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異世界転生した底辺盗賊の俺、悪名を喰らって悪の帝王へ成り上がる  作者: タクト
番外編 受け継がれる黒鋼の短剣

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番外編-13 過去の約束



「…ヴィン」


 遠くで、声がした。


「レヴィン」


 意識が、ゆっくりと浮かび上がる。


 血の匂い。

 焦げた木の匂い。

 割れた硝子。

 冷えた床。


 体が重い。

 肺の奥が痛む。

 喉が乾いて、舌が張りついていた。


「……にい、さん?」


 目を開けると、黒髪の男がこちらを覗き込んでいた。


 ゼギルだった。


「大丈夫か、レヴィン」


「うん……大きな怪我はないよ」


「よく言う」


 ゼギルは、倉庫の中を見回した。


 ばらばらになった死体。

 裂けた棚。

 内側へ潰れた窓。

 蝶番ごと歪んだ扉。

 床に刻まれた、細すぎる溝。


「風読みか」


 ゼギルは、呆れたように息を吐く。


「よく無事だったな」


 レヴィンは、ゆっくりと体を起こした。

 まだ視界が揺れる。

 黒煙を動かそうとすると、頭の奥が鈍く痛んだ。


「なんで、ここに?」


「帰ってこねぇから、部下からお前の行き先を聞いた」

「補佐くらいつけろ、レヴィン」

「全部お前が動いてちゃ危険を伴う」

「今日みたいにな」


「うん……でも、自分の目で見ないと分からないだろ」


「言いたいことは分かる」

「だが、命には代えられねぇ」

「黒牙の幹部なら尚更な」


「……じゃあ、兄さんも補佐つけなよ」


「俺は最強だからな」

「補佐がついてこれねぇ」

「秘書はいるしな」


「雑用押し付けてるだけだろ」


「……っち」


 ゼギルは舌打ちした。


「それより、何があった?」


 レヴィンは息を整えてから、ゆっくりと言った。


「風読みの正体が分かった」


 ゼギルの目が細くなる。


「……本当か?」


「少しだけ話を聞けた」

「娘を探してるって」

「ミア・クロウ。火事の後、遺体が見つかっていない行方不明の子」


「ミア・クロウ?」


「新聞くらい読みなよ」


「読んでる。必要なところだけな」


「それじゃ足りないよ」


 レヴィンは、少しだけ苦笑した。


「王立ルヴェリア魔導大学院の教授」

「エイベル・クロウ」

「妻を火事で亡くして、娘だけが見つかっていない」

「タイミング的に、ほぼ間違いないと思う」


「風読みが、その教授だと?」


「うん」

「試しに、エイベルって呼んだ」

「反応した」


 ゼギルは黙った。


 そして、もう一度、倉庫の中を見た。


 肉片。

 血溜まり。

 切断された棚。

 真空に削られた床。


「一介の教師が、これをやってるって言うのか?」


 呆れたような声だった。


「学者なら魔法はすげぇかもしれねぇが……」

「これを躊躇なく人に向けられるとはな」

「サイコ野郎だったって訳だ」


「違うよ」


「なに?」


「躊躇なく殺してる」

「でも、彼は一つ一つに後悔してる」


 ゼギルは鼻で笑った。


「はっ。違わねぇだろ」

「それこそサイコ野郎だ」


「違う」


 レヴィンは、静かに首を振った。


「壊れかけてる」

「早くしないと」


「早くって……」

「何考えてやがる? レヴィン」


「エイベルが完全に壊れる前に止める」


 ゼギルの顔から、笑みが消えた。


「お前な」

「そんなやつ囲って、黒牙がどうなるか分かってんのか?」


「これは独断で俺がやった」

「それじゃダメかな」


 ゼギルは、しばらくレヴィンを見ていた。


 それから、深く息を吐く。


「……お前に補佐はつけらんねぇな」


 レヴィンは、少しだけ笑った。


「お互い様だね、最強さん」


「うるせぇ」


 ゼギルは立ち上がった。


「帰るぞ、レヴィン」


