャンの物語──リライト』


白紙のページを見つめた。


(よし)


(セバスチャン。十九歳。完璧な皇子。貧しい者を救い、富裕層を憎む。立ち塞がる王も大臣も全員殺す。仲間が増えていく。ブラックウェル帝国が崩れる。ヴェルドレイクが立つ。終わり)


(なんてシンプルな話だ)


椅子に深く座り直した。


(骨組みはある。感情もある。でも一直線だ。AからBへ。主人公が悪役を倒す。女を手に入れる。エンドロール)


(伝説とは違う。ただの「まあいい話」だ)


本棚を見た。


『ゲーム・オブ・スローンズ』『ハリー・ポッター』『Re:ゼロ』『無職転生』。


全部、自分を裁いているみたいに並んでいた。


(これらと、何が違う)


(セバスチャンの物語に、これらにあるものが何もない)


『ゲーム・オブ・スローンズ』を引き出した。


ぱらぱらめくる。


戻した。


天井を見つめた。


(待てよ──)


体を起こした。


(セバスチャンの敵が、ブラックウェル帝国じゃないとしたら)


(セバスチャン自身が、ブラックウェル帝国だったら)


ノートパソコンをつかんだ。


(ヴェルドレイクの王を殺した皇子。全部征服した男。誰もが恐れる存在)


(それが悪役じゃないとしたら)


(それが主人公だったら)


早いスピードで打ち始めた。


『セバスチャン。ブラックウェル帝国の皇太子。十九歳。ヴェルドレイクを征服したばかり』


(おお)


(これは違う)


(もう弱者じゃない。全員が恐れる側だ。それが面白い、なぜなら──)


打つ手を止めた。


もう一度『ゲーム・オブ・スローンズ』を本棚から引いた。


(政治的な緊張感)


(これが足りなかったんだ)


(帝国一つだと退屈だ。みんなが同じ王に従ってるだけだと退屈だ。必要なのは──)


新しいタブを開いた。


(三つの王国。三つの権力。誰も互いを信じてない。みんな王座を狙ってる)


メモ帳を見た。


名前を書き始めた。


ブラックウェル帝国。これは既にある。


二つ目の王国──


本棚を見た。


自分の机を見た。


窓を見た。


財布を見た。


社員証。


セイリュウ・コーポレーション。


(セイリュウ)


書き留めた。


『ネクサス帝国。皇子──セイリュウ・ネクサス』


三つ目の王国──


ペンを叩いた。


『シャストリン帝国。皇子──キアン・シャストリン』


三つの名前を見た。


(うん。これでいける)


(次は、セバスチャンに誰か必要だ。ヒロイン)


タイプした。『セバスチャンは、エリナという女に恋をする』


見つめた。


(退屈だ)


消した。


打ち直した。


『セバスチャンはエリナに恋をする。実は彼女はシャストリン帝国のスパイで、彼を暗殺しようとしている』


(こっちのほうがいい)


(これで、彼が壊れていく理由ができる。人を信じられなくなる理由。冷たくなっていく理由)


椅子に深く座り直した。


(でも、彼の隣にも誰かいないと。崩れる前の、本物の誰か)


光のことを考えた。


あのバカみたいな笑い方。山。午前2時の森に響く「ミカサーーー」。


(あんな奴)


(理由なんてなくても来てくれる友達)


タイプした。『レイン。指揮官の息子。セバスチャンの一番の友人』


そこで手を止めた。


(レインにも何か必要だ。ただの親友以上の意味が)


天井を見た。


(レインが、恋に落ちたら)


(セバスチャンの双子の妹に)


体を起こした。


(セバスチャンには双子の妹がいる。ロザリン)


(レインは彼女が好きだ。子供の頃からずっと。一度も言ってない)


(そして──)


ゆっくりとタイプし始めた。


『シャストリン帝国がブラックウェルに戦争を仕掛ける』


『その戦いで──』


『ロザリンが死ぬ』


タイプを止めた。


そのまま座っていた。


(そしてレインは──)


(一度も言えなかったレイン。待ちすぎたレイン。彼女が死ぬのを見たレイン)


(それが人をどうしてしまうか)


