第二部 罠に落ちた作家
第二部 罠に落ちた作家
日曜の夜。
蓮の部屋。
レッドブル。ポテチ。膝の上に開いた小説。
準備完了。
世界は混乱の中にあった。
すべての王国が燃えていた。
ブラックウェル帝国によって。
次はヴェルドレイクの番だった。
蓮は少し体を起こした。
セバスチャン。十九歳。ヴェルドレイクの王太子。
父の死を、目の前で見た。
王は息子の手に伸ばした。
届かなかった。
「セ──」
言い切れなかった。
「父上ーーー!」
蓮のポテチが、口の手前で止まった。
(お)
ブラックウェルの皇子は、表情も変えずに死体を見下ろした。
王の衣で剣を拭う。
「ブラックウェルに逆らったらこうなる」
セバスチャンが彼を見上げる。
手は震えていた。
目は震えていなかった。
「許さない」
叫ばなかった。
静かに言った。
そのほうが、よっぽど怖かった。
突っ込んでいく。
蓮はポテチを置いた。
(こいつ、書けるな)
お菓子が切れた。
時間を見る。
午前2時17分。
(何か買わないと)
ジャケットを引っ掛けて、ブロックの先のコンビニへ向かった。
午前2時の照明は、いつもどおり眩しすぎた。
迷わずお菓子のコーナーへ。
ポテチ、グミ、レッドブルもう一本。
一袋、落ちた。
手を伸ばす。
先に誰かが拾った。
蓮は顔を上げた。
歳は同じくらい。金のピアス。チェーン。光の反射が変な角度になるロレックス。午前2時にスーツって、それが普通みたいな顔をしている。
その男が袋を差し出した。
「そんなに急ぐな」
蓮は受け取った。「どうも」
「今日が最後の日ってわけじゃないんだから」
蓮は彼を見た。
(は?)
「運命を変えられるのは、神様だけだ」男はあっさりと言った。当然のことみたいに。天気の話でもするみたいに。
「は、消えろよ」蓮は袋をかごに入れた。「同い年だろ。じじいみたいな口調やめろ」
男は笑った。「俺が誰か、知ってるか?」
蓮は店の窓の外を見た。
フェラーリ812スーパーファスト。駐車線なんて提案だとでも思ってるみたいに、二台分を斜めに使って停まっている。
(そりゃそうだ)
「なりたて哲学者くん」蓮は男に視線を戻した。「金持ちのボンボン」
「正解」まだ笑っている。「だが覚えておけよ──」
「いつか俺の名前で泣くってやつ?」蓮が先に言った。「はいはい」
一歩近づく。
「お前みたいな奴は、親の金がなきゃ何でもない」少し顔を寄せて。「他人を午前2時に脅す前に、親父にでも──」
すれ違いざまに肩をぶつけた。
意味が伝わる強さで。
それ以上にはならない強さで。
レジで会計をして、振り返らずに店を出た。
帰宅。
ベッドに座る。
小説を開いた。
(どこまで読んだっけ)
(そうだ、セバスチャンが指揮官に突っ込むところ)
読み続けた。
午前5時頃、目がまともに動かなくなった。
小説を置いた。
寝た。
午前10時13分。
目が覚めた。
天井を見る。
横の小説を見る。
(ああ、そうだった)
手に取って、続きのページを探す。
読み続けた。
午後1時47分に読み終えた。
膝の上に置く。
壁を見つめた。
(よし)
(よかった)
(綺麗な話だ。シンプル。セバスチャンが父の死を見て、全編かけてブラックウェル帝国を滅ぼしていく。父の名でヴェルドレイクを建て直す。王女を手に入れる。終わり)
(よかった)
(けど)
もう一度手に取って、ページをめくり返した。
(これ、レベル上げ系のストーリーじゃないか。主人公がボスを一人ずつ倒して、強くなって、最後に勝つだけ)
(本当のひねりがない。重みがない。読み終えて、思わず黙って座り込むような瞬間がない)
(いい話だ。でも、伝説にはなれない)
最後のページを開いた。
別のメモがあった。
手書き。最初のメモと同じ筆跡。
『よお。
全部読んでくれてありがとう。
気に入ってくれるって、わかってたよ。
これ書き始めてもう何年も経ってる。お前が思ってるより長く。
正直な感想、頼むぞ。
それと──
微妙だったって思ったなら。
クソ食らえ。』
蓮はそこで少し止まった。
(この作家、なかなかすごいな)
読み続けた。
『本気で力不足だと思ったなら──
自分でもっといいの作ってみろよ。
何でも変えていい。足りないもの足してもいい。
3ヶ月後に持ってこい。
奥多摩湖。午後10時。待ってる。
それで、お前のほうが俺のより良かったら──
10億円やる。』
蓮はもう一度読んだ。
10億。
ゼロの数を数えた。
(ありえない)
(絶対にありえない)
『追伸 お前が俺を信じてないのはわかってる。このページの裏を見ろ。』
裏返した。
小切手。
千万円。
自分の名前が書かれていた。
長い間、それを見つめていた。
(一千万)
(俺の年収、丸ごとだ)
(一日12時間働いて)
(一年丸ごとかけて稼ぐ額が)
(ただ、紙の裏に置かれてる)
月曜の朝。
銀行。
両手で小切手をカウンターに滑らせた。消えてしまいそうな手つきで。
窓口の女性が処理する。
画面を見る。
蓮を見る。
もう一度画面を見る。
「確認できました」
蓮は銀行を出た。
歩道に立つ。
スマホを見る。
残高。
本物。
一分間、丸ごと動けなかった。
通りすがりのサラリーマンが肩をぶつけてきた。
気づかなかった。
(一千万円)
(本物だ)
(で、もし小説を書き直したら──)
(10億円)
つづく──




