番外編-16 二人前
焦げた匂いが、まだ路地に残っていた。
銀匙亭の看板は半分焼け落ち、銀の匙を彫った飾りも黒く煤けている。
宿主は生きていた。
女将も生きていた。
それなのに、エイベルは近づけなかった。
近づけば、また何かが壊れる。
声をかければ、また誰かが傷つく。
名前を呼べば、その名前ごと燃えてしまう。
だから、影の中で頭を下げることしかできなかった。
「エイベル……」
背後から声がした。
エイベルは振り返る。
路地の闇が、ゆっくりと揺れていた。
黒い煙が石畳を這う。
焼けた木材の煙ではない。
もっと静かで、もっと深い黒。
その奥から、上等な外套をまとった少年が現れる。
黒牙第八席。
黒煙のレヴィン。
「……レヴィン」
二人の間を、焦げた銀匙亭の匂いが通り抜けた。
エイベルは一瞬で、いくつもの選択肢を叩き出した。
逃げる。
攻撃する。
話す。
周囲の目を確認する。
黒煙の位置を見る。
銀匙亭の放火と、この男の関係を疑う。
今ここで戦えば、宿主や女将がまだ近くにいる可能性を考える。
選択肢はあった。
だが、どれも選ぶには遅すぎた。
「ついてきて」
レヴィンが言った。
「ここじゃ駄目だ。目がある」
エイベルは答えない。
レヴィンは少しだけ首を傾げた。
「何してるの、エイベル。早く」
その言い方が、あまりにも普通だった。
友人を食事に誘うような。
待ち合わせに遅れた相手を急かすような。
黒牙の幹部が、風読みと呼ばれる殺人鬼へ向ける声ではなかった。
拍子抜けするほど、距離が近い。
エイベルは、そのせいで一拍だけ動きが遅れた。
「……妙な真似をすれば、殺します」
「うん」
レヴィンは、あっさり頷いた。
「それでもいいから、今は来て」
言い終えると、レヴィンは背を向けた。
黒煙が石畳を薄く這い、路地の曲がり角へ流れていく。
エイベルは数歩分の距離を空けて、その後ろについた。
表通りには出ない。
レヴィンは裏路地だけを選んで進んだ。
焼けた銀匙亭の騒ぎから離れ、大学方面の石畳を抜け、倉庫街へ向かう大通りも避ける。
細い路地。
使われなくなった井戸の横。
洗濯紐の下。
古い石壁と石壁の間。
レヴィンの足取りに迷いはなかった。
やがて、ひとつの建物の裏口へ着いた。
表から見れば、何の変哲もない食堂だろう。
老舗ではあるらしいが、立派ではない。
石壁は古く、木の梁には年季が入っている。
それでも、裏口の周りはきちんと掃かれていた。
レヴィンが戸を開ける。
中から、温かい匂いが流れてきた。
焼いたパン。
煮込んだ豆。
肉の脂。
香草。
エイベルの胃が、ほんのわずかに動いた。
それが不快だった。
こんな時に。
こんな体で。
こんな自分でも、まだ腹が減るのかと思った。
「レヴィン様」
奥から、腹の出た店主が顔を出した。
手に布巾を持ち、額に汗を浮かべている。
だが、その顔には怯えより先に、親しみがあった。
「いつも良くしていただいて、ありがとうございます」
「いやいや、中央区は俺の区画じゃないし、できることなんてないよ」
「何をおっしゃいますか。私たちは、あなたがいるから黒牙を支持してるんですよ」
黒牙の幹部との会話とは思えなかった。
店主は当たり前のように笑い、レヴィンも当たり前のように笑っている。
エイベルは、店主を見た。
この男は分かっているのだろうか。
目の前の少年が、黒牙の幹部だということを。
黒煙と呼ばれる、裏社会の人間だということを。
「いつもの食事を、二人前でいいんですよね?」
「うん、頼むよ。奥の部屋、使っていいかな?」
「もちろんですとも」
店主は快く頷いた。
「すぐお持ちします」
レヴィンは礼を言い、奥へ進む。
表のフロアからは、常連たちの話し声が聞こえた。
誰かが笑っている。
木の椅子が鳴る。
匙が皿に当たる。
それだけで、そこが生きている場所だと分かる。
レヴィンは表を通らず、細い通路を曲がった。
奥に、長い暖簾で仕切られた個室があった。
