番外編-15 居場所だったから
大学提携宿、銀匙亭。
古い木の看板には、銀の匙が彫られていた。
看板の縁は少し擦れている。けれど、汚れてはいない。扉の金具も、窓枠も、毎朝きちんと拭かれているのが分かった。
派手な宿ではない。
新しい宿でもない。
けれど、古くなったものを大切に使っている宿だった。
レヴィンは、その看板を一度見上げてから、扉を開けた。
「すみません」
一階は食堂になっていた。
昼前の仕込みの匂いが、店の奥から流れてくる。煮豆と野菜を煮込む、温かい匂いだった。
奥から、痩せた宿主が顔を出す。
「はいよ。食事かい?」
「いえ。大学の者なんですが」
レヴィンは、学生にも職員にも見えるような顔で、柔らかく笑った。
「エイベル・クロウ教授の休職と、今後のことで少しお話がしたくて」
「ああ、クロウさんの」
宿主の顔が、すぐに曇った。
その反応だけで、レヴィンは少しだけ目を細める。
リディアと同じだ。
この人も、エイベル・クロウを見ている。
「いつもなら、そろそろ飯に降りてくる頃なんだがな」
「今日は、ちと遅い」
厨房の方から、ふくよかな女将が顔を出した。
「またクロウさん、飯も食べずにいるのかい?」
「大学の人が来てる。ちょっと部屋を見てくる」
「そうかい。ちゃんと連れてきなよ。豆のスープ、温め直してあるから」
宿主は頷き、レヴィンへ視線を戻す。
「部屋まで行ってみるか?」
「いいんですか?」
「大学の人なんだろ。あの人、放っておくと飯も忘れちまうからな」
宿主はそう言って、階段へ向かった。
二階の廊下は、古い木の匂いがした。
床板は少し鳴る。だが、手入れは行き届いていた。壁の小さな傷も、雑に隠されてはいない。長く使われてきたものを、そのまま丁寧に残している。
宿主は奥の部屋の前で立ち止まり、扉を軽く叩いた。
「クロウさん。大学の人が来てるぞ」
返事はなかった。
「クロウさん?」
もう一度、叩く。
やはり、返事はない。
宿主の顔から、少しずつ血の気が引いていく。
「……開けるぞ」
扉が、軋んで開いた。
部屋は、空だった。
ベッドは整えられていた。
机は拭かれていた。
椅子は、きちんと机の下へ戻されている。
窓は閉じられ、床には衣服も紙も落ちていない。
荒らされた部屋ではない。
慌てて逃げ出した部屋でもない。
戻らないと決めた人間が、最後に片付けて出ていった部屋だった。
「……馬鹿野郎」
宿主の膝が、床に落ちた。
「クロウさん……なんでだよ」
レヴィンは、何も言わなかった。
宿主は空の部屋を見回し、震える手で床を掴んだ。
「まだ、塞がりきってねぇんだぞ」
「あの腹の傷は、無理すりゃすぐ開く」
「俺が縫ったんだ。俺には分かる」
レヴィンは静かに宿主を見る。
「怪我を?」
「ああ。血まみれで帰ってきたことがある」
「何してたかなんて知らねぇ。聞いても、答えやしなかった」
「すみません、ありがとうございますって、いつもみたいに言うだけでよ」
宿主の声が、少し掠れる。
「俺にもっと力があれば」
「傷だけじゃねぇ」
「もっと話を聞いてやれたら」
「ここにいていいって、ちゃんと言ってやれたら」
「ここを、あの人の居場所にしてやれたかもしれねぇのに」
宿主は、整えられたベッドを見た。
「なのに……出ていきやがった」
レヴィンは、しばらく黙っていた。
部屋には、何も残っていない。
だからこそ、ここにいた人間の几帳面さだけが残っている。
「ここは、居場所だったんですよ」
宿主が顔を上げた。
「だったら、なんで出ていく」
「居場所だったからです」
レヴィンは、空になった部屋を見つめた。
「壊したくなかったんだと思います」
「ここを」
「あなたたちを」
宿主の顔が歪んだ。
「そんなの、こっちが決めることだろうが」
その声は怒っていた。
けれど、誰に向けた怒りなのか、自分でも分かっていないようだった。
「勝手に守ったつもりになりやがって」
「残された方は、どうすりゃいいんだよ」
レヴィンは、その言葉を受け止めた。
優しさは、届かないことがある。