 そう言ってから、床に転がっている男を見下ろす。


「おい、起きろ。バカ」


 ゼギルは、つま先で男の腹を蹴った。


「ぐっ……う、え……え!?」


 男が目を見開いた。


 血と埃で顔が汚れている。

 雷鶏(らいけい)のリーダー、ガロム・ジャッカだった。


「ゼ、ゼギル団長!? なんで!?」


「はぁ?」


 ゼギルが眉を寄せる。


「お、俺は下部組織、雷鶏(らいけい)のリーダー、ガロム・ジャッカです!」


「知らねぇよ。誰だお前」


 ガロムの顔が引きつった。


「兄さん」


 レヴィンが静かに言う。


「そいつ、神教会に子供を流してた」


「れ、レヴィンの旦那!?」


 ガロムが叫んだ。


 ゼギルの目が、ゆっくりとガロムへ向く。


「ほぉ」

「うちは神教会絡みをご法度にしてるのは、知ってるよな?」


「ち、違うんです、団長!」


「弟が嘘ついてるってのか?」


「ち、違います!? あの、いや、俺は……!」


 ガロムの口が震える。


 ゼギルは、短く言った。


「折れ」


「は?」


「指だ」

「自分で折れ」


「な、なにを……!?」


「殺してもいいが、それじゃ罪に対して重すぎる」

「下部組織には、いつも世話になってるからな」


 ゼギルは穏やかですらある声で言った。


「だから、指で済ませてやる」


「だ、団長……すみません……許してください……」


 ゼギルの目が変わった。


 ガロムには、目の奥で闇が揺らめいたように見えた。


 黒煙ではない。

 魔法でもない。


 もっと単純なもの。


 恐怖だった。


「折れ」


「う、うぅ……」


 ガロムは震える左手を上げた。

 人差し指を右手で掴む。


 歯が鳴る。


「早くしろ」


「う、ぐぅ……!」


 ばきり、と乾いた音がした。


「ぎゃぁあああああ!!」


「よし」


 ゼギルは頷いた。


「す、すみませんでした……次はもう……」


「誰が一本でいいっつった?」


 ガロムの悲鳴が止まった。


「え……?」


「全部だ」


 ガロムの顔から、血の気が消えた。


 レヴィンは何も言わなかった。


 ゼギルは十八で黒牙の団長をしている。

 どれだけ実力があろうと、舐められたら終わる。

 黒牙は善意で回る組織ではない。

 恐怖で形を保つ盗賊団だった。


 そして、それはレヴィンのためでもあった。


 レヴィンは優しすぎる。

 下部組織にも頭を下げる。

 部下の話を聞く。

 事情を汲む。


 だから慕う者は多い。


 だが、一定数はその優しさを甘さと見る。


 それでも誰も態度には出せない。

 出せば、ゼギルがいる。


 黒牙の団長が、黒煙の背後に立っている。


 何度も指の折れる音が、倉庫の中に響いた。


 ガロムの悲鳴は、途中から声にならなくなった。


 ゼギルは最後まで見ていた。

 レヴィンも、目を逸らさなかった。


 やがて、ゼギルは短く息を吐く。


「行くぞ、レヴィン」


「……うん」


 二人は雷鶏の倉庫を出た。


 夜の倉庫街は湿っていた。

 水路から冷たい風が上がり、魔灯の光が濡れた石畳に滲んでいる。


 背後では、まだガロムのうめき声が聞こえていた。

 それも数歩進むうちに、荷車の軋む音と水音に混ざっていく。


 しばらく、二人は黙って歩いた。


 先に口を開いたのは、レヴィンだった。


「ごめん、兄さん」


「あ?」


「俺、卑怯だよね」


 ゼギルが横目でレヴィンを見る。


「何がだ」


「汚いこと、全部兄さんにさせてる」


 ゼギルは一瞬だけ黙った。

 それから、呆れたように鼻で笑う。


「は。そんなことかよ」


「そんなことじゃないよ」

「俺のために、無理やり恐怖で縛ってるだろ」


「レヴィン」


「うん」


「お前、あの時の約束忘れたか?」


 レヴィンは少しだけ顔を上げた。


「……どれだよ」


「俺とお前は、世界の救い方が違う」

「それだけだろ」