覗き込まなければ中は見えない。
中には四人掛けのテーブルと椅子。
広すぎず、狭すぎず、話をするにはちょうどいい。
「座って」
レヴィンが言う。
エイベルは立ったままだった。
「毒は?」
「入ってないよ」
「信用しろと?」
「信用できないなら、食べなくていい」
レヴィンは先に椅子へ座った。
「でも、座るくらいはしてほしいな。見上げて話すの、首が疲れる」
エイベルはしばらく黙っていた。
それから、向かいの椅子へ座る。
逃げ道は確認した。
窓はない。
入口は暖簾ひとつ。
通路は細い。
黒煙に塞がれれば不利。
それでも、この距離なら風は起こせる。
「ここ、結構好きなんだ」
レヴィンは店内の方へ目を向けた。
「暖かいご飯が食べられる」
「……食事のために、私を見つけたわけではないでしょう」
「まあ、そうなんだけど」
レヴィンは困ったように笑った。
「食事は大事だよ。ちゃんと食べられてる?」
エイベルは答えなかった。
最後にまともな食事をしたのがいつか、すぐには思い出せなかった。
口に入れたものはある。
水も飲んだ。
だが、それは食事ではなかった。
ただ、倒れないための補給だった。
沈黙を、レヴィンは責めなかった。
「銀匙亭、やったのは裏組織の一部らしい」
エイベルの目が細くなる。
「……どこの組織ですか?」
「どことも言えない。複数の組織から、数人ずつ」
「全ての組織を教えてください」
「エイベル」
「ひとつ残らず、私が」
「エイベル。違うだろ」
レヴィンの声が、少しだけ低くなった。
エイベルは口を閉じる。
個室の外では、誰かの笑い声がした。
暖かい匂いが、通路の奥から流れてくる。
その穏やかさが、ひどく邪魔だった。
「仮にその組織を全部壊滅させたところで、クラリスさんとミアちゃんが戻るわけでも、焼けた銀匙亭が戻るわけでもない」
エイベルの呼吸が、わずかに止まった。
「なぜ、それを……」
「大学に行った。君の助手君にも会ったよ」
「……元です」
「あの子は、そんな感じではなかったけどな」
リディアの顔が浮かんだ。
研究室を掃除していた少女。
泣きそうな顔で、それでも諦めていなかった少女。
エイベルは、その顔をすぐに消した。
思い出しても意味はない。
「あの子は、まだ研究室を掃除してたよ」
「……」
「銀匙亭にも行った。もちろん、燃える前にね」
レヴィンの声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「君の部屋を残すって言ってた」
エイベルは、何も言わなかった。
「君は、まだ戻る場所があったんだ」
「……だから、なんだと言うんですか?」
声は思ったより冷たく出た。
冷たく出たことに、少しだけ安心した。
まだ、崩れていない。
まだ、声は整えられる。
「私の周囲をこそこそ嗅ぎ回るのは結構ですが」
エイベルは、レヴィンを見た。
「それで私の全てを理解したと思っているなら、それは大きな間違いです」
「うん」
「私はもう、大学教授エイベル・クロウではありません」
言葉にすると、胸のどこかが軋んだ。
だが、続けた。
「風読みとなり、ミアを探す。そのためなら、あらゆる手段を辞さない殺人鬼です」
「風読み……ね」
「はい」
エイベルはまっすぐに言った。
「あなたの言う居場所も、私の戻る場所ではないのです」
レヴィンは、少し黙った。
それから、静かに言う。
「なら、なんでここに来たんだよ」
エイベルの喉が動いた。
「銀匙亭の火事に、なんで駆けつけたんだ?」
「……」
「理由は?」
レヴィンは、エイベルから目を逸らさなかった。
「説明できる?」
できなかった。
行くべきではなかった。
近づけば危険だった。
あの場に自分がいる理由はない。
それでも、足が動いた。
銀匙亭が燃えているかもしれないと思った瞬間、考えるより先に体が動いた。
レヴィンはそれを見透かしていた。
「君は風読みだ。それは間違いない」
