番外編-10 風読み
世界は、エイベル・クロウの前で扉を閉じた。
どれだけ訴えても、関係なかった。
それが正解でも。
真実でも。
正義でも。
証拠がないなら、裁けない。
心では真実だと思っても、自分の生活や心を守りたい。
法律を越えては動けない。
倫理を越えては踏み込めない。
規律を破れば、自分まで闇に落ちる。
誰も、闇に染まりたくなかった。
誰も、他人を助けるほど余裕がなかった。
だから扉は閉じられた。
ならば、自分で開けるしかない。
エイベルは、殺すことを躊躇しなかった。
壊れたからではない。
理解したからだ。
正規の道では、たどり着けない闇がある。
正義では開かない扉がある。
真実を叫んでも、届かない場所がある。
そこに、ミアがいるかもしれない。
ならば、エイベルはそこへ行くしかなかった。
誰かの手を借りることはできない。
借りてはいけなかった。
たとえ誰かがエイベルに同情し、手を伸ばしたとしても、その手を取れば、その人間まで闇へ堕とすことになる。
それは望んでいない。
堕ちるのは、自分だけでよかった。
だからエイベルは、扉を開ける。
人が躊躇し、忌避し、遠ざけ、見なかったことにする扉を。
悪の道。
闇の道。
光では辿り着けない闇。
光では、暴けなかった真実。
ミアを見つけるために、エイベルはその扉を開け続けた。
◇
「おい、聞いたか? 風読みの話」
夜の倉庫街。
積み上げられた木箱の横で、二人の男が見張りをしていた。
黒牙の下部組織に属する男たちだった。
表向きは荷運び。
実際には、倉庫に出入りする荷と人間を見張るだけの仕事。
ただし、夜は長い。
黙っていれば眠気が来る。
だから、自然と噂話になる。
「ああ。またやられたってな」
「今度は倉庫街の方の組織らしいぜ。人身売買絡みだったとか」
「またかよ。よくやるな、そいつも」
「魔力識別は風元素っぽいんだと。けど切り口が妙らしい」
「妙?」
「綺麗すぎるんだよ。刃物で斬ったみてぇに、スパッと」
男は自分の首筋に指を当て、横へ引いた。
「風元素で?」
「ああ。風でも読めなきゃ、あんな芸当できねぇよ」
もう一人の男が、嫌そうに肩をすくめる。
「人間じゃねぇんじゃねぇか? 悪魔とか」
「ああ、悪魔かもな。売られた奴隷が、命を代償に契約したとか」
「うわ、ありそうで嫌だな」
「これだから人身売買は手が出せねぇ。売った奴隷が、最後に悪魔連れて戻ってくるかもしれねぇんだからよ」
「風読みは、人間だよ」
声は、夜気よりも静かだった。
二人が振り返る。
そこに立っていたのは、少し長い黒髪の男だった。
優しそうな顔をしている。
声も、表情も、倉庫街の夜には似合わないほど穏やかだった。
けれど、二人はその顔を見た瞬間、揃って背筋を伸ばした。
「こ、黒煙様……!」
「第八席……! 任務は滞りなく進んでおります!」
「任務って、倉庫の見張りでしょ。固くならないでよ。お喋りくらいしてないと寝ちゃうよね」
「そんなこと……ないですます!」
「ありませんです、はい!」
レヴィンは困ったように笑った。
「そんなに緊張しなくていいよ。下部組織のみんなには、いつも世話になってる。黒牙だけじゃ手の届かない仕事を押しつけてしまって、申し訳ないと思ってるくらいだから」
「そんなことありません! 最近は治安も悪いですし、夜中に倉庫が荒らされることも増えてますし!」
「そうです! 見張りも大事な仕事です!」
「ありがとう。そう言ってくれると助かるよ」
レヴィンは二人と同じ木箱の横に立った。
まるで自分も一緒に夜番をするつもりのような距離だった。
「それで、黒煙様は何をしにこんな所へ?」
「風読み、結構やばいらしいから見に来たんだ」
「そんな、王牙幹部のレヴィン様が直々に!? 俺たち下部のためにですか?」
「泥鴨も、灰鼠も、雷鶏も、みんなよくやってくれてるからね。他の下部組織も。心配くらいするよ」
「心強いです……レヴィン様にそう言ってもらえると」
男は照れたように頭を掻いた。
その横で、もう一人が首を傾げる。
「それはそうと、風読みは人間ってのは?」
「あー。うん。風読みは人間でしょ」
「なんでですか? あれはそこいらの人間の魔法じゃないですよ」
「確かに、まさに神業って感じらしいね。見てないけど」
「悪魔ですよ、悪魔! 契約して深淵魔法を使ってるんですよ!」
「だとしたら、狙いが広すぎるかな」
「広すぎる?」
「うん。人身売買への恨みなら、人身売買組織だけを狙うはずでしょ。でも風読みは違う。人売りも、良くない噂のある商会も、裏稼業の倉庫も、神教会との繋がりが噂されている組織もやられてる」
「裏稼業全体が恨まれてるってことじゃ?」
「それにしては、潰す場所を選んでる。無差別じゃない」
レヴィンは夜の倉庫街を見た。
油の匂い。
湿った木箱の匂い。
水路から上がる冷たい空気。
「何かを探してるんだと思う」
「探してる?」
「うん」
「悪魔契約するような奴らが、何考えてるかなんて分かりやせんよ」
