番外編-11 雷鶏
数日後の夜。
ルヴェリアの倉庫街は、昼よりもずっと正直な顔をする。
昼間は荷車の音、商人の声、港から流れてくる潮と油の匂いに紛れていたものが、夜になると輪郭を持つ。
腐りかけた木箱。
湿った麻袋。
帳簿に残らない荷。
誰のものでもない顔をした人間たち。
黒牙の下部組織、雷鶏。
そのアジトは、倉庫の中にあった。
表向きは、荷の一時保管所。
実際には、事務所、寝床、酒場まがいの休憩所、裏の取引場が雑に混ざった場所だった。
壁際には短剣や棍棒が無造作に立てかけられている。
床には油と酒の染み。
奥には帳簿机。
さらに奥には、荷札の山と封をされた木箱。
酒瓶を片手に笑う者。
荷札を書き替える者。
木箱を動かす者。
賭け札を広げる者。
雑だった。
汚かった。
だが、動いている。
外縁区の端で細々と子供を買っていた人買いたちとは違う。
雷鶏には倉庫があり、人手があり、黒牙の名前があった。
その倉庫の扉が、静かに開いた。
「これはこれは」
奥の机に座っていた男が、すぐに立ち上がった。
四十前後。
無精髭。
脂ぎった髪。
厚い唇。
笑うと金歯が見えた。
黒牙下部組織雷鶏の頭、ガロム・ジャッカ。
いかにも盗賊らしい男だった。
雑で、粗くて、なんでもやりそうで。
それでいて、上には笑える男だった。
「レヴィンの旦那。こんな夜更けに直々とは」
ガロムは両手を広げ、へつらうように笑った。
倉庫の中の男たちが、一斉に姿勢を正す。
酒瓶を置く音。
椅子を引く音。
慌てて帳簿を閉じる音。
その中心を、少し長い黒髪の男が歩いてくる。
優しそうな顔。
穏やかな声。
夜の倉庫街には似合わないほど、柔らかい目をした男。
黒牙第八席。
黒煙のレヴィン。
「こんばんは、ガロム」
「へい。まさか第八席様が、こんな下部の倉庫まで足を運んでくださるとは。いやぁ、ありがてぇ話で」
「調子はどう?」
「ええ、なんの滞りもなく」
ガロムは即答した。
「荷も、人も、上に迷惑をかけるようなことは一つもございやせん」
「そう」
レヴィンは倉庫の中を見た。
積まれた木箱。
壁際の帳簿。
荷札。
奥へ続く扉。
そこで一瞬だけ手を止めた男たち。
レヴィンは笑っていた。
ただ、見ていた。
「そうだといいけど」
ガロムの笑みが、ほんの少しだけ固まる。
「ところで、風読みって知ってる?」
「風読み」
ガロムは、わざとらしく眉を上げた。
「もちろん、噂くらいは。最近、裏稼業を荒らして回ってる化け物でしょう?」
「ですが、うちは関係ありませんぜ」
「風読みが来るような物は扱っておりませんし」
「人を扱ってたりする?」
その瞬間、倉庫の中の音が止まった。
荷札を書く音。
酒瓶を置く音。
奥で木箱を閉じる音。
ほんの一拍だけ、雷鶏の倉庫から音が消えた。
けれど、ガロムだけは笑っていた。
「ええ! 扱ってますよ!」
明るすぎる声だった。
「孤児を孤児院に輸送しました。仕事柄、孤児になる子供もいますからねぇ。盗賊の世界じゃ、親が明日も生きてる保証なんざありません」
「子持ちの盗賊も多い。親が死ねば、残るのは子供です」
「そういう子らを、行き場のある場所へ運ぶ。いやぁ、心が痛い限りです」
ガロムは、胸に手を当てた。
「俺みたいな粗野な男でも、子供が泣いてるのは見たくねぇもんで」
「そう」
レヴィンは、柔らかく頷いた。
「じゃあ、神教会には関わってないよね?」
また、音が止まった。
今度は、さっきより長かった。
ガロムの笑みだけが、少しも崩れない。
「神教会? あそこは過激派です。危険な組織は、こっちまで火の粉を被る」
「リスクの方が大きいですからねぇ」
そこで、ガロムは肩をすくめた。
「報酬はデカいですが……それだけですよ、あんなところ」
レヴィンは、何も言わなかった。
ただ、ガロムを見ていた。
倉庫の中の空気が、少しだけ重くなる。
ガロムのこめかみに、汗が一筋浮いた。
それでも笑みは崩さない。
