番外編-12 理由を聞いたから
「話すことはありません」
エイベルは、即座に答えた。
次の瞬間、倉庫の床を風が走った。
会話ではない。
警告でもない。
逃げられない。
なら、殺すしかない。
「真空波」
空気の刃が、正面からレヴィンへ向かう。
黒煙が動いた。
煤のような闇が、レヴィンの前で広がる。
真空の刃が触れた瞬間、風が無くなった。
斬撃が逸れたのではない。
弾かれたのでもない。
真空を作っていた魔力の流れそのものが、黒煙の中でほどけ、失われた。
続けて、二発。
三発。
すべて、黒煙に呑まれて消えた。
だが、正面は本命ではない。
きん、と空間が鳴る。
天井の梁が、斜めに切れた。
屋根の一部が崩れ落ちる。
木材と瓦礫が、レヴィンの頭上へ降り注いだ。
レヴィンは顔を上げる。
黒煙が上へ伸びた。
実体を持った煤の塊が、落ちてきた瓦礫を払いのける。
その直後。
両側の大きな倉庫棚が、レヴィンへ倒れ込んだ。
右。
左。
上。
そして正面。
波状攻撃。
エイベルは、さらに正面から真空波を放つ。
レヴィンの足元で、黒煙が渦を巻いた。
煤のような闇が、球体になってレヴィンを包む。
次の瞬間、黒煙が全方位へ弾けた。
瓦礫が飛ぶ。
棚が砕ける。
木箱が転がり、荷札が舞い、血の混じった埃が広がった。
その中心へ、エイベルが飛び込んだ。
空纏衝。
足元で風が爆ぜる。
鋭く、一直線に。
エイベルの拳が、レヴィンの胸元へ届く。
だが、受け止められた。
レヴィンの手が、エイベルの拳を掴んでいた。
「近接もできるんだ」
レヴィンが言った。
エイベルは答えない。
霧散した黒煙が、背後から戻ってくる。
エイベルは即座に距離を取った。
黒煙が、空を切る。
「素晴らしいですが、万能ではありませんね」
エイベルは言った。
レヴィンの目が、少しだけ丸くなる。
「凄いね……一瞬で?」
「観察は、得意ですので」
煤状なら速い。
床を這い、壁を伝い、隙間を抜けて回り込める。
実体化すれば、物を弾ける。
掴める。
拘束できる。
持ち上げられる。
魔法はどちらでも消せる。
だが、速さと物理干渉は両立していない。
煤状から実体化へ。
実体化から煤状へ。
切り替えには、ほんの一瞬の間がある。
エイベルは、それを見た。
「でも、俺も同じ手ばかりは食わないよ」
レヴィンが言う。
「それはどうですかね」
エイベルは、棚の影へ滑り込んだ。
エアバーストで床を蹴り、倒れた棚と棚の間を縫う。
影から真空波を放つ。
正面。
斜め。
床沿い。
木箱の隙間。
だが、すべて防がれる。
レヴィンの体の周囲には、防御用の黒煙が渦巻いていた。
魔法は通らない。
レヴィンが、腕を前へ突き出す。
黒煙が追ってきた。
速い。
煤状のまま、床を滑る。
棚の脚の隙間を抜け、割れた木箱の下を通り、血溜まりの上を這ってくる。
エイベルは空圧弾を放った。
風圧で黒煙が一瞬散る。
だが、次の瞬間には戻っていた。
煤だったものが、縄のように輪郭を持つ。
エイベルの足を掴もうと、黒い指のように形を変える。
エイベルは足元で風を弾かせ、拘束の手前で抜けた。
黒煙が、追いついてくる。
棚と棚の間を抜ける。
床を蹴る。
倒れた木箱を踏み台にする。
エアバーストで体を飛ばす。
それでも、近い。
追いつかれる。
その瞬間、エイベルはガロムへ向けて真空波を放った。
「ひっ……!」
ガロムが声にならない悲鳴を上げる。
レヴィンの黒煙が反応した。
実体化を解く。
煤状へ戻る。
速さを選んだのだ。
黒煙が床を滑り、ガロムの前へ走る。
真空波に触れた瞬間、風が消えた。
だが、煤状のままでは飛来物を弾けない。
同時に放たれていたエアショットが、棚の上の雑貨を巻き込んでいた。
金具。
瓶。
工具。
木片。
釘の入った小箱。
それらが、散弾のようにレヴィンへ降り注ぐ。
黒煙が実体化する。
遅い。
ほんの一瞬だけ。
だが、その一瞬で十分だった。
雑貨の散弾が、レヴィンの体へ叩きつけられる。
レヴィンが吹き飛んだ。
黒煙が遅れて体を受け止める。
しかし、額には細い傷が走っていた。
血が一筋、レヴィンのこめかみから伝う。