レヴィンは言う。
「大学教授エイベル・クロウでもない。宿を出た時点で、大学との繋がりも切ったつもりだったんだろ」
エイベルは答えない。
「でも、本質は変わってないよ」
「……何を」
「エイベル・クロウは、今でもエイベル・クロウだ」
その名を呼ばれた瞬間、胸の奥がざらついた。
「肩書きや呼ばれ方が変わっても、手が汚れても、髪の色が変わっても」
レヴィンの声は静かだった。
「君はエイベル・クロウなんだ」
「……」
「どこかの誰かには、なれはしない」
エイベルは、ゆっくり息を吐いた。
「私は、風読みで……人殺しです」
「それは否定しない」
レヴィンは即答した。
慰めなかった。
否定しなかった。
許すとも言わなかった。
それが、少しだけ腹立たしかった。
「誰も助けてくれなかったんです」
エイベルは言った。
「大学も、法も、騎士団も、新聞も、ギルドも、家族も。誰も」
言葉が出る。
止めるつもりだった。
けれど、一度出た言葉は、風のように隙間から漏れた。
「今では、この世界は間違っていると思っています」
「うん」
「考え方も、より合理的になりました」
「うん」
「見た目も愛想も必要ないと思えます。ただ、都合がいいから整えているだけです」
「何が悪いの?」
レヴィンは、自分の外套の襟を軽くつまんだ。
「僕も、この立派な外套が嫌いだよ。着ているだけで、弱い人を圧迫する」
黒牙の外套。
上等な布地。
丁寧な縫製。
ただそこにあるだけで、下の者に頭を下げさせる服。
「でも、都合のために着ている」
レヴィンは笑った。
「似たようなものだろ」
「……あなたは」
エイベルは、初めて少しだけ眉をひそめた。
「何がしたいのですか?」
その問いに、レヴィンはすぐには答えなかった。
外から、皿を置く音が聞こえる。
誰かが店主を呼ぶ声。
豆の煮える匂い。
レヴィンは、まっすぐエイベルを見た。
「エイベル」
「はい」
「俺は、君が欲しい」
エイベルの表情が、わずかに止まった。
「……何を」
「君の全てだ」
レヴィンは、あまりにも真面目な顔で言った。
「そのためなら、俺の命だって懸ける」
エイベルは、数秒黙った。
言葉の意味を測る。
意図を探る。
罠を疑う。
利用価値を並べる。
風読みの魔法。
魔力流体学の知識。
裏社会への恐怖。
黒牙にとって使える駒。
候補はいくつもあった。
「全てとは、大きく出ましたね」
エイベルは言う。
「風読みの魔法がお望みですか。知識ですか。恐怖ですか」
「違うよ」
「今や私は、ルヴェリアの裏組織全体を敵に回しています。黒牙にとっても波紋を呼ぶでしょう。雷鶏の一件もあります」
「それは考えてあるから」
「考えがあるのですか?」
「うん」
レヴィンは頷いた。
「これから考える」
「……話になりませんね」
エイベルは立ち上がりかけた。
「待って」
レヴィンは止めた。
その声は強くなかった。
命令でもない。
ただ、届く場所に置かれた声だった。
「これから先も、こんなことを繰り返してどうなる?」
「……」
「終わりの見えない道だよ。神教会にすら辿り着けない。断言する」
レヴィンの目が、ほんの少し鋭くなる。
「君は、無様に死ぬ」
「それはどうですかね」
「君は幹部レベルと戦ったことがない」
レヴィンはそこで、少し考えるように言い直した。
「いや、俺とはあるけど……それでも、だ」
エイベルは黙っている。
「幹部以外にも、裏組織には棲む世界の違う化け物がいる」
「化け物」
「例えば、剣客ラインハルト」
エイベルは初めて聞く名だった。
「黒牙の人間を次々斬ってる。今、黒牙でも対策を考えてるけど、幹部でも勝てないかもしれない本物の怪物だよ。どこにも所属していない流れ者さ」
「それが、何の話に繋がるのですか」
「いつか、そういう敵に必ず当たる」
レヴィンは言った。
「その時が、君の命日になる」
「どうしろと?」
エイベルの声に、わずかに熱が混じった。