「いや、噂ですよ。噂」
「裏稼業にいりゃ、嫌でも耳に入るもんでして」
レヴィンは、そこでようやく笑った。
「そっか」
「目を見て言えるかい?」
「言えますとも。はい、もちろん!」
ガロムは、笑顔のまま答えた。
そして自然に、目を逸らした。
「おい、お前ら手を止めんな! 今日も帰りが遅くなるだろ!」
怒鳴られた部下たちが、慌てて手を動かし始める。
荷札を書く音。
木箱を運ぶ音。
帳簿をめくる音。
止まっていた倉庫の音が、ぎこちなく戻った。
「レヴィンの旦那、すみません。まだ仕事が忙しくて……」
「うん。邪魔したね」
レヴィンは、柔らかく頷いた。
「また今度来るよ」
「ええ、もちろん! いつでも!」
ガロムは、最後まで笑っていた。
レヴィンが倉庫を出る。
扉が閉まる。
倉庫の中に、しばらく誰の声もなかった。
ガロムの笑みが消えた。
「あいつ、気づいてんのか?」
誰も答えない。
ガロムは近くにいた男の胸ぐらを掴み、そのまま床へ叩きつけた。
「バレねぇようにしとけって言ったよな」
「がっ……!」
「黒牙本体に匂いを嗅がせるなって、何度言わせんだ」
ガロムは男の腹を蹴った。
「俺は売ってねぇ。運んだだけだ」
「中身を知らねぇ木箱に、何の責任がある?」
「黒牙の印は便利なんだよ。使えるもんは使う」
「神教会だろうが人買いだろうが、金になるなら通す」
ガロムの声が低くなる。
「ただし、バレるな」
「今後はもっとうまくやれよ」
殴られた男が、血の混じった唾を吐いた。
「で、でも……風読みが来るって噂、本当なら……」
「あ?」
ガロムが睨む。
「風読みだぁ?」
その時だった。
ぶら下がった魔灯が、ぎしりと揺れた。
一度。
二度。
光が細くなり、倉庫の奥が暗く沈む。
「……風?」
ガロムが顔を上げた。
「窓開けたか? 誰か」
「いえ……」
誰かが答える。
窓は閉まっている。
扉も閉まっている。
それなのに、荷札の紙が一枚だけめくれた。
酒瓶の炎が、細くなる。
床の埃が、一本の線を描く。
音が消えた。
次の瞬間。
きん、と空間が鳴った。
五人が、同時に崩れた。
倒れたのではない。
分かれた。
首。
肩。
腕。
腹。
足。
人間だったものが、木箱の間にばらばらと散った。
倉庫が悲鳴で満ちる。
「なんなんだよ!!」
「なんだよこれ!!」
「か、風読みだ!!」
誰かが叫んだ。
「風読みが来たんだ!!」
魔灯が、ちかちかと瞬く。
その奥に、男が立っていた。
白い手袋。
皺ひとつない外套。
黒地に銀のラインが入ったネクタイ。
整えられた髪。
血飛沫ひとつ浴びていない顔。
エイベル・クロウは、倉庫の奥から静かに歩いてきた。
「いくつか、質問があります」
声は、講義室で学生に問いかけていた頃と同じ温度だった。
「やれ!!」
ガロムが叫んだ。
「殺せ!! 何してやがる!!」
だが、誰も動かなかった。
動けば死ぬ。
もう全員が、それを理解していた。
エイベルは一人の男を見る。
「雷鶏は、人身売買に関わっていますか」
「し、知らねぇ……俺は……」
「そうですか」
きん、と空間が鳴る。
男の首が落ちた。
別の男が悲鳴を上げる。
「神教会との繋がりはありますか」
「知らない! 本当に知らない!」
「そうですか」
また一人、崩れた。
腕が落ちる。
足が遅れて折れる。
床へ倒れるより先に、体がばらばらになった。
「六歳前後の少女を扱いましたか」
「淡い金髪。淡い茶色の目」
「名前は、ミア・クロウ」
「し、知らねぇ!」
「俺たちは荷を動かしてるだけだ!」
「中身なんか全部見てねぇ!」
「では、中身を見ていた者は」
誰も答えない。
エイベルは手を動かさなかった。
ただ、視線だけを向けた。
空間が鳴る。
また一人、消えるように死んだ。
倉庫に残っていた声が、だんだん細くなっていく。
ガロムは後ずさった。
背中が机に当たる。
帳簿が床へ落ちる。
「ま、待て……待ってくれ……」
