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異世界転生した底辺盗賊の俺、悪名を喰らって悪の帝王へ成り上がる  作者: タクト
番外編 受け継がれる黒鋼の短剣

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番外編-9 真空


 雨は、まだ降っていた。


 リンドベル家の門は、以前と同じ場所にあった。

 高い鉄柵。

 磨かれた門柱。

 雨に濡れて、黒く光る石畳。

 その奥には、灯りのともった屋敷がある。


 しばらく前、同じ門をくぐった時は、ミアがアルフレッドの真似をして両手を上げていた。


 おじいさまはこうやって歩くの。


 そう言って、胸を張って、短い足で大げさに歩いていた。

 アルフレッドは笑っていた。

 マリアンヌは、港で評判の焼き菓子を嬉しそうに眺めていた。

 クラリスは、呆れながらも、幸せそうに笑っていた。


 温かい食卓だった。


 あの時、この門は家族の門だった。

 クラリスの実家であり、ミアの祖父母の家であり、エイベルにとっても、もう一つの帰る場所だった。


 だが、今は違う。


 門の前に立つエイベルへ、いつもの執事が静かに頭を下げた。


「クロウ様」


 その声は、丁寧だった。


 丁寧すぎるほどに。


「どうか、お引き取りください」


 エイベルは門の向こうを見た。


「一度だけでいいんです」

「話をさせてください」


「旦那様と奥様は、どなたにもお会いになれません」


「ミアは生きています」


 執事の顔が、わずかに歪んだ。


「ミアは、生きているんです」


 エイベルは門に手をかけた。


「アルフレッド様!!」

「マリアンヌ様!!」

「お願いします、話を聞いてください!!」


「クロウ様……!」


 執事の声に、痛みが混じった。


「私たちも、これ以上あなたを傷つけたくはありません」


「頼む」


 エイベルは、雨に濡れた門の前で、息を乱した。


「一度だけ」

「一度だけでいい」

「話を、話をさせてくれ」


「聞き分けのない人ですね」


 執事は、苦しげに目を伏せた。


「では、もう衛兵を呼ぶしか……」


 その時だった。


 屋敷の奥から、男が歩いてきた。


 濡れた庭石を踏み、雨の中へ出てくる。


 アルフレッド・リンドベル。


 かつて、エイベルを食卓へ招いた男。

 家名を継がないかと、冗談交じりに言った男。

 ミアを膝に乗せて、目尻を下げていた男。


 その男が、今は冷たい顔で門へ近づいてくる。


「アルフレッド様……!」


 執事が慌てて振り返った。


「今、お帰りいただくところですので……」


 アルフレッドは答えなかった。


 門が開いた。


 次の瞬間、アルフレッドはエイベルを殴りつけた。


 頬に衝撃が走る。

 視界が傾く。

 足元の泥水が跳ねた。


 エイベルは膝をつきかけ、何とか踏みとどまった。


 頬が熱い。

 口の中に血の味が広がる。


 それでも、何も言えなかった。


「なぜだ?」


 低い声が落ちた。


 問うていたのは、エイベルではなかった。


 アルフレッドだった。


「なぜ、娘を死なせた?」


「……え」


「なぜ、クラリスを死なせた」


 エイベルの喉が固まった。


 雨の音が遠くなる。


「お前がいなければ」


 アルフレッドの声が震えた。


「お前がいなければ、娘は死ななかった」

「違うのか?」


「それは……」


「違うのか!!」


 エイベルは答えられなかった。


 クラリスが、自分と結婚しなければ。

 自分の研究に関わらなければ。

 あの家にいなければ。


 そう考えてしまえば、否定できる言葉などなかった。


 アルフレッドの顔は、怒りだけではなかった。

 崩れていた。

 壊れていた。

 それでも壊れきれないまま、怒りだけで立っている顔だった。


「なぜ、そうまでして私たちを傷つける!!」

「なぜ、そうまでして人を不幸にする!!」


 エイベルは雨に打たれながら、ただ立っていた。


「お前は、関わる者を不幸にする疫病神ではないか!!」


 その言葉は、剣より深く刺さった。


 エイベルは膝をついた。


「聞いてください」

「話を、お願いします……!!」