 水路の向こうで、小さな船が揺れていた。

 魔灯の光が黒い水面に割れている。


「そんな小さい頃の約束?」


「俺は今も忘れてねぇよ」

「あの時とは、随分違っちまったがな」


「変わってないよ、兄さんは」

「何も」


 ゼギルは答えなかった。


「変わったのは、俺だけだ……」


「ガキの頃と俺が同じだと?」


「そういう意味じゃないから!」


 レヴィンが慌てて返す。

 ゼギルは鼻で笑った。


「ならいい」


 少しだけ、空気が緩む。


 だがすぐに、ゼギルの声が低くなった。


「それより、その教授はどうするつもりだ」


「……」


「制裁は肩代わりできる」

「雷鶏が神教会に子供を流した件も、俺が処理すりゃ済む」

「だが、風読みの身柄を独断で確保すれば話は別だ」

「それこそ、お前を中心に波紋が広がる」


 レヴィンは黙って歩いた。


「打ち寄せる波は止めてやれる」

「だが、お前が中心じゃ話は別だ」


「分かってる」


「そうか。良かった」

「で、どうするんだ?」


「助けてから考える」


「分かってねぇじゃねぇか……」


「理解はしてる!!」


「理解はな!!」


「ダメなの!?」


「ダメだろ!」


「なんで!?」


「やりたいだけじゃ生きていけねぇ! 俺たちは盗賊だぞ!」


「盗賊だからだろ! 無茶が通るのは!」


「なわけねぇだろ!」


 その時、二人の前の空間が、ガラスのように割れた。


 ひびが走る。

 夜の倉庫街に、透明な亀裂が入る。

 その奥から、涼しい顔をした少年が現れた。


「ゼギル様、レヴィン様」


「ヴァイス……戻ったか」


 ゼギルが振り向く。


 レヴィンは、少しだけ眉を下げた。


「ヴァイス。黒牙で様はやめてよ」

「もう身分は捨ててる」


「すみません。つい癖で……」


 ヴァイスは静かに頭を下げた。


 ゼギルは、レヴィンへ向き直る。


「出来るんだな? レヴィン」


 レヴィンは、少しだけ目を伏せた。

 それから、頷く。


「……大丈夫だよ」


 ゼギルは、しばらく弟を見ていた。


「ならいい」

「好きにしろ」


 レヴィンが顔を上げる。


「お前は、俺の考えつかねぇことを思いつく」

「だから信じてる」


「……わかった」


「じゃあな」

「行くぞ、ヴァイス。北の雪鴉と接触する」


「分かりました」


 ヴァイスが空間の裂け目へ一歩入る。

 ゼギルも続いた。


 割れた空間は、二人を呑み込む。

 そして、ひび割れが逆再生されるように閉じていった。


 夜の倉庫街には、レヴィンだけが残る。


 水路の音が、静かに続いている。


 レヴィンは、夜の向こうを見た。


「エイベル・クロウ……か」


 風読み。

 壊れかけた教授。

 娘を探すために、闇の扉を開け続ける男。


 レヴィンは、小さく息を吐いた。


「探さなきゃ」


 そう呟いて、レヴィンは夜の倉庫街を歩き出した。


 水路から上がる冷たい風が、頬を撫でる。

 先ほどまで真空に晒されていた喉が、まだ痛んでいた。

 肺の奥も重い。

 足取りも、いつもより少しだけ鈍い。


 それでも、レヴィンは足を止めなかった。


 エイベル・クロウ。


 王立ルヴェリア魔導大学院の教授。

 妻を失い、娘を探し、闇の扉を開け続ける男。


 風読み。


 レヴィンは、その名を心の中で繰り返す。


 化け物ではなかった。

 悪魔でもなかった。

 けれど、人間と呼ぶには、あまりにも危うかった。


 あの目を、放っておけなかった。


     ◇


 数日後の夜。


 そろそろ寝ようかと、宿主が帳簿を閉じた時だった。


 階下の扉が、勢いよく開いた。


「……ん?」


 痩せた宿主は、椅子から半分腰を上げた。


 風が入ったのかと思った。

 だが、違った。


 扉の前に立っていたのは、エイベル・クロウだった。


 顔色が悪い。

 外套の片側が、不自然に濡れている。