「やり方が、盗賊より汚いね」
レヴィンは苦笑した。
「盗賊ではありませんので」
エイベルは息を乱さずに答える。
「真面目に生きていては、馬鹿を見ますよ」
「君もね」
レヴィンが言った。
「今の会話で、油断したでしょ?」
エイベルの背筋に、冷たいものが走った。
背後。
霧散していた黒煙が、棚の影を這って回り込んでいた。
しまった。
そう思った瞬間には、もう遅い。
黒煙がエイベルの体に絡みついた。
腕。
脚。
胴。
首の手前。
エイベルは風を起こそうとした。
だが、黒煙に触れた魔力はほどけて消える。
体が固定される。
煙ではない。
縄でもない。
煤のような闇が、実体を持ってエイベルの体を拘束している。
指先を動かそうとしても動かない。
空圧を起こそうとしても、体の周囲にある黒煙へ触れた魔力が消える。
風が、死ぬ。
普通なら詰んでいた。
少しでも危険な動きをすれば、首を折られる。
真空波も、空圧弾も、エアバーストも、レヴィンには届かない。
それでも、エイベルは表情を変えなかった。
「殺す気なら、今ので殺してた」
レヴィンは言った。
額から血が流れている。
それでも、声は穏やかだった。
「話を聞きたいんだ」
「……尋問ですか」
「ううん。理由を聞きたい」
「理由」
「どうして、ここまでしているのか」
エイベルは、レヴィンを見た。
答える必要はない。
だが、答えなければ次へ進まない。
黒煙の拘束は固い。
今すぐ外すのは難しい。
ならば、会話を続ける。
情報を与えすぎない範囲で。
「娘を探しています」
レヴィンの目が、わずかに揺れた。
「娘さん」
「ミア・クロウ」
「六歳です」
「火事の後、遺体が見つかっていない」
レヴィンは黙って聞いていた。
「人買い、闇商会、神教会、裏倉庫」
「繋がる可能性があるなら、開けるだけです」
「開ける?」
「閉じられた扉を」
エイベルの声は静かだった。
「表の道では、何も開きませんでした」
「なら、闇の扉を開けるしかない」
レヴィンは、しばらく黙っていた。
床には血が広がっている。
雷鶏の構成員たちだったものが、木箱の間に散らばっている。
ガロムは黒煙に包まれたまま、床の上で震えていた。
その中で、レヴィンだけが悲しそうな顔をした。
「君は、扉を開けたつもりでいるのかもしれない」
レヴィンは静かに言った。
「でも、君はその奥を見られていない」
エイベルは答えない。
「その奥にあるのは、ただの闇じゃない」
「深淵だよ」
黒煙が、足元で静かに揺れた。
「一度落ちると、戻れない」
「君は確実に殺される」
「覚悟はしています」
「覚悟があれば死なないわけじゃない」
その言葉だけ、少し鋭かった。
「報復が来る」
「君が思っているより、この街の闇は大きい」
レヴィンは続ける。
「人買いを一つ潰して終わりじゃない」
「その裏には、荷を運ぶ奴がいる。倉庫を貸す奴がいる。金を出す奴がいる。買い手を繋ぐ奴がいる。見逃す奴がいる」
「君は、その繋がりをいくつも切った」
エイベルは黙っている。
「向こうも、君を探し始める」
「風読みを殺せば、安心できる」
「捕まえれば、誰にどこまで辿られたか分かる」
「売れば、金になる」
「黒牙の仕業にすれば、戦争の火種にもできる」
「君ひとりじゃ、いずれ囲まれるよ」
「承知しています」
レヴィンは眉を下げた。
「分かってて続けるの?」
「はい」
「君、思ったよりずっと危ないね」
「危ないのは、私ではありません」
「ミアを隠している者たちです」
「違うよ」
レヴィンの声が、少しだけ低くなる。
「君自身が、君を殺そうとしてる」
エイベルは、表情を変えなかった。
レヴィンは、黒煙をわずかに緩めた。
殺すためではない。
呼吸をさせるためだった。
「君を預かる」
「……何故ですか」
「理由を、聞いたから」
「それに、君が心配だ」
「心配」
エイベルの声には、温度がなかった。
「ええ。便利な言葉ですね」
「保護ですか。監視ですか。利用ですか」
「それとも、風読みという力が欲しいのですか」
レヴィンは否定しなかった。
「全部、少しずつある」
エイベルの目が細くなる。
「正直ですね」