「聞くことなどない!!」


 アルフレッドの怒号が、雨の中で響いた。


「お前は守れなかった!!」

「それに理由などいらない!!」

「たとえどんな理由があっても、我々はお前を許すことはない!!」


「許されようなどとは思っていません!!」


 エイベルは叫んだ。


 声が割れた。

 喉が痛んだ。

 それでも、叫ぶしかなかった。


「全て、全て私の責任です……!!」

「研究も、守れなかったことも、何もかも私の責任です!!」


 雨が髪を濡らし、額から頬へ流れていく。


「ただ、ミアは生きているかもしれないんです!!」

「力を貸してください!!」


 エイベルは頭を下げた。


 泥水に膝を沈める。

 両手を石畳につく。

 額を、地面へ擦りつける。


「リンドベル家の力が必要なんです」

「もう私には、何も残っていないから……!!」


 雨水が口に入る。

 泥の匂いがする。

 それでも頭を上げなかった。


「お願いします」

「お願いします……」

「ミアを探す力を、貸してください……!!」


 屋敷の方から、小さな嗚咽が聞こえた。


 マリアンヌが立っていた。


 薄い肩掛けを羽織ったまま、雨の中へ出てきていた。

 顔は青白く、目は泣き腫れている。

 エイベルを見ると、その場に崩れ落ちそうになった。


「もうやめて」


 その声は、ほとんど悲鳴だった。


「お願いだから、やめて……」

「あなたも……もう……」


「駄目だ」


 アルフレッドは振り返らなかった。


「こいつには」

「こいつ以外に、私は誰を憎めというのだ!!」


 マリアンヌが口元を押さえる。


「最愛の娘を失った」

「孫も!!」


 アルフレッドの声が、そこで一度詰まった。


「そして、息子もだ!!」


 マリアンヌが声を上げて崩れた。


 執事が慌てて支える。


 エイベルは、顔を上げられなかった。


 息子。


 かつて、この家は確かにそう扱ってくれていた。

 家柄のないエイベルを、クラリスの夫として。

 ミアの父として。

 この家に連なる者として。


 その場所すら、もう失われた。


「ミアが生きているなどと言うな」


 アルフレッドの声は、さっきより低くなっていた。


「もう私たちは耐えられない」

「希望にすら、耐えられないんだ」


 エイベルは、何も言えなかった。


 希望。


 自分にとって最後の光だったものが、この人たちにとっては刃だった。


「出ていけ」


 アルフレッドは言った。


「二度と顔を見せるな」


 雨が、門の鉄柵を叩く。


 アルフレッドは、最後に名前を呼んだ。


「エイベル・クロウ!!」


 その声は、絶縁だった。


 かつて、エイベル・クロウ・リンドベルでもいいと笑っていた男が。

 今、エイベル・クロウと呼び、はっきりと線を引いた。


 アルフレッドはマリアンヌを支え、屋敷の奥へ戻っていく。


 執事は、エイベルへ深く一礼した。


「……どうか、お引き取りください」


 そして、門が閉まった。


 鉄の音がした。


 エイベルは雨の中で、しばらく動けなかった。


 何も言えなかった。

 何も言い返せなかった。


 ご両親は耐えられなかったのだ。


 残酷な希望を見せて。

 もう一度地獄へ落としたら、どうなる。


 クラリスとミアの愛した二人まで、壊れてしまう。


 関わる者を不幸にする疫病神。


 きっと、そうだ。


 私は、関わる全てを傷つけてしまう。


 リディアを泣かせた。

 クラリスの両親を壊した。

 ミアを守れなかった。

 クラリスを死なせた。

 研究は盗まれ、学生も、大学も、新聞も、騎士団も、ギルドも、誰もが少しずつ自分から離れていった。


 最後の希望も絶たれた。


 誰も手伝ってくれない。

 誰も手を差し伸べてくれない。


 違う。


 手を伸ばせば、その手を取った者も壊れてしまうのだ。


「そうか」


 エイベルは呟いた。


「壊れてしまうのか……」


 雨が、頬を打つ。


「壊したくないな」


 大切だった人たちを。


 きっと世の中は狂っている。


 狂わないと、壊れてしまう。

 自分に嘘をついて、理由をつけて、目を逸らして、世の中の不条理を闇の底へ押しやって。


 それで、自分が壊れないようにする。


 正しい。

 正しくない。