 右手で脇腹を押さえ、もう片方の手を扉の枠にかけていた。


「クロウさん?」


 宿主が名前を呼んだ瞬間、エイベルの体が傾いた。


「く、クロウさん!?」


 エイベルはそのまま、床へ崩れ落ちた。


 どちゃ、と嫌な音がした。


 押さえていた脇腹から、血が溢れる。

 床板に広がった赤を見て、宿主の顔色が変わった。


「おい! かあさん! 手を貸してくれ!!」


 奥から女将の声が飛ぶ。


「なんだい、夜更けに騒がしいねぇ。客が起きちまうだろ!」


 女将が顔を出した。


 そして、悲鳴を上げる。


「きゃあっ!? クロウさん!?」


「救急箱! 早く!」


「はいよ!!」


 女将が奥へ駆ける。

 宿主は震える手でエイベルの外套を開いた。


 傷は深い。

 刃物か、何か鋭いものに抉られている。

 血は止まっていない。


「おい、クロウさん。聞こえるか。寝るなよ。寝たら承知しねぇぞ」


「……すみ、ません」


「謝る暇があるなら息しろ」


 宿主は歯を食いしばり、布を傷口へ押し当てた。


 その手は細かった。

 腕も頼りない。

 だが、動きだけは妙に迷いがなかった。


 女将が救急箱を抱えて戻ってくる。


「持ってきたよ!」


「湯を沸かせ。あと布。清潔なやつだ」


「あんたに言われなくても分かってるよ!」


「分かってるなら早くしろ!」


「あんたが邪魔なんだよ!」


「今その口喧嘩いるか!?」


 エイベルは薄れかける意識の中で、そのやり取りを聞いていた。


 おかしな夫婦だと思った。


 そして、そこで意識が落ちた。


     ◇


「……う」


 目を開けると、見慣れた天井があった。


 宿の部屋。

 安い木の天井。

 小さな染み。

 窓の隙間から入る朝の光。


「クロウさん、目が覚めたかい?」


 横から声がした。


 痩せた宿主が、椅子に座っていた。

 目の下に隈がある。

 どうやら、ほとんど寝ていないらしい。


 エイベルは体を起こそうとした。


「動くな」


 宿主の声が、思ったより鋭かった。


 脇腹に痛みが走る。

 見ると、傷は丁寧に巻かれた包帯で覆われていた。

 血は止まっている。

 縫合もされている。


「……これは」


「これでも昔、治療師を目指してたことがあってね。どうにか応急処置は済ませたよ」


「……ありがとうございます」


 エイベルは小さく頭を下げた。


 宿主は、少しだけ目を細めた。


「それだけじゃあ、駄目だ」


 いつもの軽い調子ではなかった。


 宿主は、まっすぐエイベルを見ていた。


「あんた、危険なことしてんな?」


 エイベルは答えなかった。


「毎晩のように夜に出ていって、遅くに帰ってくる。服に土だの煤だのつけてな」

「こっちは宿屋だ。人の出入りを見る商売だぞ。とっくに分かってる」


「……大学に報告しますか」

「それとも、騎士団に」


「報告はしねぇ」


 宿主は即座に言った。


「気持ちは、分かるからな」


「……助かります」


「助かりますじゃねぇ!」


 宿主が怒鳴った。


 その声に、エイベルは少し目を丸くする。


「あんた、最近の物騒な繁華街を利用して、死に場所探してるんだろ!」


「……はい?」


「ゴロツキに因縁でも吹っかけたんだろ。分かるぞ。俺も昔はやった。こう見えてな!」


 宿主は自信満々に、細い腕を曲げてみせた。


 骨と皮のような腕だった。


「……は、はぁ」


「だがな、そんなことに意味はねぇって気づいたんだ。だから俺は治療師を目指した」


「そうだったんですね」


「あんた、頭悪くてなれなかったじゃないか」


 扉の方から女将の声がした。


 女将が盆を持って入ってくる。

 湯気の立つ皿と、柔らかく煮た野菜、薄く切った肉、温かいスープ。


「うるせぇ。今はそんなことはいいんだよ!」


「よくないよ。やぶ医者みたいな顔してるけど、やぶ医者にもなれてないんだから」


「やぶじゃねぇ。無免許だ」