「嘘をついても、君は信じないでしょ」
「信じる理由がありません」
「うん。それも正しい」
レヴィンは頷いた。
「でも、もし死んだら、娘さんを探せなくなる」
「それでもいいの?」
その言葉だけが、胸の奥を引っ掻いた。
ミア。
淡い金髪。
淡い茶色の目。
くまにしか見えない猫の折り紙。
狼のお守り。
玄関で笑っていた顔。
エイベルは、ほんのわずかに黙った。
けれど、目の前にいるのは盗賊だった。
黒牙第八席。
黒煙のレヴィン。
優しそうな顔をしている。
穏やかな声で話す。
だが、その黒煙はエイベルの風を消した。
大人一人を容易く引きずり、今もガロムを拘束している。
信用できる理由は、一つもない。
「娘の名を、交渉材料にしないでください」
エイベルは言った。
「私は、あなたを知りません」
「黒牙も知りません」
「盗賊が善意の顔をして近づく理由なら、いくらでも想像できます」
「そうだね」
レヴィンは静かに頷いた。
「でも、君が死んだら、想像も疑いも終わる」
「娘さんを探す人が、いなくなる」
「正しい言葉ですね」
エイベルは、小さく息を吐いた。
「私は、正しい言葉が嫌いになりました」
レヴィンの目が、わずかに揺れる。
「正しい言葉は、いつも扉の前で私を止める」
「証拠がない」
「規則がある」
「危険すぎる」
「君は死ぬ」
「娘を探せなくなる」
エイベルは、静かにレヴィンを見た。
「全部、正しい」
「だからこそ、邪魔です」
黒煙がわずかに揺れた。
「私は行きます」
「誰の手も借りません」
「エイベル」
「その名前で呼ばないでください」
レヴィンは気づいていなかった。
エイベルは、会話をしていた。
答えていた。
拒絶していた。
その間ずっと、ほんの少しだけ空気を動かしていた。
鼻先。
口元。
喉へ入る空気。
普通の空気ではない。
酸素だけを濃くした、薄く鋭い呼吸。
大きな魔法ではない。
黒煙に触れるものでもない。
自分の呼吸圏だけを整える、針の穴ほどの風。
それでよかった。
数秒。
相手より数秒だけ長く意識を保てればいい。
エイベルは、静かに息を吸った。
「無気圏」
次の瞬間、倉庫の空気が消えた。
音が消える。
吊るされた魔灯が、ちかちかと不規則に瞬いた。
床の血が細かく泡立つ。
散らばった紙が一瞬浮き、次の瞬間、壁へ張りついた。
無気圏。
空気のない領域を作る魔法。
かつては、魔力流体学の実験の産物だった。
圧力差を観測するため。
魔力が空気へ干渉する過程を見るため。
風が生まれる前の、何もない空間を作るため。
人を殺すための魔法ではなかった。
少なくとも、昔は。
真空状態で、人間は十秒から十五秒ほどで意識を失う。
息を止めても意味はない。
呼吸を止めても、血液は止まらない。
酸素を失った血液は、心臓に押し出され、脳へ届く。
脳は、無酸素の血を拒めない。
そして意識は落ちる。
同時に、体の表面からも水分が奪われる。
目。
肌。
舌。
喉。
粘膜の水分が、空気のない場所へ逃げるように蒸発していく。
涙が乾く。
舌が張りつく。
皮膚がひりつく。
肺の奥が、焼けるように痛む。
だから、普通なら全員が倒れる。
黒煙が、レヴィンの体を球のように包んだ。
だが、空気がない。
黒煙は刃を消せる。
炎を呑める。
風を無くせる。
けれど、失われた空気を作ることはできない。
レヴィンの膝が落ちた。
ガロムが口を開く。
声は出ない。
目が見開かれ、喉が無音で震える。
エイベルだけが、まだ動いていた。
首元の血流を空圧でわずかに絞る。
酸素を失った血が、脳へ回る速度を遅らせるために。
安全ではない。
正気の手段でもない。
だが、それでいい。
数秒。
レヴィンより数秒だけ長く、意識が残ればいい。
レヴィンの膝が落ちた。
ほぼ同時に、倉庫が悲鳴を上げた。
窓が割れる。
扉が歪む。
木枠が内側へ折れ曲がる。
爆発ではない。
爆縮。
空気を失った箱が、外側から押し潰された。
硝子片が内へ飛び込み、木片が床を跳ね、外の空気が怒った獣のように流れ込む。
紙。
砂埃。
血の飛沫。
煤。
すべてが一斉に倉庫の中へ引きずり込まれた。
