番外編-21 クロノスタシス
目の前が、青白く滲んだ。
皮膚の奥に火が入る。
血管の内側を、誰かの指がなぞっていく。
骨の芯に、祈りに似た呪いが染み込んでいく。
そして、世界が真っ暗になった。
燃えるのだと、エイベルは思った。
これで終わるのだと。
だが。
「エイベル」
声がした。
闇の向こうから、聞き慣れた声が。
「待たせてごめんね」
黒煙が、エイベルの身体を包んでいた。
煤のような闇が、青い炎を喰らっている。
炎は獣のようにエイベルの内側へ食い込もうとし、黒煙はその牙を一本ずつ折るように、青い魔力の筋をほどいていく。
「……あぁ!?」
アレンの声が、壊れた教会に響いた。
「どうなってやがる!? クソが!!」
青い炎の向こうに、レヴィンが立っていた。
外套は裂け、頬には血が流れている。
片腕は乱暴に止血され、呼吸も浅い。
それでも、その目だけはまっすぐだった。
「俺の黒煙は、魔力元素を散らすんだ」
レヴィンは、静かに言った。
「簡単に言うなら、術式や元素魔法をかき消すことができる」
「はぁ!? 訳わかんねぇ!!」
アレンが吠える。
「クロノス様の権能なんだぞ!? この青炎は絶対なんだよ!!」
「この世に絶対なんてない」
レヴィンは、少しだけ笑った。
「ね、エイベル」
「レヴィン……」
エイベルは、掠れた声で名を呼んだ。
「何故、来たんですか」
「絶対なんかないから。約束したから。君を放っておけないから」
レヴィンは、少し考えるように首を傾げた。
「うーん。理由は沢山あって、もう分かんないや」
黒煙が、青い火を押し返す。
「ただ、君を助けたいからかな」
「怪我をしていますね」
「俺も襲われちゃってさ」
「私に関わると、そうなります」
「でも、俺は死なない」
「いつか死にますよ」
「うん。それでもいい」
レヴィンは、エイベルの前へ一歩出た。
「次は行動で示すって言ったろ」
足元から、黒煙が渦を巻いた。
「倒そう。アレンを」
「てめぇ……レヴィンか……!」
アレンの顔が、怒りで歪む。
「クソ!! あいつ、しくじりやがったか!! だから外部は駄目なんだ、ゴミが!! クソ!!」
レヴィンは、答えなかった。
黒煙が、彼の足元から広がっていく。
柔らかく相手を止めるための煙ではなかった。
深い闇。
人を殺すと決めた者の目。
「黒牙第八席、黒煙のレヴィンだ」
「くく……俺を前にして名乗るとは、傲慢だぜ、お前」
アレンが、両腕を広げた。
「俺はクロノス神教会、大神官。刻神の秒針が一針」
金の懐中時計が、炎に照らされて鈍く光る。
「火刑のアレンだ!!」
レヴィンは横目でエイベルを見た。
「エイベル。俺に近寄って」
「……はい」
エイベルは、焼けた足を引きずりながらレヴィンの隣へ立つ。
その姿を見て、アレンが笑った。
「いいぜ。いくぞ、虫けら共」
壊れた教会の天井から差し込む月光が、赤く染まった。
「神に選ばれた人間との差ってやつを、教えてやる!!」
空が燃えた。
教会の上に、赤い炎が咲いていく。
炎は揺らめく火ではない。
花のように形を持ち、花畑のように広がり、ひとつひとつに重さがあった。
火の花が、空を埋め尽くす。
「な、何が……!?」
「質量のある炎だ」
アレンが、指を下ろす。
「潰れて死ね」
「楽焔!!」
赤い炎の花畑が、一斉に落ちてきた。
天井を押し潰し、柱を砕き、残っていた壁をへし折りながら、空そのものが降ってくる。
「レヴィン!」
「大丈夫」
黒煙が全方位に開いた。
赤い炎と黒煙が衝突する。
教会の残骸が吹き飛び、墓石が軋み、地面の灰が渦を巻いた。
炎が喰われていく。
黒煙は燃えない。
ただ、炎の魔力元素をほどき、形を失わせ、赤い花を煤に変えていく。
次の瞬間、周囲一帯が爆ぜた。
教会は、完全に消し飛んだ。
残ったのは、月明かりに晒された墓地と、黒く焼けた大地だけ。
「あ!? その煙、質量もあんのかよ!?」
アレンが瓦礫の上で舌打ちする。
「大丈夫? エイベル」
「えぇ、何とか……」
エイベルは、指先を動かした。
風が鳴る。
「真空波!!」
空間が裂けた。
しかし、アレンは手を振る。
「炎檻!!」
赤い炎の檻が立ち上がる。
熱が空気を歪め、真空の刃が乱れる。
ワールウィンドが檻の内側で軌道を崩し、火の壁を削りながら散った。
「エイベル、攻撃を合わせよう!」
「ええ……!」
黒煙が地を走る。
炎の檻へ絡みつき、ひしゃげさせる。
赤い格子が魔力を失い、霧散する。
その瞬間を、エイベルは逃さなかった。