「もっと酷いじゃないか」


 エイベルは思わず、息を漏らした。


 笑ったつもりはなかった。

 けれど、口元が少し緩んでいた。


 二人が同時にこちらを見る。


「クロウさん?」


「いえ……あまりに、おふたりがおかしくて」


 エイベルは、少しだけ目を伏せた。


「……暖かくて」


 女将は盆を机に置いた。


「飯、食いな」


「けが人なんだから粥の方がよかったろ。お前は気が利かない」


「あんたが作りな!」


「いつも作ってるだろ! これも俺が作った宿泊客用じゃねぇか!」


「なら最初からそう言いな!」


「言ったらありがたみが減るだろ!」


「いたた……」


 エイベルが脇腹を押さえた。


「おふたりとも、傷に響きます」


「ああ、すまん」


「ほら見な。あんたが騒ぐから」


「お前も騒いでただろ」


 女将は椅子を引き、エイベルの近くに座った。


「うちは、こんな家庭料理しか出せないけどね」

「クロウさん、いつも美味しいって言って残さず食べてくれるだろ」

「こっちは、それが嬉しいんだよ。張り合いがあるってもんさ」


 エイベルは、皿の上の料理を見た。


 豪華ではない。

 大学の食堂や、リンドベル家の食卓とは違う。

 けれど、温かい匂いがした。


「だから、あんたがいいなら、好きなだけここにいればいい」

「死ぬなんて、やめな」


「奥さん……」


「そうだ」


 宿主が頷く。


「今はしがない宿の夫婦だが、居場所くらい作ってやれる」

「大学に戻らないなら、辞めちまえ」

「うちの宿を手伝ってくれると助かるんだがな。俺たち、子宝には恵まれなかったからよ」


「あんた、外ではこしらえたくせにね」


「うるせぇ! 今はそんなことはいいんだよ!」


「外で?」


「若気の至りだ!」


「若気で済ませるんじゃないよ」


 女将が呆れた顔をする。

 宿主は咳払いをして誤魔化した。


 エイベルは、もう一度小さく笑った。


 笑ったあと、少しだけ黙る。


「大丈夫です」


 エイベルは言った。


「死ぬ気はありません」

「今、死んではいけないのです」

「クラリスとミアのためにも」


 二人は顔を見合わせた。


 そして、宿主が息を吐く。


「なら、俺たちから言うことはねぇ」

「今日はゆっくり寝ろ。傷が開いたら、今度こそ怒鳴るぞ」


「この親父の治癒を甘く見るんじゃないよ。やぶ医者だからね」


「やぶじゃねぇ。無免許だって言ってんだろ」


「だからもっと酷いって言ってるんだよ」


「……分かりました」


 エイベルは、少し困ったように頷いた。


「では、無免許の治療を甘く見ないようにします」


「そうしろ」


「そこは胸を張るところじゃないだろ」


 女将が宿主の肩を叩く。

 宿主は「いてぇな」と言いながら、どこか満足げだった。


「飯、冷める前に食いな」


「はい」


「食べ終わったら呼ぶんだよ。片付けるから」


「ありがとうございます」


 二人は部屋を出ていく。


 扉の向こうで、まだ言い合いが続いていた。


「あんた、皿を増やしすぎだよ」


「けが人には栄養がいるんだよ」


「だったら粥にしな」


「肉も必要だろ!」


「粥に肉を入れりゃいいだろ!」


「……それだ!」


「今気づいたのかい!」


 声が遠ざかっていく。


 エイベルは、しばらく扉を見ていた。


 それから、ゆっくりと息を吸う。


 脇腹が小さく痛んだ。

 けれど、傷は塞がっている。

 少なくとも、歩ける程度には。


 温かい部屋だった。

 温かい食事だった。

 温かい人たちだった。


 だからこそ。


「ふたりに、迷惑はかけられませんね」


 小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。


 それは感謝ではなかった。


 別れを決めた声だった。

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