もうわかっていた。


最後の一行を打った。


『そしてレインは、悪役になる』


蓮は画面を見つめた。


そして勢いよく立ち上がり、椅子が後ろに倒れた。


「は──」


頭を抱えた。


左に二歩。右に二歩。


「シェイクスピアが何だよ」何もない空間を指差す。「俺が頂点だろ」


午前3時、一人の部屋で笑った。完全に普通の人間みたいに。



3ヶ月後。


奥多摩。


午後10時。


蓮はカワサキNinja H2を停め、エンジンを切った。


湖は黒く、静まり返っていた。


橋が水面の上に延びていて、ランプ一つが小さな黄色の光の輪を作っている。


橋の欄干に、男が座っていた。


仮面をつけている。


釣り竿を持って。


後ろの道には、フェラーリ・ラフェラーリがそのまま置いてあった。


(年上だと思ってたのに)


(俺と同い年くらいじゃないか)


蓮はバイクを降り、橋まで歩いた。


「よう」


仮面の男は振り向かなかった。


「作家さん」


「来たよ」


男は釣り竿を置いた。欄干から降りる。


振り向く。


手を差し出した。


「来ると思ってた」


蓮はバックパックを開け、原稿を取り出して、その手に渡した。


男はまた欄干に座り直した。


横の場所を、手で叩いた。


「座れ」


蓮は座った。


男は一ページ目を開いた。


見ずにビールを差し出してくる。


蓮は首を振った。


男は読み始めた。



10分が過ぎた。


20分。


30分。


(この人)


蓮は湖を見た。


スマホを見た。


フェラーリを見た。


ビールを見た。


受け取った。


開けた。


横のポテチも食べた。


イヤホンをつける。


ランプの柱に背を預けた。


夜の湖は、悪くなかった。


それは認める。



二本目のビールを開けたあたりで、眠ってしまった。


「ああ」


蓮の目が開いた。


仮面の男は立っていた。原稿をまだ持って、最後のページを読んでいる。


「これはすごいな」


閉じた。


蓮をまっすぐ見る。


「お前の言うとおりだった」少し原稿を持ち上げて。「俺のより良い」笑いそうになる。「最高だ」


コートに手を入れる。


小切手を取り出した。


差し出す。


10億円。


蓮は受け取った。


見つめた。


(これ、まだ夢の中か)


顔を上げた。


(夢じゃない)


「あ──ありがとう。です」


「いや」


男は背を向けて、フェラーリへ歩き出した。


「待って──」蓮が二歩走って追いかけた。「名前だけでも、教えてもらえます?」


男が止まった。


「セイリュウ」振り向かずに。「セイリュウ・ネクサス」


(ネクサス)


(あの──)


「中村蓮です」


蓮が振り返る。


男はもう振り向いていた。


その目つきが変わっていた。冷たくも、温かくもない、名前のない何か。


「もし」首を傾げた。「お前が自分の小説の主人公だったら、どうなる」


蓮は瞬きした。「は?」


「自分が作った世界で、生き残れるか?」


(マジで言ってるのか、これ)


「いや」蓮は肩をすくめた。「当然、生き残るでしょ。俺は作者だ。全部知ってる」


男は長い間、彼を見ていた。


そして手を上げ。


仮面を外した。


蓮の頭の中が止まった。


(金のピアス)


(チェーン)


(あのコンビニ)


(午前2時)


(いつか俺の名前で泣くって──)


「じゃあ、証明してみろ」


銃がコートから滑らかに出てきた。


蓮にも見えていたが、足が反応するには遅すぎた。


弾が胸に当たった。


その場に崩れ落ちた。


冷たい橋。冷たい空気。欄干の隙間から見える湖。


セイリュウがそばにしゃがんだ。


急がず。


ただそこにいた。


「あの日、コンビニで」蓮をほとんど優しい目で見ていた。「『今日が最後の日ってわけじゃない』って言ったよな」


手にした原稿を見る。


「今日が、そうだった」


笑った。


柔らかく。本物の笑い方で。何かがようやく終わったみたいに。


蓮の視界が端から消えていく。


(お前──)


(お前って奴は──)


(クソ食らえ──)


目を閉じた。


湖は静かだった。


ランプが、風で一度だけ揺れた。


セイリュウはゆっくりと立ち上がった。


コートを直す。


原稿を拾い上げる。


振り返らずに、フェラーリへ歩いていった。


つづく──

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