「真空波!!」
「ぐっ!!」
真空がアレンの肩口を裂いた。
アレンは後ろへ跳ぶ。
「やった!?」
「いえ」
エイベルは首を振る。
「真空波は、吹き飛ばす技ではありません。わざと後ろへ飛び、致命傷を避けています」
アレンの傷が、巻き戻るように塞がっていく。
裂けた肉が戻る。
流れた血が消える。
まるで、その傷が最初からなかったかのように。
「くくく……おもしれぇな」
アレンが、肩を回した。
「おもしれぇよ、お前ら」
「不死身なのか……アレン……」
「化け物ですね」
「エイベル……てめぇ、再審だ」
アレンの目が、血走った。
「再審だ、再審だ、再審だ!!」
懐中時計が、甲高く鳴る。
「罪があるのに認めねぇのか!? お前は人の心も失ったか!? なぜ、のうのうと生きてやがる!?」
アレンが叫ぶたび、空気が青く焼けた。
「お前は娘のために何人を殺した!? 罪で言えば、お前の方が大罪を犯してるだろうがよぉ!!」
エイベルの指が、わずかに震える。
「いいか、てめぇが殺したのは悪人かもしれねぇ!! だが全員、人間だ!! 命は平等だろうが!!」
「……」
「エイベル……」
レヴィンが、名を呼ぶ。
だがエイベルは、俯いたままだった。
「火刑執行」
アレンが、嗤う。
「刻罪告解!! 刻罪告解!! 刻罪告解!!」
エイベルの全身に、赤い数字が浮かび上がった。
腕に。
首に。
胸に。
腹に。
脚に。
100。
100。
100。
「それがてめぇの罪の重さだ!!」
アレンが両腕を広げる。
「内部から焼き切ってやる!! 内側まで黒煙で止められっかなぁ!?」
エイベルの身体が、内側から青白く滲み始めた。
「エイベル……!」
「レヴィン……すみません」
エイベルは、静かに笑った。
「ここまでしてもらったのに……これは、お手上げですね」
「まだ何か……」
「いいえ。もういいんです」
エイベルは、荒れた息の中で目を閉じる。
「私は、やるだけやりました。きっと、家族も褒めてくれます」
ほんの少しだけ、声が震えた。
「同じところには、行けませんが……」
「大丈夫だよ」
「大丈夫ではありませんよ」
「いや、大丈夫だよ」
レヴィンは、エイベルの肩を掴んだ。
「エイベルは言ったよね。言葉だけなら誰でも発せる。信用できないって」
「……えぇ」
「今が、その時なんだ」
「どういうことですか?」
「大丈夫」
数字が、急速に落ちた。
100。
72。
40。
10。
5。
2。
「死ね!! 燃え尽きろ!!」
アレンの叫びが、壊れた墓地に響く。
1。
そこで、止まった。
「……止まった?」
エイベルが、呆然と呟いた。
「止まるわけねぇ……」
アレンの顔が歪む。
「止まるわけねぇだろ!! お前はクラリスとは違ぇ!! 明確に罪がある!! そんなわけねぇ!!」
「うん。止まってないよ」
レヴィンが、静かに言った。
「ただ、伸びた」
「……何を、しやがった」
「エイベルの最後の一秒を、俺が一生かけて背負う」
黒煙が、レヴィンの頬を撫でる。
「だから、ゼロにはならない」
「どういうことだ!? てめぇには入れてねぇはずだ……!!」
レヴィンの頬に、赤い数字が浮かんでいた。
1。
「君は入れてない」
レヴィンは笑った。
「俺が、背負った」
「なぜ……そんな無茶なことを……」
エイベルの声が震えた。
「もしゼロになれば、あなたも焼け死ぬんですよ?」
「エイベルに命を懸ける価値があるからだよ」
レヴィンは、当たり前のように言った。
「言ったでしょ。君の全てが欲しいって」
「レヴィン……あなたという人は……大馬鹿で……本当に、頑固者ですね」
「よく言われる」
エイベルは、小さく息を吐いた。
「久しぶりに、してみたくなりました」
「何を?」
「信頼……ですよ」
エイベルは、ゆっくりと顔を上げる。
「背中を任せても?」
「任せてよ、エイベル」
黒煙が、二人の足元で深く揺れた。
「期待には応える」
「えぇ」
エイベルは、焼けた指先で風を掴む。
「知っています」
アレンの口元が引きつった。
「気持ち悪ぃんだよ……」
青炎が、彼の背後で膨れ上がる。
「罪人同士で慰め合ってんじゃねぇぞ!!」
「風に黒煙を!!」
「わかった」
「空纏衝!!」
高速の突風が、アレンへ襲いかかる。
その風に、黒煙が乗った。
煤のような闇が、風の速度をまとったままアレンへ伸びる。
次の瞬間、黒煙が実体化した。
「ぐぁっ!?」
黒い質量が、アレンの身体を叩きつける。
「今です!!」
