番外編-20 最後の一秒
雷が、エイベルのすぐ横を貫いた。
白い閃光が墓地を裂く。
エイベルは足元で風を爆ぜさせた。
空纏衝。
体が横へ滑る。
雷撃が、直前までエイベルの頭があった場所を貫いた。
背後の墓石が砕け、石片が月明かりの中に散る。
着地の瞬間、今度は炎が来た。
線ではない。
面だ。
逃げ場を潰すように、広い火炎が地面を舐めながら迫ってくる。
エイベルは右手を払った。
風が走る。
正面から受けるのではなく、横へ流す。
炎の面が裂け、左右へいなされた。
熱が頬を撫で、外套の端が焦げる。
息を吸う暇もない。
足元の影が、膨れた。
エイベルは即座に墓石の裏へ身を滑らせる。
直後、黒い棘が地面から突き上がった。
一本。
二本。
十本。
墓石の影ごと貫くように、黒い針が月光の中で伸びる。
エイベルは体を低くし、墓石を蹴って横へ飛んだ。
背後で石が割れる。
割れた墓石の破片が、足元に転がった。
一つ一つが、ちゃんとした魔法だった。
雷は速く。
炎は広く。
黒い棘は死角から来る。
どれも雑な脅しではない。
当たれば致命傷になる。
神教会の神官たちは、みな魔力に優れていた。
盗賊のように、下っ端なら誰でもなれるような雑多さがない。
ただ荒いだけの刃ではなく、磨かれた刃が何本も並んでいる。
エイベルは、完全に防戦へ回っていた。
真空波は、遠距離から放つ魔法ではない。
射程はせいぜい十五から二十メートル。
火力は高い。
だが、その分、集中力を要する。
風を読み、魔力を絞り、空気を裂く。
発動までの一瞬がいる。
その一瞬が、今はない。
雷。
炎。
黒い棘。
絡みつくような霧の魔法。
神官たちは、ただ数が多いだけではなかった。
一人一人が、確実にエイベルを削る魔法を持っている。
防戦一方では、真空は撃てない。
「ははっ」
壊れた教会の奥から、アレンの笑い声が響いた。
「逃げろ逃げろ、風読み」
アレンは、もう教壇の残骸に座り直していた。
片膝を立て、肘を乗せ、退屈そうに顎を支えている。
自分で戦う気はない。
その隣には、青い魔力障壁を展開する神官が立っていた。
透明に近い球状の障壁が、アレンの周囲を覆っている。
月明かりを受けるたび、薄い青の波紋が浮かんでは消えた。
高みの見物。
まさにその言葉が似合う姿だった。
「無様に死ね」
アレンは口元を歪める。
「だが、簡単には死ぬんじゃねぇぞ?」
エイベルは答えない。
答える余裕がない。
右から雷。
左から炎。
足元から黒棘。
背後から風の刃。
神官たちは声を上げない。
名乗らない。
笑わない。
ただ淡々と、エイベルを削りにくる。
「防御と攻撃を同時には、できそうにありませんね……」
エイベルは、低く呟いた。
雷が来る。
エイベルは身を沈め、風を爆ぜさせて避けた。
黒い棘が足元から伸びる。
墓石を蹴って飛ぶ。
そして、炎。
今度は避けなかった。
「ならば……仕方ありません」
エイベルの全身を、風が包んだ。
空纏衝。
防御ではない。
加速。
エイベルは炎へ突っ込んだ。
熱が皮膚を焼く。
外套が焦げる。
頬がひりつき、白い手袋の一部が黒く変色する。
それでも止まらない。
炎の面を突き破り、神官たちの懐へ入る。
近距離。
その距離で、エイベルの魔法発動速度に勝る者はいなかった。
神官たちは魔力に優れている。
術式も洗練されている。
だが、ほとんど全員が、発動までに一瞬の溜めを要する。
エイベルには、それで十分だった。
空間が鳴る。
きん、と。
教会跡に、細い音が響いた。
五人の神官が、同時に砕け散った。
首。
腕。
胸。
腹。
足。
黒いローブがばらばらに裂け、血と肉片が月光の下へ舞う。
その瞬間だった。
「かかったな?」
アレンが笑った。
ばらばらになった死体が、青く光った。
エイベルの目が見開かれる。
次の瞬間、青い炎が爆ぜた。
爆発。
青い火が、死体を中心に膨れ上がる。
炎は肉片を呑み、血を焼き、墓石を吹き飛ばした。
エイベルは咄嗟に風を纏う。
遅い。
爆風が体を叩きつけた。
視界が白く跳ねる。
右腕に裂傷。
腹に鈍い衝撃。
焼けた痛みが、皮膚のあちこちへ走る。
エイベルは地面を転がり、墓石に肩を打ちつけた。
「火刑執行」
アレンの声が響く。