差し出した手が、相手にとっては傷口になることもある。
それでも、差し出さなければならない時がある。
「だから、止めに行きます」
レヴィンは、宿主をまっすぐ見た。
柔らかい目だった。
けれど、ただ優しいだけではない。
その奥には、静かな力があった。
暗い底を知っているような目。
それでも、誰かの手を離さないと決めているような目。
宿主は、言葉を失った。
大丈夫だと、軽く言われたわけではない。
どうにかなると、慰められたわけでもない。
それなのに、不思議と胸の奥に入ってきた。
この男なら、届くかもしれない。
そう思わせる何かが、レヴィンの目にはあった。
「……頼む」
宿主は、震える息を吐いた。
「クロウさんを、止めてくれ」
「あの人は、このままじゃ死んじまう」
「傷が開くとか、そういう話だけじゃねぇ」
「あの人は、自分が死んでもいい場所を探してる」
「そんな顔をしてたんだ」
レヴィンは小さく頷く。
「はい」
宿主は、床に膝をついたまま、レヴィンの袖を掴んだ。
「見つけたら、伝えてくれ」
「また豆のスープを飲みに来いって」
「傷が開いたら、また俺が縫ってやる」
「女将も、鍋を空けて待ってる」
「ここは、まだ空けてあるって」
「……はい」
レヴィンは、静かに答えた。
「必ず、伝えます」
その日から、線は一度切れた。
レヴィンは第八席陣営の黒牙を動かした。
大学周辺。
図書館。
古書店。
飯屋。
薬屋。
倉庫街。
旧城下町の外れ。
風読みが行きそうな場所に、目を置いた。
だが、二日、何も引っかからなかった。
大学の周辺にも、図書館にも、古書店にも、飯屋にも姿はない。
風読みの足跡は、銀匙亭で途切れていた。
代わりに、別の動きが見え始めていた。
風読みを探しているのは、黒牙だけではなくなっていた。
被害を受けた組織。
これから襲われるかもしれない組織。
人売り。
運び屋。
闇商会。
倉庫番。
普段なら互いに信用しない連中が、風読みという一点で手を組み始めている。
敵同士が、同じ獣を狩るためだけに同じ罠を張り始めていた。
「まずいな」
第八席陣営館の執務室で、レヴィンは地図を見下ろしていた。
黒い点がいくつも打たれている。
襲撃現場。
噂の出た場所。
人売りの出入り。
そして、風読み狩りに動き始めた組織の拠点。
このままだと、黒牙より先に誰かがエイベルを見つける。
その時、何が起きるかは分からない。
袋叩きにされるか。
あるいは、エイベルが全員を殺すか。
どちらにしても、戻れなくなる。
その時だった。
「レヴィン様!!」
構成員が、扉を乱暴に開けて飛び込んできた。
その声を聞いた瞬間、レヴィンは顔を上げた。
いい知らせではない。
それだけは、分かった。
◇
エイベル・クロウは、旧城下町の外れにいた。
屋根の半分が落ちた廃墟。
壁には蔦が絡み、石畳の隙間から雑草が伸びている。
古い窓枠は歪み、雨風を避けるには心許ない。
けれど、身を隠すには都合がよかった。
旧城下町は治安が悪い。
だが、横の繋がりが強い。
落ちてきた者から何かを奪うことはあっても、本当に壊れているものを面白がって踏みつけるような連中ばかりではない。
近くの路地では、悪ガキたちが走り回っていた。
壁の向こうから、女が怒鳴る声がする。
誰かが鍋を洗う音。
古い階段を上る足音。
小さな暮らしが、廃墟の周りにいくつも残っている。
エイベルは崩れた壁に背を預け、腹に手を当てた。
傷はまだ疼いている。
銀匙亭の宿主の手当ては丁寧だった。
だが、完全には塞がっていない。
無理をすれば開く。
走れば痛む。
戦えば、確実に裂ける。
だから、今は動くべきではなかった。
傷のせいだけではない。
前回の襲撃は、明らかに罠だった。
見える人数は少なかった。
だが、踏み込んだ瞬間、息を潜めていた連中が一斉に現れた。
壁際に張りつき、呼吸を殺し、臭いの強い油まで撒いていた。
風の流れを読みにくくするためだ。
それだけではない。
逃げ道に刃が置かれていた。
視線を誘う位置に囮がいた。
見えない角度から投げられたナイフが、腹に深く刺さった。