 どちらでもいい。


 そう。


 私は、壊れていいからだ。


 私は、私を壊すことを厭わない。


 エイベルはゆっくりと立ち上がった。


 足元がふらつく。

 膝は泥に濡れている。

 額にも、手にも、雨と泥がついている。


 だが、目だけは静かだった。


 真空とは、圧力差。


 空気の圧縮率の違いだ。


 高い圧と低い圧。

 満ちた場所と、失われた場所。

 押し潰そうとするものと、空洞になったもの。


 その差が、流れを生む。

 その差が、風を生む。

 その差が、刃より鋭く世界を裂く。


 世界と私の間には、今、真空ができている。


 クラリスのいた場所が空いている。

 ミアのいた場所が空いている。

 家も、研究も、名誉も、居場所も、名前も。

 全部、抜け落ちた。


 空洞だ。


 ならば、世界はそこへ流れ込もうとする。

 押し潰そうとする。

 形を整えようとする。

 なかったことにしようとする。


 だが、私の心は、とっくに割れてしまっていた。


 ならばもう、取り繕う必要はない。


 私の手で、ミアを探し出す。


 その障害となる全てを。


 私の真空で、切り刻めばいい。


 エイベルは、ふっと息を吐いた。


「なんだ」


 口元に、笑みが浮かぶ。


「簡単な話だったじゃないですか」


 土砂降りの中、エイベルはもう一度歩き出した。


 誰かに助けを求めるためではない。


 誰にも、助けを求めないために。


 ひと月が経った。


 大学で、エイベル・クロウの名を聞くことは少なくなった。


 講義室では、もう次の話題が話されている。

 新聞では、ハロルド・メイザーの新理論が何度も取り上げられている。

 商会も、軍も、教会も、新しい魔力触媒理論がもたらす未来に色めき立っていた。


 若き新星エイベル・クロウ。


 その名前は、いつの間にか紙面の端からも消えていた。


 王立大学が用意した宿は、古かった。

 けれど、隅々まで丁寧に手入れされていた。


 廊下の床は毎朝磨かれ、階段の手すりには埃がない。

 窓枠は少し歪んでいるが、硝子は綺麗に拭かれている。

 古い木材の匂いと、煮込んだ豆の匂いが、建物の中に薄く満ちていた。


 エントランス横の小さな食堂で、エイベルは夕食を取っていた。


 硬いパン。

 豆のスープ。

 少し塩気のある干し肉。

 温かい湯。


 豪華な食事ではない。


 けれどエイベルは、パンを小さく割り、スープに浸し、ゆっくりと口へ運んだ。

 豆を一粒も残さず、器の底まで丁寧に掬う。

 干し肉も、最後の一切れまで綺麗に食べた。


 食器を揃え、布で口元を押さえる。


「美味しいですね。ここの食事は」


 奥から、宿主の声が聞こえた。


「そうかい? いつも豆ひとつ残さず食べてくれるから嬉しいよ」


「料理は、作った方の心が出ますから」


 エイベルは微笑んだ。


「とても温かい味です」


「へへ、嬉しいこと言ってくれるねぇ」


 宿主は、照れくさそうに笑った。


 エイベルは椅子を戻し、食器を軽く重ねた。


「ごちそうさまでした」


「あいよ。足りなかったら言うんだよ」


「十分です。いつもありがとうございます」


 エイベルは丁寧に頭を下げ、食堂を出た。


 自室へ戻る。


 部屋は狭い。

 寝台と机、椅子、小さな鏡、衣装箱。

 それだけでほとんど埋まっている。


 けれど、散らかってはいなかった。


 机の上には紙が数枚。

 折り畳まれた衣服。

 丁寧に磨かれた靴。

 そして、小さな箱。


 エイベルは鏡の前に立った。


 髪を櫛で整える。


 かつての黒髪ではない。

 綺麗な金髪に染められていた。


 クラリスの髪に似た色。

 ミアの髪に似た色。


 けれど、鏡の中の男はクラリスではない。

 ミアでもない。

 エイベル・クロウでもないように見えた。


「……別人になるには、ちょうどいい」


 呟きは、部屋の中に落ちた。


 髪を整え終えると、エイベルは白い手袋を手に取った。


 右手の皮膚は、まだ完全には戻っていない。

 看板を殴りつけた時に破れた皮膚が、薄く張り直している。

 触れれば少し痛む。


 エイベルはその上から、白い手袋を丁寧に被せた。


 皺が寄らないように、指先を一本ずつ整える。


 左手も同じように。