「獅子の心臓」
アレンは教壇の残骸に座ったまま、退屈そうに懐中時計を揺らしていた。
「クロノス様に貰った権能だ」
青い残り火が、墓地に揺れている。
「俺と契約した者は、契約を執行されると命を燃やす」
アレンは、焦げた死体の欠片を見下ろすことすらしなかった。
「そいつら、無論絶命」
口元だけが歪む。
「死んでも役に立つだろ?」
煙が夜風に薄まっていく。
エイベルは、膝をついていた。
白い手袋は裂けている。
外套は焼け、肩口から血が流れている。
左腕には炎症。
額からも血が伝っていた。
地面には、青い残り火が点々と立っている。
普通の炎ではない。
人の命を、罪ごと燃やしたような火だった。
「最低ですね……」
エイベルは言った。
「命を無駄にしないためだ」
アレンは平然と返す。
「同意がなきゃ、獅子の心臓は契約できねぇ」
その言葉の意味を、エイベルは一瞬で理解した。
この神官たちは、知っていた。
自分が死ねば燃えることを。
命を燃やして敵を巻き込むことを。
それでも契約している。
狂信。
その二文字が、頭に浮かぶ。
次の瞬間、三人の神官が動いた。
速い。
エイベルの目が細くなる。
足元に風。
空纏衝。
敵も使っている。
三人は墓石を蹴り、風を纏って一気に距離を詰めてきた。
エイベルは右手を上げる。
殺すか。
いや。
殺せば、爆発する。
なら、回避。
空纏衝で横へ抜ける。
そこまで考えた、一瞬。
迷いが生まれた。
その迷いを、神官たちは待っていた。
三人が同時に飛びかかる。
一人が右腕を掴む。
一人が左肩へしがみつく。
一人が背後から胴を締め上げる。
羽交い締め。
エイベルの体が止まった。
「っ……!」
同時に、別の神官たちが魔力を練る。
黒い棘。
地面からではない。
墓石の影。
壁の隙間。
死角から伸びた黒い針が、羽交い締めにした三人の神官へ向かった。
狙いは、エイベルではない。
三人の脳幹。
黒い棘が、三人の首の後ろを貫いた。
神官たちの体が痙攣する。
青い光が、皮膚の下から漏れた。
エイベルの背筋が冷える。
即座に動いた。
空間が鳴る。
三人の神官を、瞬時にばらばらにする。
同時に、足元で風を爆ぜさせた。
空纏衝。
死体を周囲へ吹き飛ばす。
右へ。
左へ。
前へ。
間に合え。
青い光が膨れ上がる。
間に合わない。
爆発。
三方向で、青い炎が咲いた。
直撃は避けた。
だが、爆風までは避けきれない。
青い炎が墓石を砕き、衝撃がエイベルの体を後ろへ弾いた。
背中が地面を擦る。
肺が軋む。
右脇腹に焼けるような痛み。
エイベルは、片膝をついた。
息が荒い。
見える。
神官たちの戦い方が。
自分を殺すためではない。
自分の判断を鈍らせるためだ。
殺せば爆ぜる。
殺さなければ捕まる。
回避すれば、次の魔法が来る。
迷えば、絡め取られる。
エイベルの額から、血が落ちた。
アレンは、青い残り火を見下ろしていた。
それから、ゆっくりとエイベルへ視線を戻す。
「エイベル」
その声は、少しだけ低かった。
「そいつら、お前のせいで死んでる」
エイベルは答えない。
青い炎の残滓が、墓石の間で揺れている。
燃えた神官たちの影は、もうどこにもない。
「お前の罪を数えておけよ?」
アレンは指を折るように、一人ずつ名を告げた。
「ナターシャ。ケイル。ジン。シエル。ゼダン」
風が止まったように感じた。
「みんないいやつだった。家族もいる」
アレンの口元が、歪む。
「お前のせいで死んだ」
エイベルは、血の混じった息を吐いた。
「名前……覚えているんですね」
「あ?」
アレンの目が鋭くなる。
「当たり前だろ。仲間だ」
「仲間を消耗品として使うのは、どういう気分ですか?」
アレンは笑った。
怒りではない。
侮蔑でもない。
心底、理解できないものを見たような笑いだった。
「お前には一生理解できねぇよ、ボケ」
アレンは懐中時計を指で弾く。
ちん、と音が鳴る。
「次の輪廻で必ず会う。この世界は地獄だぜ、エイベル・クロウ」
青い炎が、墓地のあちこちで小さく揺れた。
「お前の魂も、俺が導いてやる」
アレンは、ひどく優しい言葉を吐くように言った。
「救済だ。罪を背負って行くな。俺が罪を浄化してやる」
その目に、慈悲のようなものが浮かぶ。