「娘を探すなというのですか。手段を変えろと?」
「違う」
「手段なら講じました!!」
声が、個室の壁に跳ねた。
暖簾の向こうの気配が、一瞬止まる。
エイベルは構わなかった。
「あらゆる機関に行き、頭を下げ!! 叫び、伝え、懇願しました!!」
手が震えている。
拳を握る。
「扉を先に閉めたのは、世界の方です!!」
レヴィンは、黙って聞いていた。
「だから私は、私が壊れてでも扉を開けるのです」
エイベルの声が、細くなる。
「その先に、ミアがいるので」
沈黙が落ちた。
店の外では、まだ人が笑っている。
ここだけが、少し遠い場所になったようだった。
レヴィンは、ゆっくりと口を開いた。
「手段は変えなくていい」
「……はい。言われなくても」
「扉を開けよう」
エイベルは目を細める。
レヴィンは続けた。
「ただし、一緒にだ」
「……何を言っているのですか」
「俺と一緒に、扉を開けるんだ。これから先、どちらかが死ぬまで」
エイベルは、理解できないものを見る目でレヴィンを見た。
それは狂気だった。
善意の形をした狂気。
あるいは、黒牙の幹部だけが持つ種類の傲慢。
「言葉の通りだよ」
レヴィンは言った。
「俺も命を懸ける。君と、ミアちゃんのために」
「理由になっていません」
エイベルの声は低い。
「何の義理があって、あなたがそこまで」
「君を知ったから」
レヴィンは即答した。
「話を聞いたから」
それから、少しだけ息を吸う。
「それに、君が欲しい。エイベル・クロウ」
その言葉は、また近すぎた。
男に向ける言葉でも、女に向ける言葉でもない。
ただ、相手の孤独ごと抱え込むような言葉。
エイベルは、それを受け取らなかった。
「……信用できませんね」
「うん」
「言葉だけなら、誰でも発せますから」
「行動は、これから見せる」
「結構です」
エイベルは椅子から立ち上がった。
「私は誰の助けも必要としていません。あなたが私の役に立つとも思えません」
「関係ない」
レヴィンも立ち上がらない。
座ったまま、エイベルを見る。
「役に立たなくても、隣に立つ。背中を守る」
「子供の戯言です」
「俺は十七だよ」
「成人したばかりじゃないですか。そんな人間を信用などできません」
「エイベル」
レヴィンの声が、少しだけ静かになった。
「信用に年齢なんて関係ない」
エイベルは睨む。
「君は、ミアちゃんを信用してなかったのか?」
胸に、手が触れた。
外套の内側。
そこには、お守りがある。
狼のお守り。
六歳のミアがくれたもの。
約束。
まだ自分が進む理由。
エイベルは、目を伏せた。
「……すみません」
短く言った。
「今の言葉は、取り消します」
「なら」
「ですが」
エイベルは顔を上げる。
「あなたと関わりたいとは思いません」
レヴィンの言葉が止まった。
「すみませんが、失礼します」
「エイベル」
「止めると言うなら、私の全ての力を使い、今ここで戦います」
レヴィンは、そこで初めて少しだけ苦しそうな顔をした。
エイベルは暖簾へ向かう。
「無駄なのです」
背を向けたまま言った。
「人は、そう簡単に変われないのです」
暖簾の向こうから、温かい匂いがした。
「変わりたくもありません」
少しだけ間が空く。
「もう二度と、顔を見せないでください。レヴィン」
その言葉を残して、エイベルは個室を出た。
足音が通路を遠ざかる。
裏口の戸が開く音。
閉まる音。
レヴィンは椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。
やがて、店主が盆を持って暖簾をくぐった。
「レヴィン様、お持ちしました!」
湯気の立つ豆のスープ。
焼きたてのパン。
肉と野菜の煮込み。
二人分の食事が、テーブルの上に並んだ。
店主は、向かいの空席を見て、少しだけ眉を下げた。
「……お連れ様は」
「ごめんね」
レヴィンは、ようやく笑った。
「一人分でよくなっちゃった」
「そうですか」