 次に、ネクタイを結ぶ。


 黒地に、銀の細いラインが入ったネクタイ。


 ミアのお気に入りだった。


 以前、それを身につけて大学へ向かおうとした時、ミアは小さな手でネクタイを指差して言った。


 パパ、それかっこいい。


 エイベルは少しだけ目を閉じた。


 それから、結び目を整える。


 外套を羽織る。


 皺ひとつない。

 汚れもない。

 雨に濡れないよう、防水の魔法処理も薄くかけてある。


 鏡の中の男は、礼儀正しく、清潔で、穏やかに見えた。


 エイベルは微笑んだ。


 ちゃんと笑えている。


 それを確認してから、部屋を出た。


 階下に降りると、エントランスで宿主が顔を上げた。


 痩せた、白髪混じりの男だった。

 背はあまり高くない。

 けれど、目は穏やかで、いつも客の靴の泥まで気にしているような人だった。


「出るのかい?」


「ええ」


 エイベルは微笑んだ。


「少しだけ、風を浴びてきます」


「夕食の後の散歩はいいが、最近街は物騒だからよ」

「あんまり遅くなるんじゃないぞ」


「いつもありがとうございます」

「ご心配をおかけいたします」


「いや……いいんだ」


 宿主は少し言葉を探した。


 けれど、結局いつものように言った。


「行ってらっしゃい」


「はい。では」


 エイベルは軽く頭を下げ、宿を出た。


 扉が閉まる。


 奥から、恰幅のいい妻が顔を出した。


「あんなことがあったらね……外にも出たいさ」


「ばか」


 宿主は小さく眉をひそめた。


「そんなふうにクロウさんを見るな」

「あんなに出来た人だぞ」

「私たちは、美味い豆のスープを出せばいいんだ」


「あんた、家庭料理しか作れないじゃない」

「たまにはいいもの出してやりなさいよ」


「これがいいって言うんだよ! クロウさんが!」


「いいわけじゃないかい?」

「大学からあんなに貰ってるのに」


「お前の飯代になってるんだよ……」


「なんだって?」


「なんでもない」


 宿の中では、そんな声が続いていた。


 エイベルはもう聞いていなかった。


 雨は止んでいた。


 繁華街には人が溢れている。


 傘を閉じる者。

 外套の雫を払う者。

 酒場へ急ぐ者。

 店先で値段を交渉する者。

 笑う者。

 怒鳴る者。

 濡れた石畳を荷車が軋ませていく。


 エイベルの足取りは軽かった。


 姿勢は真っ直ぐで、外套の裾も乱れない。

 雨上がりの街を歩いているのに、どこか講義室へ向かう時のような品があった。


 その背中に、声がかかった。


「エイベル・クロウ教授……ですか?」


 エイベルは足を止め、振り返った。


 そこに、リディア・フォルムが立っていた。

 隣には、いつもの友人がいる。


 リディアは、以前より少しやつれて見えた。

 目元に迷いがあり、唇を結んでいる。


 友人の方は、リディアを守るように半歩前に立っていた。


「これはこれは」


 エイベルは穏やかに微笑んだ。


「お久しぶりですね」


「クロウ教授……」


 リディアは、恐る恐る声を出した。


「大学は、休職しているって聞いてます」


「そうです」

「しばらくは療養をいただきます」

「お二人ともお元気そうで何よりです」

「学院は順調ですか?」


「はい……」


 リディアの顔が曇る。


 代わりに、友人が口を開いた。


「クロウ教授は、なんか雰囲気変わりましたね」

「髪も染めてるし……なんだか、元気になった気がします!」


「そうですね」


 エイベルは、自分の金髪に軽く触れた。


「別人になろうと思いまして、染めてみました」


「似合ってますよ! ね、リディア」


「……うん」


 リディアは小さく頷いた。


 けれど、その声には少しも明るさがなかった。


 エイベルは二人を見た。


「お二人とも、夜は物騒になりますので、あまり遅くならないように家にお帰りください」

「ご両親に心配をかけてはいけませんよ」


「分かりました」

「ありがとうございます」


 友人が答える。


 リディアは、まだエイベルを見ていた。


 何かを言いたそうにしている。

 けれど、言えない。


 エイベルは軽く頭を下げた。


「では、また」


 そして歩き出す。


 背中に、二人の視線が残る。


 友人が、小さく言った。


