第二章 過去篇
第二章 過去篇
第一部 ただ毎日が過ぎていく作家
午前6時13分。
アラーム。
蓮は鳴り終わる前に止めた。
天井を見上げる。
(また月曜か)
起きる。
スーツを着る。
家を出た。
電車は満員だった。
そりゃそうだ。
誰かの肘が肋骨に刺さる。誰かのバッグが背中に当たる。自分よりいいスーツを着た男が、死んだ目で資料を読んでいる。
蓮はつり革を握って、何も見ていなかった。
(あのいいスーツの男)
(三年後の俺だ)
(いや、もう今の俺か)
セイリュウ・コーポレーション。投資銀行部門。十四階。
蓮は午前7時58分に席に着き、ノートパソコンを開いた。
エクセル。
ブルームバーグ端末。
金曜の夜から溜まった未読メール、47件。
下から順に片付けていく。
午後9時。
スマホが鳴った。
『今夜焼肉行こうぜ』──光
画面を見る。
モデルは三つ、半分しか作ってない。プレゼンも未完成。上司の締め切りは11時。
『今日月曜だぞ』
『週末ならいいけど』
スマホを伏せて置いた。
作業を続けた。
午前0時45分。
帰宅。
靴を脱ぐ。
すぐには電気をつけなかった。
少しだけ、暗闇の中に立っていた。
(よし)
電気をつける。
インスタを開く。
光のストーリー。
焼肉。ビール。誰かの話で笑ってる四人。定時で仕事を終えて、まだ余力がある人間特有のあの顔。
二回見た。
スマホを置く。
(ゲーム会社に入ればよかった)
(光みたいに)
(そしたら、俺もそこにいたのに)
カップ麺を作った。
シンクの前に立って食べた。
寝た。
土曜日。
高尾山。
光が二月からずっと話してた、山の中腹にある焼肉屋。
来てよかった。
正直、来てよかった。
牛タンを網に乗せて、じゅうじゅう焼ける音を聞いていたら、五日ぶりに胸の奥が少しほどけた気がした。
光がビールを二本開けて、一本渡してきた。
しばらく無言で食べた。網の音と山の空気と、他のテーブルの遠い話し声だけ。
「こんな人生、誰が望むよ」蓮は網を見ながら言った。大げさにじゃなく。ただ本当にそう思って。「一日中働いて。楽しみもない。恋もない。何もない」
光は咀嚼しながら考えていた。
「これがマトリックスだよ」箸で蓮を指す。「死ぬほど勉強して、慶應入って、セイリュウ・コーポレーションでサラリーマンになることを自分で選んだクズ野郎」
「給料はいいだろ」
「全部カウンセリングに使ってるけどな」光が肉をひっくり返す。「一人暮らし。彼女なし。毎日仕事。何にも時間ない」蓮を見る。「その金、無駄になってるぞ」
蓮は何も言わなかった。
ビールを飲んだ。
「あの小説、どうなった」光が慎重に言った。傷口を聞くみたいに。
蓮はスマホを開いた。
サイトのページ。
47,832アクセス。
光に画面を見せた。
「昨日と同じ」スマホをしまう。「一昨日とも同じ」
光が顔をしかめた。
「今の読者、異世界とラブコメしか読まないからな」蓮が肉を一口刺す。「同じ展開。同じプロット。三話目までにチート能力もらって、女子に惚れられる主人公」首を振る。「もう嫌だ」
「いっそ捨てて、新しいの書けば」
蓮は何も言わなかった。
光も無理には聞かなかった。
食べ終えて、会計をして、駅へ向かって下り始めた。
夜の山は静かだった。木と、道沿いの灯りと、自分たちの足音だけ。
「俺、どんな小説書けばいいんだろうな」蓮が前を見ながら言った。
光は真剣に考えた。
「『進撃の巨人』みたいなやつ」
「それ漫画だろ」
「じゃあ小説版作れよ。なんかすごいやつ。傑作」
「俺にそんなの書けるわけないだろ」蓮が石を蹴る。「そんな才能ない」
「ミカサーーー!」光が突然、木に向かって叫んだ。
蓮は彼の腕をつかんだ。「叫ぶなって──」
「お前みたいな嫁が欲しいーーー!」
「人いるから──」
「綺麗で強くてーーー!」
「お前をこの山に置いて帰るぞ」
光は笑った。
蓮も笑わないようにした。
無理だった。
帰宅。
午前1時20分。
蓮は靴を脱ぎ捨て、鍵をカウンターに置いて──手を止めた。
ドアの前に、何かある。
開けてみる。
小説だった。
まるで最初からそこにあったみたいに、玄関マットの上に置かれていた。
『セバスチャンの物語──世界を征服した皇子』第一巻。
手に取る。
通路の両側を見た。
誰もいない。
裏返してみる。
著者名なし。出版社名なし。背表紙には何も書いてない、ただの紙。
一ページ目を開く。
手書きのメモ。
『こんにちは。
あなたも作家だと知っています。
この小説をずいぶん長く書いてきましたが、もう一歩足りない気がしています。
読んで、率直な感想をもらえませんか?
連絡先は──』
メールアドレスの部分が、にじんでいた。ほとんど読めない。どこかで水に濡れたみたいに。
目を細めて見た。
判読できなかった。
メモにクリップで封筒が留めてある。
開けてみる。
十万円。
現金。
蓮は土曜の深夜1時、誰でもない誰かが置いていった小説を前に、十万円を手に持ったまま玄関に立っていた。
(マジで誰だよ)
(小説読むだけで十万円くれる奴って)
スマホでまだ開いたままの投稿サイトを見た。
47,832アクセス。
小説を見る。
金を見る。
(明日は日曜だ)
中に入った。
ベッドに座る。
一ページ目を開いた。
(十万円分の価値、見てやるか)
つづく──