店主は、それ以上聞かなかった。
「残念ですが、仕方ありませんね」
「うん」
レヴィンは、向かいの椅子を見る。
ついさっきまで、エイベルが座っていた椅子。
そこには誰もいない。
レヴィンは、銀匙亭の宿主から預かった言葉を思い出した。
「見つけたら、伝えてくれ」
「また豆のスープを飲みに来いって」
伝えられなかった。
いや、伝えようとすればできた。
でも、あの瞬間にそれを出せば、エイベルはもっと遠くへ行く気がした。
レヴィンは匙を取った。
スープを一口飲む。
「うん」
いつも通り、温かかった。
「やっぱり、うまい」
店主は、少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
レヴィンは空いた席を見たまま言った。
「でも」
「はい」
「次は二人で来る」
店主は、一瞬だけ目を丸くした。
それから、深く頷いた。
「はい。楽しみにしております」
同じ夜。
雷鶏の倉庫は、まだ片づいていなかった。
数日前、風読みと黒煙がぶつかった場所だ。
倒れた棚。
割れた荷箱。
斜めに裂けた梁。
内側へ爆ぜた窓。
床には、乾きかけた血の跡と、細い傷がいくつも残っている。
部下たちは黙って掃除をしていた。
棚板を運ぶ者。
散らばった荷札を拾う者。
窓に板を打ちつける者。
床を水で擦る者。
誰も喋らない。
「クソがッ!!」
倉庫の中央で、ガロム・ジャッカが吠えた。
帳簿机の上には、包帯で固められた右手が置かれている。
指は何本も不自然に腫れていた。
ゼギルに折られた指だ。
「俺だけが悪いってのかよ!? ああ!? 神教会に逆らえる奴がどこにいるんだよ!!」
ガロムは唾を飛ばして怒鳴る。
「一人だ!! 俺が渡したのは一人だけだ!!」
「魔力が高いガキを一人、紹介しただけだろうが!!」
「それで向こうが何に使ったかなんざ、俺の知ったことか!!」
「大金を積まれたんだ!! 誰だってやるだろうが!!」
部下の一人が、棚板を持ち上げそこねた。
がたん、と音が鳴る。
ガロムの目が、ぎろりと動いた。
「うるせぇ!!」
「す、すみません!」
「すみませんじゃねぇだろうが!! てめぇらも金を受け取っただろうが!! 俺だけ悪人みてぇな顔してんじゃねぇぞ!!」
理屈は通っていなかった。
だが、誰も言い返さない。
風読みに荒らされ、黒煙に踏み込まれ、最後は黒牙の団長に指を折られた男が、まともな怒り方をするはずもなかった。
「風読みだの、黒煙だの、団長だの……ふざけやがって……!」
ガロムは左手で酒瓶を掴み、床へ叩きつけた。
瓶が割れる。
酒が板床に広がる。
部下たちは、肩を震わせるだけだった。
その時。
「なにをぎゃあぎゃあ喚いてやがる、ゴミ共」
倉庫の入口から、声がした。
空気が止まる。
雷鶏の部下たちが、一斉に振り向いた。
赤い長髪の青年が立っていた。
整った顔立ち。
百八十ほどの背丈。
二十五歳前後に見える。
黙っていれば、貴族の子息か、劇場の役者にでも見えただろう。
だが、その口元に浮かぶ笑みが、すべてを台無しにしていた。
粗悪で、傲慢で、退屈そうで。
人を人とも思っていない顔。
漆黒の神教会のローブ。
首から下がる、金の懐中時計。
「あ、アレン様……!」
ガロムの顔色が変わった。
怒りが消える。
残ったのは、恐怖だけだった。
ガロムは折れた指を庇うように右手を抱え、慌てて膝をつく。
火刑のアレン。
神教会の大神官。
刻神の秒針のひとり。
アレンは倉庫の中をぐるりと見回した。
倒れた棚。
割れた荷箱。
内側へ爆ぜた窓。
まだ片づかない血の跡。
壁際で固まっている雷鶏の連中。
それらを見て、鼻で笑う。
「久々に来てみりゃあ、倉庫はぐちゃぐちゃ。人は減ってる。掃除も終わってねぇ」
アレンは、ガロムの包帯だらけの手を見下ろした。
「で、お前は指折られて癇癪か。何やってんだ、お前。あー、名前忘れたわ」
「ガ、ガロムでございます、アレン様!」