処理しきれなかった。
二人、いや三人。
顔を見られたまま逃げるしかなかった。
逃がしたのではない。
逃げるしかなかった。
エイベルは奥歯を噛む。
風読み対策が、共有されている。
一つの組織だけではない。
被害を受けた組織。これから狙われる組織。人売り。運び屋。闇商会。
普段は互いに疑い合う連中が、風読みを狩るために情報を繋ぎ始めている。
まずい。
顔を見られた。
どこまで辿られているか分からない。
エイベル・クロウは、ひと月前まで王立ルヴェリア魔導大学院の教授だった。
新聞にも載った。
学会にも出た。
金髪に染め、服装を変えたとしても、知っている者が見れば辿れる可能性はある。
だから、銀匙亭を出た。
あそこにいれば、宿主も女将も巻き込む。
部屋を片付け、荷物を消し、戻る気配を残さず出た。
あの場所は、もう使えない。
そう判断した。
その時だった。
遠くに、煙が上がっていた。
この街で火事は珍しくない。
王都ルヴェリアほどの大都市なら、数日に一度は、どこかで煙が上がる。
古い家屋の火。
工房の事故。
倉庫の油。
酔客の不始末。
放火。
煙は、この街の日常の一部だった。
それでも、胸の奥が妙にざわついた。
あの方角は、中央寄り。
大学方面。
銀匙亭のある辺りだった。
エイベルは、壁から背を離した。
行くべきではない。
分かっていた。
罠かもしれない。
いや、罠でなくとも、近づけばまた誰かを巻き込む。
それでも、足は動いていた。
銀匙亭の前には、人だかりができていた。
通りには野次馬が集まり、その中には大学生らしき若者たちの姿もある。
消火隊が道を塞ぎ、近づきすぎた者を押し戻していた。
火は、もうほとんど消えている。
消火は早かったらしい。
周囲への延焼はない。
隣の建物も、大きくは燃えていなかった。
だが、銀匙亭は半壊していた。
焦げた壁。
崩れた二階の窓枠。
黒く濡れた梁。
そして、古い木の看板。
銀の匙を彫った看板は、半分焦げて傾いていた。
毎朝、宿主が拭いていた看板。
その片側だけが、焼けて黒くなり、力なくぶら下がっている。
当分、営業はできないだろう。
宿主は、店の前で膝をついていた。
女将が、その肩を抱いている。
エイベルは、影の中で立ち尽くした。
近づけなかった。
近づいてはいけない。
その時、こちらへ流れてきた野次馬の一人が、舌打ち混じりに言った。
「ひでぇもんだな」
エイベルは、顔を伏せたまま声をかける。
「あれは、何があったんですか」
「ん? ああ、なんか柄の悪い連中が来たらしいぜ」
「誰かを探してたとか、何かを聞いてたとか」
「宿の旦那が口を割らなかったらしくてな」
「それで、難癖つけて火をつけたんだとよ」
「……口を、割らなかった」
「ああ。まあ、命を取られなかっただけマシかもな」
「最近は、あちこちでバラバラ死体が出てるだろ」
「この辺も物騒になったもんだ」
野次馬は、それだけ言って去っていった。
エイベルは、影の中で動けなかった。
口を割らなかった。
宿主は、自分を売らなかった。
だから、銀匙亭は燃やされた。
お前は、関わる者を不幸にする疫病神ではないか!!
アルフレッドの怒声が、頭の奥で蘇る。
違う、と言えなかった。
違うはずだ、とも思えなかった。
宿主は、自分に関わった。
女将も、自分に関わった。
そして、銀匙亭は燃えた。
答えは、目の前にあった。
謝りに行くべきだった。
駆け寄るべきだった。
けれど、足は動かなかった。
自分が近づけば、また何かが燃える。
自分が名乗れば、また誰かが傷つく。
だから、エイベルは影の中で、ただ頭を下げた。
誰がやった。
胸の奥で、風が細く鳴った。
その時、背後の路地の闇が、ゆっくりと揺れた。
黒い煙が、石畳を這う。
焼けた木材の煙とは違う。
もっと静かで、もっと深い黒。
その奥から、上等な外套を身にまとった少年が現れた。
黒牙第八席。
黒煙のレヴィン。
「エイベル……」
エイベルは、ゆっくりと振り返った。
「……レヴィン」
二人の間を、焦げた銀匙亭の匂いが通り抜けた。