エイベルが空纏衝で距離を詰める。
「真空波!!」
空間が鳴った。
真空の刃が、アレンの身体を刻む。
「がぁぁあああ!!」
確かに、切った。
腕も、胴も、骨も、肉も。
だが次の瞬間、傷が巻き戻るように塞がっていく。
「焔獅子!!」
炎の獅子が、エイベルへ襲いかかった。
牙が迫る。
熱が頬を焦がす。
だが、エイベルは動かなかった。
黒煙が割り込み、炎の獅子をかき消す。
「クソが!! クソが、クソが!!」
アレンが髪をかき上げ、血走った目で二人を見る。
「こんなゴミ共に……俺の魔法じゃ相性が悪すぎる……!! 権能も無効化されちまう!!」
アレンの声は、もう笑っていなかった。
「何故、救済を拒む!? こんな世界で生きていて、何の意味があるんだ!? エイベル・クロウ!!」
エイベルは、レヴィンの背中を見た。
黒煙が揺れている。
自分のために、1を背負った男がいる。
「少し前の私なら、きっと救済を選んでいたかもしれません」
エイベルは、静かに言った。
「ですが、私にはミアがいます。きっと、待ってくれています」
風が、指先に戻ってくる。
「そして今、待ってくれているのは、ひとりじゃない」
「お前は咎人だろうが!!」
「それでもです」
エイベルは、顔を上げた。
「今は、はっきりと分かります」
レヴィンが隣で笑う。
「私は、ひとりじゃない」
「死ねよ、ゴミがあぁぁぁぁ!!」
アレンが、空へ手を伸ばした。
「楽焔!!」
空に、再び炎の花畑が広がった。
重さを持った火の花が、夜空一面に咲く。
普通なら絶望するしかない。
回避不能。
当たれば即死。
墓地も、教会も、人間も、すべて押し潰されて焼け落ちる。
だが、エイベルの心は不思議なほど静かだった。
背中を守ってくれる人間がいる。
だから、前を見ていられる。
空が落ちてくる。
エイベルは、構わず地を蹴った。
「空纏衝!!」
燃える空の下を、風が駆ける。
「エイベル!」
「任せました」
「任された」
黒煙が天へ広がった。
落ちてくる火の花を、ひとつずつ喰らう。
黒煙が焼け、弾け、裂ける。
それでもレヴィンは下がらない。
エイベルはアレンの懐へ入った。
掌を、アレンの腹へ押し当てる。
そこに作るのは、刃ではない。
極小の真空。
圧力差を一点へ閉じ込めた、魔力流体学の到達点。
「真空炸裂!!」
掌の中で、超真空が爆ぜた。
轟音。
アレンの身体が、凄まじい勢いで吹き飛ぶ。
瓦礫を砕き、墓石を割り、赤い炎を引き裂いて、夜の向こうへ叩きつけられた。
同時に、落ちてきた空を黒煙が喰い尽くす。
赤い花畑が、黒い煤になって消えた。
静寂が落ちる。
しばらくして、瓦礫の山が動いた。
「……もういい」
アレンが立っていた。
腹は裂け、ローブは破れ、片腕は半ば炭になっている。
それでも、傷はじわじわと巻き戻り始めていた。
「もう充分だ」
アレンは、口元の血を拭った。
「お前らは、この世界で生きろ」
赤い炎が、彼の足元に集まっていく。
「俺には、救わないといけない人間がいる。今も、世界のどこかで助けを求めている人間がいる」
その声には、怒りだけではない何かが混じっていた。
「ここで死ぬ訳にはいかねぇ……」
レヴィンは追わなかった。
追えなかった。
黒煙は細く震えている。
レヴィン自身も、立っているのがやっとだった。
「お前らは世界の真実を知らねぇ」
アレンが、吐き捨てる。
「バカに話しても、何も通じねぇんだ……」
炎が、アレンの身体を包む。
次の瞬間、彼は流星のような赤い火となって、遠くの空へ飛んでいった。
残されたのは、焼けた墓地と、崩れた教会と、満月だけだった。
「勝った……のかな?」
レヴィンが、ぽつりと言う。
「……えぇ」
エイベルは、荒い息のまま頷いた。
「恐らく……今回は、ですが……」
「やったぁ……」
レヴィンが、その場に座り込みそうな声を出す。
「俺たち、SS級重要指名手配犯に勝ったんだよ? ありえないって、本当に」
「ふふ……そう、ですね」
エイベルは笑った。
その瞬間、膝から力が抜けた。
「エイベル!」
崩れ落ちる身体を、黒煙が受け止める。
乱暴な闇ではなかった。
まるで、壊れた硝子を包む布のように、静かで、柔らかい黒だった。
レヴィンが、その下へ身体を差し込む。
「帰ろう」
レヴィンは、血の滲む顔で笑った。
「一緒に」
エイベルは答えようとした。
けれど、声は出なかった。
代わりに、ほんの少しだけ頷く。
大きな満月が、二人を照らしていた。