「悪魔契約なら、命がいくつあっても足りないよ。一人の命でせいぜい数人でしょ。もういくつも組織が潰れてる」
「そうなんですね……黒煙様も、風読みを探すんですか?」
「俺?」
レヴィンは少しだけ笑った。
「いやあ。俺は話を聞いてみようと思ってさ」
二人が、顔を見合わせた。
「またまた」
「誰がそんな物好きな……冗談がお好きですね」
「うーん。本当なんだけどな」
レヴィンは苦笑した。
その目だけは、笑っていなかった。
◇
外縁区の夜は、倉庫街よりもさらに暗い。
灯りは少ない。
道は細い。
建物は傾き、路地には汚れた水が流れている。
その奥に、ひっそりと扉があった。
表向きは古い雑貨倉庫。
実際には、外縁区の貧民から子供を買い取る人買い組織の隠れ家だった。
扉の前にいた男は、風が止まったことに気づかなかった。
ただ、次の瞬間には倒れていた。
室内にいた男たちが振り返る。
「なんだ?」
答えは、風だった。
白い手袋をはめた男が、扉の前に立っていた。
黒地に銀のラインが入ったネクタイ。
皺ひとつない外套。
整えられた髪。
その姿だけなら、夜の外縁区より、大学の講義室の方が似合っていた。
「失礼します」
エイベル・クロウは、静かに言った。
「いくつか、お聞きしたいことがあります」
一人の男が腰の短剣に手を伸ばす。
「真空波」
声は、講義室で学生を指名する時と同じ温度だった。
次の瞬間、男の体がずれた。
肩から腹まで、斜めに。
血が噴き出すより早く、上半身が床へ落ちる。
下半身は一拍遅れて崩れた。
残った男たちの息が止まる。
「逃げないでください」
「逃げたら殺します」
「真実を話さなければ殺します」
「風読みか……!?」
男の一人が呻いた。
相手は五人。
今、四人になった。
それでも、圧倒的な戦力差に、男たちは立ち尽くすしかなかった。
「六歳前後の少女を探しています」
エイベルは一歩進んだ。
「淡い金髪。淡い茶色の目。名前は、ミア・クロウ」
「この三ヶ月以内に、扱いましたか」
「し、知らねぇ!」
「本当に知らねぇ!」
「俺たちは子供を奪ってるわけじゃねぇ!」
太った男が、両手を上げながら叫んだ。
「外縁区じゃ、食えなくなった親が子供を売ることなんざ珍しくねぇんだ! 俺たちは買ってやってる!」
エイベルの目が、男へ向いた。
「買ってやっている」
「そ、そうだ! 高い金をちゃんと払ってる! 数ヶ月は食っていけるはずだ!」
「慈善活動みたいなもんだろ! なあ!?」
男は周りを見た。
残った男たちが、慌てて頷く。
「そ、そうだ」
「間違いねぇ」
「俺たちは、盗んじゃいねぇ」
「そうですか」
エイベルは頷いた。
次の瞬間、喋っていた男の上半身だけが、くの字に曲がって地面に落ちた。
下半身は、それからゆっくりと膝をつく。
「残り三人になってしまいました」
エイベルは、表情を変えなかった。
「言葉を選んでください」
悲鳴が上がった。
「し、知らねぇ! 本当だ!」
「詳しくは倉庫を見ねぇと分からねぇ!」
「全員を管理できてるわけじゃねぇんだ!」
「だが、月に数件しかねぇ! 金髪なら一目で分かるはずだ!」
「ここしばらくは扱ってないと思う! 本当だ!」
エイベルは黙って聞いていた。
淡い金髪。
淡い茶色の目。
六歳の少女。
ミア。
その名前を出すたび、胸のどこかが軋む。
だが、顔には出さない。
軋むことに意味はない。
痛むことに価値はない。
扉を開けるために必要なのは、感情ではない。
「では、扱っていそうな組織を」
「神教会と繋がりが噂される組織を」
「子供を運ぶ倉庫を」
「すべて話しなさい」
三人は、堰を切ったように喋り始めた。
南倉庫の斡旋屋。
外縁区の養育院まがいの施設。
港に出入りする闇商会。
神教会の印章がついた荷を見たという運び屋。
買い手を繋ぐ仲介屋。
孤児を集める祈祷師崩れ。
そして。
「ら、雷鶏だ……!」
一人が、震えた声で言った。
「雷鶏なら知ってるかもしれねぇ!」
「雷鶏?」
「黒牙の下部組織だ! 俺たちみたいな端の人買いとは違う!」
「倉庫も、人手も、通せる荷も多い!」
「俺たちよりずっと手広くやってる!」
「人も、荷も、書類も、あいつらの方がずっと回せるんだ!」
別の男が、必死に頷く。
「神教会に繋がる荷を見たって噂もある!」
「俺たちは知らねぇ! 本当だ!」
「けど雷鶏なら、何か知ってるかもしれねぇ!」
エイベルは、静かにその名を繰り返した。
「雷鶏ですか」
黒牙の下部組織。
自分一人で踏み込むには、少し大きい。
だが。
「黒牙の下部組織……少し大きいですが……大丈夫でしょう」
エイベルは、丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございました」
そして、背を向ける。
三人が息を吐いた。
「た、助かった……」
誰かが膝をついた。
その瞬間、三つの首が落ちた。
エイベルは振り返らなかった。
足も止めなかった。
処理は終わっていた。
血の匂いを置き去りにして、エイベルは扉へ向かう。
扉が一つ、見つかった。
なら、開けるだけだった。




