番外編-18 満月の廃教会
満月の夜だった。
外縁区の端は、王都ルヴェリアの中でも明かりが少ない。
酒場の笑い声も、荷車の音も、船乗りの怒鳴り声も、ここまでは届かない。
あるのは、風の音だけだった。
エイベル・クロウは、古い石畳の道を歩いていた。
右手には白い手袋。
皺ひとつない外套。
黒地に銀のラインが入ったネクタイ。
金色に染めた髪は、夜風に揺れても乱れない。
姿だけなら、どこかの大学へ招かれた教授のようだった。
だが、その目だけが違う。
冷たく、静かで、何かを殺すために整えられた目だった。
罠だろう。
エイベルは、そう判断していた。
二日後の満月。
深夜ちょうど。
外縁区の廃教会。
ミア・クロウの受け渡し。
情報としては、あまりにも綺麗すぎる。
時間も、場所も、餌も揃っている。
自分を誘い出すための罠。
そう考えるのが自然だった。
だが、罠であることと、行かないことは同じではない。
ミアが生きている。
その可能性があるのなら、行くしかない。
たとえ扉の向こうに刃が待っていても。
たとえ炎が待っていても。
たとえ、そこに神教会そのものが口を開けて待っていたとしても。
扉があるなら、開ける。
それだけだった。
道の先に、墓地が見えてきた。
古い墓石が、月明かりを浴びて白く浮かんでいる。
ひとつ。
ふたつ。
十。
百。
数えることをやめるほど、墓石は続いていた。
風雨に削られ、名前が読めないものもある。
倒れたもの。
半ば土に埋もれたもの。
蔦に絡まれたもの。
それでも、すべてが同じ方向を向いていた。
廃教会。
元クロノス神教会。
かつて、そこはただのカルトではなかった。
時の神を祀る古い宗派。
過ぎた時を悼み、死者の名を刻み、止められない時間の中で祈る場所。
少なくとも、昔はそうだったはずだ。
だが今では、大陸バルハラのほとんどで聖教に潰されている。
クロノスへの信仰は異端とされ、裁かれる。
教会も、墓地も、信徒も、時代から切り捨てられた。
ここは、時の止まった場所だった。
墓石の間を、エイベルは進む。
足音は小さい。
風が、石の隙間を抜ける。
枯れた草が、月光の中で揺れる。
教会の扉は、片方だけ残っていた。
もう片方は外れ、壁に立てかけられたまま朽ちている。
残った扉も傾き、風が吹くたびに、ぎい、と鈍く鳴った。
エイベルは扉の前で止まる。
中に人の気配がある。
一人。
いや、周囲にもある。
隠れている。
息を潜めている。
墓地の影。
崩れた壁の奥。
教会の柱の裏。
分かっている。
それでも、エイベルは扉を押した。
軋む音が、廃教会の中へ広がる。
内部は、ひどく荒れていた。
長椅子は朽ち、いくつも倒れている。
壁に掲げられていた聖句板は割れ、文字はほとんど読めない。
床にはひびが走り、古い蝋燭台が錆びたまま転がっていた。
天井には、大きな穴が空いている。
そこから満月の光が落ちていた。
光は、真っ直ぐ教壇へ届いている。
かつて神の言葉を話す場所。
今は朽ちかけ、木目は割れ、端は虫に食われている。
その教壇の上に、男が座っていた。
片膝を立て、片腕をその上に乗せている。
赤い長髪。
整った顔。
粗悪な笑み。
漆黒の神教会のローブ。
首に下がる、金の懐中時計。
火刑のアレン。
神教会の大神官。
刻神の秒針のひとり。
満月の光が、朽ちた天井から落ちて、アレンだけを照らしていた。
不敬な姿だった。
それなのに、神々しく見えた。
エイベルは、足を止める。
アレンが笑った。
「来たな、エイベル・クロウ」
声は軽い。
まるで、待ち合わせに遅れてきた相手へ声をかけるような調子だった。