「神教会と関係はありますか」
エイベルが問う。
ガロムの口が、震えた。
「あ、あ……」
「ありますか」
「ある! ある!!」
エイベルの目が、わずかに変わった。
「何を知っていますか」
「詳しいことは知らねぇ! 本当だ!!」
「ただ、神教会が集めてる聖君を……手配した!」
「聖君?」
「ガキだ!」
ガロムは叫ぶように言った。
「魔力に優れた、有能なガキを集めてる!!」
「アイツら魔力至上主義だろ!? だから集めてんだ!」
「クロノスの意向がどうの、意味なんか知るか!!」
「金になるからやった!!」
エイベルは動かなかった。
「まだパイプはありますか」
「向こうから一方的に接触してくる!」
「こっちからは取れねぇ!」
「本当だ!!」
「聖君……子供……集めている」
エイベルは、静かに呟いた。
その言葉だけ、ほんの少し温度が違った。
ミア。
淡い金髪。
淡い茶色の目。
六歳の少女。
神教会が、魔力に優れた子供を集めている。
扉が一つ、開きかけていた。
「あなたから、まだ言えることはありますか」
「あ、ああ……」
ガロムの唇が震える。
だが、もう何も出なかった。
最後に出たのは、情報ではなかった。
「助けてくれ」
エイベルは、丁寧に頷いた。
「ありがとうございました」
空間が鳴る。
次の瞬間、ガロムの体を黒煙が覆った。
真空の刃は黒煙に触れた。
その瞬間、風が消えた。
斬撃が逸れたのではない。
受け止められたのでもない。
真空を作っていた魔力の流れが、煤の中でほどけ、失われた。
殺すはずだった刃は形を保てず、床に細い傷だけを残して霧散する。
「なに……!?」
エイベルの声が、初めて揺れた。
黒煙は、ガロムの体を包んだまま倉庫の入口まで引きずっていく。
床に広がった血を擦り、死体の間を這い、ガロムの服と頬が赤黒く濡れていった。
「れ、レヴィンの旦那!!」
ガロムが叫んだ。
「風読みです! そいつが風読みです、旦那!!」
「早く殺してください!!」
「こいつ、雷鶏の人間を、みんな……!」
黒煙に包まれたまま、ガロムは床を這うようにレヴィンへ縋った。
倉庫の入口に、黒髪の男が立っていた。
レヴィンは、その声を聞いていた。
聞いていたが、ガロムを見下ろす目は冷たかった。
「黙れよ」
「……旦那?」
ガロムの顔が、引きつった。
「お前からは、初めから嘘をついてる奴の匂いがした」
「う、嘘なんて……!」
レヴィンが、静かに首を傾ける。
「目を見て言えるかい?」
「ひっ……!」
ガロムの喉が鳴った。
レヴィンの目の奥で、闇が揺らめいたように見えた。
それは黒煙の反射か。
魔灯の揺らぎか。
それとも、もっと深い場所から覗いた何かか。
ガロムには分からなかった。
ただ、分かったことが一つだけある。
今、自分は風読みから助かったのではない。
別の闇の前に転がされただけだ。
レヴィンは、ようやくエイベルを見た。
血の匂い。
切断された死体。
揺れる魔灯。
床に刻まれた、細すぎる真空の溝。
その中心に、白い手袋の男が立っている。
整えられた外套。
乱れていない髪。
血飛沫ひとつ付いていない顔。
まるで、講義を終えた教授のようだった。
「初めまして、風読み」
黒煙が、レヴィンの足元でゆっくり渦を巻いた。
「黒牙第八席」
「黒煙のレヴィン」
レヴィンは、穏やかに名乗った。
「君と話がしたい」
エイベルは、黙ってレヴィンを見つめ返した。
黒煙。
煤のような暗黒物質。
実体がある。
大人一人を、無造作に引きずるだけの力がある。
だが、煙でもある。
形を崩し、床を這い、レヴィンの足元でゆっくりと渦を巻いている。
そして、魔力元素を消す。
真空波は防がれたのではない。
弾かれたのでもない。
触れた瞬間、風が無くなった。
ならば、次はどうするか。
エイベルがやることは、変わらなかった。
これまでも。
これからも。
観察する。
分析する。
対処する。
それだけだった。