そのうちの一片が、エイベルの頬を裂いた。
細い熱が、頬を走る。
遅れて、血が一筋流れた。
この戦いで、初めて負った外傷だった。
エイベルは、四つん這いになって息をした。
肺が焼ける。
喉が裂ける。
目の表面が乾く。
舌が張りつく。
頬の血だけが、やけに温かかった。
それでも、生きている。
ならば、十分だった。
エイベルは顔を上げた。
レヴィンは倒れている。
黒煙は薄く床へ広がり、形を失っていた。
あれほど自在に動いていた煤のような闇が、今はただ床の上で揺れているだけだった。
エイベルは、息を整える。
肺が痛い。
喉が乾いている。
視界が揺れる。
それでも、動ける。
ならば、やるべきことは決まっていた。
レヴィンを殺す。
黒煙は危険だ。
あの闇は、真空波を消した。
風を殺した。
この男を生かしておけば、次は逃げられないかもしれない。
エイベルは、右手を上げた。
空気が細く震える。
殺す。
それだけだった。
これまでも、そうしてきた。
これからも、そうするつもりだった。
なのに。
指が、止まった。
初めてだった。
殺す前に、指が止まったのは。
なぜか。
分からなかった。
いや。
分かっていた。
この男は、助けると言った。
理由を聞いたから。
君が心配だ。
そんな言葉を、エイベルは知らなかった。
リディアは、助けようとしてくれた。
彼女の涙も、怒りも、嘘ではなかった。
だが、そこには好意があった。
憧れがあった。
尊敬があった。
エイベル・クロウという教授へ向けた感情があった。
それが悪いわけではない。
ただ、理由はあった。
目の前の男には、それがない。
初対面の盗賊。
黒牙第八席。
自分を利用する理由なら、いくらでもある。
けれど、あの言葉だけは。
理由を、聞いたから。
君が心配だ。
その言葉だけは、まだ処理できなかった。
ぴくり、と。
レヴィンの指が動いた。
エイベルの目が細くなる。
ありえない。
脳に酸素が足りていない。
意識を保てる時間は過ぎた。
黒煙で体を覆っても、空気そのものがなければ意味はない。
立てるはずがない。
それなのに、レヴィンの腕が床を押した。
レヴィンの目が、エイベルを見た。
黒い瞳。
優しい目ではなかった。
穏やかな目でもなかった。
鋭く、意志のある目だった。
エイベルの背筋が、冷えた。
意志。
ただ、それだけで立とうとしている。
そんなわけがない。
人間は、意志だけで酸素を補えない。
意志だけで脳を動かせない。
意志だけで死を押し返せない。
そんな理屈は存在しない。
だが、他に説明がつかなかった。
エイベルは、右手を下ろした。
殺せる。
今なら、まだ殺せる。
そう判断した。
そして、殺さなかった。
次の瞬間、エイベルは踵を返した。
レヴィンは、動かない体を起こそうとしていた。
腕に力が入らない。
膝が滑る。
肺が、空気を欲しがっている。
それでも、レヴィンは床に手をついた。
エイベルの背中が、倉庫の闇の中で遠ざかっていく。
「そんな悲しい目をするなよ……」
声は掠れていた。
エイベルの足は止まらない。
「どんな気持ちで、風読みになったんだ」
「何があった……?」
答えはない。
レヴィンにも、分からなかった。
あの男が何を失ったのか。
なぜ、あんなに丁寧な声で人を殺すのか。
なぜ、壊れているのに、まだどこかで壊れきっていないのか。
分からない。
分からないけれど。
「知りたいんだ……」
レヴィンは、床を掴んだ。
「君のことを」
エイベルの背中が、扉の向こうへ消えようとしていた。
「行かないで……くれ……」
視界が揺れる。
黒煙がほどける。
魔灯の光が滲む。
「エイベル……!」
その名前を呼んだ瞬間、レヴィンの体が崩れた。
目が眩み、床が近づく。
黒煙が、煤のように散った。
エイベルは、夜の倉庫街へ出た。
息を吸う。
空気が肺に入る。
真空で舌が乾いていた。
喉も焼けていた。
だからだ。
胸の奥が落ち着かないのも。
指先がわずかに震えているのも。
きっと、全部。
真空のせいだ。
そう思った。
そう処理した。
だが、背後で呼ばれた名前だけが、いつまでも耳の奥に残っていた。