エイベルは言った。
「ミアはどこですか?」
挨拶はしない。
相手の名も呼ばない。
ここに来た理由は、それだけだった。
アレンは、つまらなさそうに口の端を上げる。
「ここにはいねぇ」
エイベルの指先が、わずかに動いた。
「……どこにいるんですか?」
「それは言えねぇ」
アレンは金の懐中時計を指で弾いた。
ちん、と小さな音が鳴る。
「だが、生きてる」
「俺は知ってる」
教会の中に、風が入った。
壊れた窓から入り、朽ちた長椅子の間を抜け、エイベルの外套を揺らす。
エイベルは、アレンを見た。
「これで、殺せなくなったな。俺を」
「……それは条件によります」
「はっ」
アレンは笑った。
「冷静ぶってんじゃねぇよ」
教壇の上で、アレンは姿勢を変えない。
「まあ、そもそも俺を殺すなんて不可能だ」
「お前は、持ってる力をガキみたいに扱ってるだけのバカだ」
エイベルは黙っている。
「こと戦いにおいては話になんねぇよ」
アレンの目が、月明かりの中で細くなる。
「俺とてめぇじゃな」
「話は、それだけですか」
エイベルは静かに言った。
「確証もないミアの話で、死んでやるほど甘くはありませんよ」
「ただの罠じゃねぇよ」
アレンは言った。
「本当に知ってる」
「何故ですか?」
「知ってるだろ?」
アレンの声が、少しだけ低くなった。
「お前の伴侶を殺して、ミアを奪って、家を焼いたのは……誰だ?」
空間が鳴った。
返答ではなかった。
警告でもなかった。
エイベルの魔力が、教会の空気を一瞬で切り裂いた。
アレンの顔面の前で、空間が爆ぜる。
だが、その刃は届かなかった。
青い光が、球体のように広がる。
真空の刃は、アレンの目の前で止まった。
青い障壁が、それを阻んでいる。
一瞬だけ表面に波紋が走り、すぐ透明へ戻っていく。
アレンは、まばたきすらしていなかった。
「俺が、なんの対策も無しに無防備に座ってるわけねぇだろ」
アレンは鼻で笑う。
「ボケ」
エイベルは、教会内の魔力の流れを見る。
障壁。
神官。
月光。
教壇。
床。
墓地側の風。
逃げ道はある。
しかし、容易ではない。
次の瞬間、教会のあちこちで黒い影が動いた。
長椅子の影から。
柱の裏から。
崩れた壁の穴から。
墓地へ続く扉の前から。
漆黒のローブをまとった神官たちが、ゆっくりと姿を現す。
十数人。
全員の顔に、黒い霧がかかっていた。
表情が見えない。
目も口も分からない。
ただ、人型の影が、こちらを見ている。
エイベルは背後を見る。
入口。
左右の窓。
上の天井穴。
すべて、神官たちの配置で塞がれている。
「まあ、深夜までもう少しだ」
アレンは懐中時計を開いた。
「もう少し話そうぜ。せっかくだ」
「話すことはありません」
「あるだろ」
アレンは片膝の上に頬杖をつく。
「何故、お前の家族が狙われたか分かってるか?」
エイベルの目が細くなった。
「……ハロルドの策略。そして、研究の内容」
「違う違う」
アレンは面倒くさそうに手を振った。
「神教会は、あんなゴミ共の指図は受けねぇ」
「では、私の研究に対する報復ですか」
「研究?」
アレンは笑った。
「信徒は怒ってたな。偉大な原初の魔法を書き換える暴挙だとか、誰もが魔法を使える世界なんざ冒涜だとか」
そこで、アレンは肩をすくめる。
「だからなんだ」
エイベルは黙る。
「クロノス様は、そんなもんじゃ動かねぇよ」
「結構、寛容なやつだ」
その言い方は、あまりにも近かった。
神への敬意というより、気安さに近い。
それが不気味だった。
「では、なぜ?」
エイベルが問う。