「この救済の青炎でな」
「間に合っています……!」
エイベルが地を蹴った。
体が悲鳴を上げる。
焼けた皮膚が裂ける。
肩の傷が開く。
脇腹に鈍い痛みが走る。
だが、止まらない。
左拳で墓石を叩き割った。
砕けた石片が、月光の下に散る。
「空圧弾」
風圧が石片を撃ち出した。
礫が神官たちへ降り注ぐ。
黒いローブが揺れ、魔法の構えが崩れる。
その隙に、エイベルはさらに加速した。
空纏衝。
墓石の間を、風のように抜ける。
一人目。
空間が鳴る。
神官の胴が裂ける。
青い光が膨れ上がるより早く、エイベルは次へ移る。
二人目。
首が落ちる。
血が月明かりへ散る。
三人目。
腕。
胸。
腹。
爆発が追いつくより先に、エイベルは敵をばらばらにしていく。
「ほう」
アレンが、わずかに目を細めた。
「覚悟が決まったな」
青い爆発が遅れて咲いた。
一つ。
二つ。
三つ。
墓地が青く照らされる。
墓石が砕け、枯れ草が燃え、古い土がえぐれる。
エイベルは無傷では済まなかった。
黒い棘が肩を貫く。
腕を裂く。
雷が脇腹を焼き、内臓を痺れさせる。
炎が肌を焼く。
爆風が骨を軋ませる。
血が飛んだ。
月光の下で、血の雨が降るようだった。
それでも、エイベルは止まらなかった。
神官たちは、次々と青炎になった。
総勢二十人。
すべてが、青い火となって燃え尽きた。
やがて、墓地に静けさが戻る。
青い残り火だけが、墓石の間で揺れていた。
エイベルは、血まみれで立っていた。
息が上がっている。
左目は開かない。
右腕は動かない。
右足は引きずっている。
左腕は重度の火傷で、指先の感覚がほとんどない。
全身に裂傷。
炎症。
打撲。
骨折。
負傷箇所を確認するのは、もうやめた。
動ける。
なら、十分だった。
エイベルは、ゆっくりと教会へ向かう。
壊れた入口を抜ける。
砕けた扉を踏み越える。
朽ちた長椅子の残骸を横切る。
その先に、アレンがいる。
満月の光を浴びたまま、火刑のアレンは笑っていた。
「あとは、あなただけです。アレン」
「はぁ?」
アレンは、心底呆れたように眉を上げた。
「てめぇ、まだセバスチャンがいるだろうが」
アレンの隣。
青い障壁を張っていた神官が、静かに立っている。
その首が、無音で落ちた。
ころり、と床へ転がる。
障壁が解けた。
月光が、アレンの足元まで素通りする。
アレンは、落ちた首を見た。
それから、ゆっくりとエイベルを見る。
「はぁ……」
ひどく深いため息だった。
「これは大罪だぜ、エイベル」
エイベルは、血の混じった息を吐いた。
「私は地獄に落ちます」
その声は、掠れていた。
それでも、折れてはいなかった。
「ですが、ミアだけは取り返します」
「その身体でか?」
アレンは笑った。
血まみれのエイベルを見下ろしている。
左目は開かない。
右腕は垂れたまま動かない。
右足は引きずっている。
左腕は焼け、指先の感覚もほとんどない。
それでも、エイベルは立っていた。
「状態は関係ありません」
声は掠れていた。
だが、視線だけは揺れていない。
「あとは、あなたを倒すだけです」
「はっ」
アレンは、心底面白そうに笑った。
「いいぜ。じゃあ数えろ」
金の懐中時計が、月光を拾った。
ちん、と小さな音が鳴る。
「火刑執行」
アレンの声が、廃教会に落ちた。
「刻罪告解」
次の瞬間、エイベルの左腕に赤い数字が浮かんだ。
100。
焼き印のように、皮膚の上へ刻まれている。
「……これは」
「お前の罪を数えろ」
アレンが言った。
「エイベル・クロウ」
数字が減る。
99。
エイベルは瞬時に思考を巡らせた。
カウントダウン。
そう見て間違いない。
0になれば何かが起きる。
先ほどの青炎。
骨すら残さない火刑。
ならば、0だけは避けなければならない。
時限式か。
数字の減り方を見る。
一秒に一つ。
単純な減少なら、残りはおよそ百秒。
だが、発動直後の誤差を含めても、二分前後。
98。
まだある。
97。
二、三分というところでしょうか。
充分、殺れる。
エイベルは、血に濡れた指先をわずかに動かした。
アレンまでの距離。
障壁はない。
周囲の神官はすでに倒した。
足は重い。
右腕は使えない。
左腕は焼けている。