「聞いてねぇよ」
ガロムの喉が鳴った。
「こ、この有様には理由がありまして……!」
「理由?」
アレンの眉が、ぴくりと動く。
「聞いてねぇって言ったよな? ボケ」
「い、いえ! 神教会にも関係があります!」
「はぁ?」
アレンが一歩進む。
それだけで、掃除をしていた部下たちが壁際へ下がった。
「ミア・クロウの父、あの論文を出したエイベル・クロウ……やつが、風読みだったのです」
アレンの目が、わずかに細くなる。
「風読みが裏組織を見境なしに攻撃しています。雷鶏もやられました。黒牙の黒煙も動いています。団長にまで知られて、私は……!」
「あー」
アレンは面倒くさそうに首を鳴らした。
「レアの親父か」
「レア……?」
ガロムは、一瞬だけ間抜けな顔をした。
「ミア・クロウのことでは……」
「黙ってろ。バカは」
それ以上、ガロムは何も言えなかった。
アレンは、首から下がる金の懐中時計を指先で弾いた。
ちん、と小さな音が鳴る。
「それで、お前。次の神君は見つけたのか?」
ガロムの顔が、さらに引きつった。
「いえ……前の一人だって、偶然みたいなもので……」
「魔力の高い子供なんて、そうそう見つかるものではなく……」
「口答えか?」
アレンの声が冷えた。
「それがお前の罪か?」
「い、いえ! 口答えなどしておりません! ただ、見つからないのです!!」
「なら、お前は用済みだ」
「え?」
ガロムの額に、赤く光る数字が浮かんだ。
100。
「ガロム様、お顔に……!」
部下の一人が、震える声を漏らした。
ガロムは左手で自分の額に触れる。
「な、なんですか、これは……アレン様……?」
アレンは笑った。
「それがお前の罪か?」
「ち、違います! 違います!!」
「じゃあ、お前の罪はなんだ?」
アレンはゆっくりと歩く。
「告白しろ」
「私は罪など犯して……!」
数字が減った。
100。
72。
48。
19。
ガロムの目が見開かれる。
「ま、待ってください、アレン様!! 私は神教会のためにずっと……! 子供も、荷も、言われた通りに……!」
「へぇ」
アレンは退屈そうに言った。
「それ、自分の罪じゃなくて、功績のつもりか?」
「違……!」
数字が、0になった。
「ぎゃあああああああああああああ!!」
青い炎が、ガロムの身体から噴き上がった。
普通の火ではなかった。
炎は一瞬でガロムを包み、悲鳴ごと焼き潰した。
床を転げ回る暇もない。
助けを求める暇もない。
数秒後、そこに残っていたのは、灰と焼け跡だけだった。
雷鶏の部下たちは腰を抜かした。
誰も動けない。
誰も逃げられない。
アレンは灰になったガロムを見下ろしてから、ゆっくりと周囲を見た。
「まあ、お前らも、自分だけ生き残りたくねぇよな?」
次の瞬間。
倉庫にいた全員の額に、数字が浮かんだ。
100。
100。
100。
100。
悲鳴が上がった。
「や、やめてください!!」
「アレン様!!」
「俺たちは何も!!」
「助けてくれ!!」
アレンは、うんざりしたように懐中時計を見下ろす。
「うるせぇな」
針が、ひとつ進んだ。
アレンは倉庫の外へ出た。
背後で、数字が落ちていく。
100。
68。
42。
11。
悲鳴が重なった。
許しを乞う声。
何かを告白しようとする声。
家族の名を呼ぶ声。
助けを求める声。
どれも、倉庫の中で青い炎に呑まれていく。
0。
倉庫の内側から、炎が爆ぜた。
窓に打ちつけかけだった板が吹き飛び、青い火が夜の倉庫街へ噴き出す。
割れた荷箱が燃え、倒れた棚が燃え、散らばった荷札が青白く舞い上がる。
雷鶏の倉庫が、悲鳴ごと燃えていた。
アレンはその前に立ったまま、ゆっくりと空を見上げた。
背後では、まだ誰かが叫んでいる。
だが、声はすぐに細くなり、炎の音に消えた。
赤い長髪が、青い火に照らされて揺れる。
「エイベル・クロウか」
整った顔に、粗悪な笑みが浮かんだ。
「……目障りだな」