アレンは、にやりと笑った。
「リンドベル家の血筋だ」
「リンドベル家の……血筋?」
「そうだ。知らねぇのか?」
アレンは、心底楽しそうに言った。
「リンドベルの血は特殊でな。代々、魔眼を継承してる」
「ラグナロクの産物だ」
「ラグナロク……」
「学者なら知ってるだろ?」
アレンは教壇の上で、月を背負うように座っている。
「二百年前の、神々と人の終末戦争だ」
「……知っています」
エイベルは言った。
「ですが、記録では神と人ではなく、神と人に対する悪魔と魔物との、光と闇の終末戦争です」
「はっ」
アレンは吐き捨てるように笑った。
「どっちでもいいよ、バカが」
「まあ、そんなこたぁいい」
アレンは金の懐中時計を揺らす。
「大事なのは、タルタロスを持っているってことだ」
「タルタロス……」
エイベルの声が、微かに変わる。
「冥界の底。深淵の牢獄、と言われる名です」
「そうだ」
アレンの笑みが深くなる。
「だから、ミア・クロウは殺さず、うちで預かった」
殺さず。
預かった。
その言葉が、エイベルの胸を刺した。
ミアは生きている。
生きている。
だが、神教会にいる。
エイベルの手が、震えた。
「クラリスは……」
声が、ほんのわずかに掠れる。
アレンは、つまらなそうに目を細めた。
「そいつは、俺の権能が効かなくてな」
「……効かない?」
「たまにいやがんだよ」
アレンの声に、はっきりと苛立ちが混じる。
「罪のない人間ってやつが」
そこで、アレンは笑った。
「傲慢だよな」
エイベルの目が見開かれる。
「では、クラリスも生きて……」
「いいや」
アレンは即答した。
「普通に焼いたぜ」
教会の中の空気が、止まった。
「死体は残ったろ? 喜べよ」
「貴様!!」
暴風が走った。
真空ではない。
研ぎ澄まされた切断でもない。
魔力流体を読み、最小の力で最大の結果を出す、いつもの風読みの魔法ではなかった。
ただ、怒りに任せて叩きつけた風だった。
朽ちた長椅子が吹き飛ぶ。
床の埃が巻き上がる。
壁に残っていた古い聖句板が割れる。
だが、アレンの前の青い障壁は、びくともしなかった。
「おーおー」
アレンが笑う。
「風読みはそんなもんか?」
「我を忘れたか?」
エイベルは息を荒げていた。
拳が震えている。
視界が揺れている。
クラリスの顔が浮かぶ。
ミアの声が聞こえる。
焼いた。
普通に焼いた。
その言葉が、頭の中を何度も殴った。
「まあいい」
アレンは懐中時計を開いた。
針を見る。
そして、笑う。
「ちょうど時間だ」
アレンの足元で、炎が走った。
次の瞬間、教会が爆ぜた。
エイベルの体が、入口の外へ吹き飛ぶ。
背中が墓石にぶつかる。
石が砕ける。
肺の中の空気が押し出される。
視界が跳ねた。
満月が、割れたように見えた。
エイベルは地面を転がり、膝をつく。
喉が焼けるように痛む。
左肩に鈍い痛み。
口の中に血の味。
顔を上げる。
教会の入口には、大穴が空いていた。
朽ちた扉も、壁も、長椅子も吹き飛び、その奥にアレンが立っている。
満月の光が、壊れた教会の内側へ落ちていた。
その光の中で、アレンだけが照らされている。
漆黒のローブ。
赤い長髪。
金の懐中時計。
アレンは、教壇の残骸からゆっくり降りた。
「お前、目障りなんだよ」
神官たちが、黒いローブを揺らして並ぶ。
顔には黒い霧。
手には、それぞれ異なる魔法の光。
火。
雷。
黒い針。
赤い文字。
墓石の間に、黒い影が広がっていく。
エイベルは立ち上がろうとした。
膝が揺れる。
それでも、立つ。
アレンは笑った。
「惨めに死ね」