それでも、真空は撃てる。
撃てるはずだった。
「エイベル」
アレンの声が、月光の下で響いた。
「お前は、俺の仲間を殺した」
エイベルは答えない。
「仲間には家族がいたんだぜ」
96。
アレンはゆっくりと教壇の残骸から降りる。
その歩調に焦りはない。
「俺のやったことと、お前のやったことに違いはあるのか?」
エイベルの呼吸が、わずかに乱れた。
「ぁあ?」
アレンの笑みが深くなる。
「ねぇよな?」
エイベルは沈黙した。
言い返せる言葉はある。
彼らは自ら契約していた。
アレンの命令で死んだ。
神教会の神官だった。
自分はミアを取り戻すために戦った。
理屈なら、並べられる。
だが、死んだ。
ナターシャ。
ケイル。
ジン。
シエル。
ゼダン。
アレンが名を呼んだ者たちは、確かに死んだ。
エイベルが殺した。
「それどころか」
アレンの声が、さらに低くなる。
「お前が論文さえ出さなければ、リンドベルの血筋だからって、クラリスも死ぬことはなかった」
エイベルの指が、ぴくりと震えた。
「ミアもな」
数字が揺れる。
エイベルはそれを見た。
94。
いや。
違う。
83。
数字が、飛んだ。
「目をつけられたのは、少なくともお前のせいだ」
アレンは楽しそうに言った。
「きっかけにはなった」
エイベルの喉が詰まる。
クラリス。
ミア。
研究。
学会。
拍手。
論文。
希望。
誰もが魔法を扱える世界。
その言葉が、今はひどく遠い。
「お前は疫病神だぜ?」
アレンは、エイベルを指差す。
「触れるものを全て傷つけていく」
数字が、さらに減る。
70。
「まさしく真空だ」
アレンの口元が歪む。
「風読み」
エイベルは、顔を上げた。
「それだけですか?」
声は、かろうじて形を保っていた。
アレンは笑った。
「罪の意識、感じたな?」
エイベルの目が、腕へ落ちる。
数字が、10になっていた。
「……!?」
まだ時間はあるはずだった。
単純な時限式なら、まだ一分以上ある。
アレンを殺すには十分だった。
真空を構築するには、まだ足りるはずだった。
「まだ……時間はある……はずじゃ……」
「それはな」
アレンが懐中時計を閉じた。
「お前の罪悪感を燃料に進む」
9。
「骨も残らない救済の炎だ」
8。
エイベルの視界が揺れる。
「クラリスは、100から減らなかった」
アレンの声だけが、やけにはっきり聞こえた。
「お前は、そんなやつを巻き込んだ」
7。
「善良な女をな」
エイベルは、息を吐いた。
胸の奥に、何かが落ちていく。
否定できなかった。
クラリスは何も悪くなかった。
ミアも何も悪くなかった。
銀匙亭の宿主も、女将も、リディアも。
なのに、自分と関わった者は壊れていく。
自分が近づけば、火がつく。
自分が名前を呼べば、誰かが傷つく。
自分が扉を開ければ、その奥で誰かが死ぬ。
「そう……ですか」
6。
エイベルは、ゆっくりと目を伏せた。
5。
早い。
4。
もう、打てる手立てなどなかった。
全ては相手の計画通りに進められたのだ。
自分を誘い出すこと。
ミアの名を使うこと。
クラリスの死を突きつけること。
殺した神官の名を数えさせること。
罪を燃料にして、数字を進めること。
全部。
全て。
3。
アレンの笑い声が、遠くなる。
2。
エイベルは、胸元の狼のお守りへ触れようとした。
右腕は動かない。
左腕も焼けている。
指先は震え、うまく届かない。
それでも、触れようとした。
「さぁ」
アレンの声が、満月の下で響いた。
「救済だ、エイベル・クロウ」
アレンは両手を大袈裟に広げた。
まるで罪人を迎え入れる聖職者のように。
まるで世界を赦す神の代理人のように。
その顔には、粗悪な笑みが浮かんでいる。
「クロノス様は、お前をお許しになる」
1。
エイベルは膝をついていた。
もう、立ち上がる力はない。
風を読む余裕もない。
真空を作る集中も残っていない。
ただ、見上げることだけはできた。
アレンではない。
その背後にある、空を。
壊れた廃教会の天井の向こう。
墓石の群れの上。
黒い夜の中心に、満月だけが大きく浮かんでいた。
手が届かないほど遠く。
けれど、今だけは、ひどく近く見えた。
最後の一秒が、やけに長く感じた。
0。