「なんか雰囲気変わったけど……元気そうだったね」

「思ったより普通というか」


 返事はない。


「リディア?」


 リディアの頬を、一筋だけ涙が伝った。


「全然普通じゃないよ」


 声は震えていた。


「もう、壊れてる」


 友人は、何も言えなかった。


 エイベルは繁華街を抜けた。


 表通りの灯りが、だんだん遠くなる。

 酒場の声も、荷車の音も、雨上がりの夜気に混ざって薄くなっていく。


 路地を曲がる。

 もう一つ曲がる。

 石壁の古い倉庫が並ぶ区画へ入る。


 そこは暗かった。


 魔灯が、壁際で薄く光っている。

 湿った石と黴の匂い。

 雨水が排水溝を流れる音。

 遠くで鼠が走るような気配。


 エイベルは、一つの倉庫の前で足を止めた。


 鍵穴に指を添える。


 風が、ほんの少しだけ流れた。


 かちり、と音がする。


 扉が開いた。


 中は、薄暗かった。


 石壁に囲まれた倉庫。

 天井から吊るされた魔灯が、青白く揺れている。

 床には古い木箱。

 その中央に、椅子が三つ。


 二つには男が縛られていた。


 一つは、すでに空だった。


 いや、空ではない。


 椅子の周囲に、赤黒いものが散っている。

 床には血が流れ、石の隙間へゆっくり染み込んでいた。


 縛られた男の一人が、エイベルを見るなり喉を鳴らした。


「ひっ……」


 もう一人は猿轡を噛まされ、目だけを見開いている。


 エイベルは外套の雨粒を軽く払った。


 それから、白い手袋の指先を確認する。


 汚れていない。


 よかった。


 ミアのお気に入りだったネクタイも、外套も、まだ綺麗なままだ。


 エイベルは椅子の前に立った。


「質問を続けます」


 声は穏やかだった。


 講義室で、学生に問いを投げる時と同じ声だった。


「小さな女の子なんです」

「六歳で、淡い金髪で、淡い茶色の目をしています」

「折り紙が好きで」

「猫を折るのが、少し下手で」


 縛られた男の息が荒くなる。


「名前は、ミア・クロウ」

「どこへ運ばれましたか」


「し、知らねぇ……」

「本当に知らねぇんだよ……!」


「そうですか」


 エイベルは少しだけ首を傾げた。


「では、誰が知っていますか」


「知らねぇって言ってんだろ!!」

「狂ってんのか、お前!?」

「そんなガキ、俺は知らねぇ!!」


 エイベルの表情は変わらなかった。


 怒りもない。

 悲しみもない。

 失望すら、薄かった。


「そうですか」


 エイベルは、少しだけ残念そうに目を伏せた。


「では、あなたではなかった」


 白い手袋の指先が、横へ流れた。


 風は吹かなかった。


 ただ、倉庫の中の空気が、一瞬だけ薄く鳴った。


 男の体を通る空気の圧が、狂う。


 次の瞬間、男の体が椅子ごと崩れた。


 切り刻まれた肉片が床へ落ちる音だけが、湿った倉庫に響く。


 血が広がる。


 悲鳴は、もうなかった。


 エイベルは、白い手袋の指先を見た。


 汚れていない。


 それから、隣の椅子に縛られた男へ視線を向ける。


 男は目を見開き、猿轡の奥で何かを叫んでいた。


 エイベルは、丁寧に微笑んだ。


「次は、あなたに聞きますね」


 魔灯が、薄く揺れる。


「小さな女の子なんです」


 男は、猿轡の奥で必死に何かを叫んでいた。


 エイベルはしばらく耳を傾けるように首を傾げた。


「……そうですか」


 白い手袋の指先が、静かに動いた。


 倉庫の空気が、薄く鳴る。


 男の声は、途中で途切れた。


 エイベルは白い手袋の指先を見下ろす。


 汚れていない。


 それを確かめてから、外套の襟を整えた。


「今日は、もう一件回りますか」


 誰に言うでもなく、そう呟く。


 倉庫の扉を開けると、夜気が流れ込んできた。


 雨は、止んでいた。


 雲の切れ間から、大きな満月が出ている。

 濡れた石畳が、月明かりを白く返していた。


 エイベルは空を見上げる。


「今日は、立派な月が出ていますね」


 静かに微笑む。


「雨は、もう止んだみたいです」


 そう言って、エイベルは月明かりの下へ歩き出した。

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