番外編-8 弱き者の剣
法律相談所は、ごった返していた。
朝から来たはずだった。
けれど、渡された札の番号はなかなか呼ばれない。
椅子は埋まり、壁際にも人が立っている。
商会の契約書を握る男。
借金の紙を睨む老人。
濡れた外套のまま泣いている女。
誰かが怒鳴り、誰かが項垂れ、職員が淡々と次の番号を呼ぶ。
エイベルも、その中の一人だった。
妻を失ったことも。
娘が消えたことも。
研究を盗まれたことも。
ここでは、番号札一枚分の重さしかなかった。
雨音が、窓を叩いている。
エイベルは胸元に手を当てた。
狼のお守りがある。
ミアが、パパのお守りだと言って渡してくれたもの。
濡らしてはいけない。
壊してはいけない。
それだけを何度も確かめながら、エイベルは待った。
昼を過ぎた頃、ようやく番号が呼ばれた。
小さな相談室へ通される。
机の向こうには、痩せた相談員が座っていた。
目の下に疲れがあり、机の上には処理待ちの書類が積まれている。
「それで、ご相談内容は」
エイベルは、話した。
ハロルド・メイザーに研究を盗まれたこと。
自宅火災の日に金庫から資料だけが消えたこと。
数日後に、ハロルドが自分の理論を発表したこと。
新聞で自分が錯乱したように書かれたこと。
妻が死に、娘が行方不明になっていること。
ハロルドの家へ行き、突き飛ばされたこと。
そして、ハロルドが言った言葉。
あんな研究を、世に出さなければよかったな。
相談員は途中で何度か頷き、手元の紙に短く書き込んだ。
エイベルが話し終えると、相談員は紙を揃えた。
「法で裁くなら、証拠が必要です」
また、その言葉だった。
「だから、調べてほしいんです」
「調査はできます」
「ただし、手付金が必要です」
「手付金……」
「はい」
相談員は淡々と続けた。
「火災現場はすでに荒れています」
「金庫が開いていたことを証明できる第三者がいません」
「盗まれた資料の原本はない」
「ハロルド教授の研究があなたの研究に依拠したと証明するには、発表前の原稿、実験記録、証人が必要です」
「それが盗まれたんです」
「お気持ちは分かります」
「ですが、裁判ではそれを証明しなければなりません」
エイベルの指先が冷えていく。
「新聞記事についても、断定はしていません」
「夜間にハロルド教授宅へ訪ねたこと自体は、事実なのですね」
エイベルは、唇を噛んだ。
「……行きました」
「ならば、記事は完全な虚偽とは言えません」
「私は、暴れていません」
「突き飛ばされたのは私です」
「それを証明できる目撃者は?」
エイベルは黙った。
相談員は少しだけ目を伏せた。
「現時点では、訴訟は勧められません」
「では、私はどうすればいいんですか」
「証拠か、目撃者を探してください」
「それを探してもらうために来たんです」
「ですから、手付金が必要です」
言葉が輪のように戻ってくる。
証拠。
目撃者。
手付金。
証拠は盗まれた。
目撃者はいない。
金もない。
なら、どこへ行けばいい。
誰に言えばいい。
エイベルは立ち上がった。
「……分かりました」
相談員は小さく頭を下げた。
「お気持ちは、お察しします」
その言葉は、十数分の相談を閉じるための鍵だった。
外へ出ると、雨はまだ降っていた。
朝から待った。
昼を過ぎていた。
数時間待って、話したのは十数分。
エイベルの手には、何も増えていない。
ただ、言葉だけが増えた。
証拠。
目撃者。
手付金。
可能性は低い。
訴訟は勧められない。
大学の外には、まだ正義があるかもしれない。
そう思っていた。
けれど、法の扉には鍵がかかっていた。
その鍵の名前は、証拠と金だった。
次に、エイベルは騎士団詰所へ向かった。
石造りの建物の前で、騎士たちが雨に濡れた外套を払っている。
鎧の縁から雨粒が落ち、入口の床には濡れた足跡がいくつも重なっていた。
ここは、大学とは違う。
相談所とも違う。
剣がある。
法を執行する者たちがいる。
人を守るための力がある。
そう思いたかった。
受付で名を告げると、少し待たされた後、奥の小部屋へ通された。
担当に現れたのは、四十前後の騎士だった。
短く刈った髪。
雨に濡れた外套。
顔には疲れがあるが、目は真っ直ぐだった。
「エイベル・クロウ教授ですね」
「はい」
「火災の件で」
「妻を殺した犯人について、教えてください」
「娘はまだ見つかっていません」
「それに、家の金庫から資料だけが消えていました」
「ハロルド・メイザー教授の新理論は、私の資料なしでは成立しない」
「火を放った者と、資料を盗んだ者が繋がっている可能性があります」
「ハロルド教授と犯人の関係を調べてください」
騎士は、机の上の書類へ目を落とした。
「火災現場から、特殊な魔力痕跡が検出されています」
「特殊な……?」
「火刑のアレン」
「神教会過激派と繋がりがある重要指名手配犯です」
「魔力識別は、ほぼ一致している」
エイベルは息を呑んだ。
「……もう、犯人が分かっているんですか」
「断定ではありません」
「ですが、最有力です」
「現在、騎士団が調査中です」
「なら、なぜ私に知らせないんですか」
「ミアは」
「娘は、どこですか」
「アレンが連れ去った可能性は」
騎士は苦い顔をした。
「娘さんについては、現在も確認中です」
「ただ、火災の規模から見て……」
「ミアは死んでいません」
騎士は黙った。
否定はしなかった。
肯定もしなかった。
その沈黙が、エイベルにはひどく残酷だった。
「火刑のアレンと、ハロルド教授が繋がっている可能性があります」
「家が燃えた日に研究資料が消えました」
「その数日後に、ハロルド教授が私の理論を発表している」
「偶然ではありません」
「繋がっている証拠は?」
また、証拠。
エイベルの指が震えた。
「ありません」
「だから、調べてほしいんです」
騎士は真面目に頷いた。
「調べてはみます」
「ですが、ハロルド教授に関しては、まず騎士団の管轄ではありません」
「研究盗用は大学と学会、法の問題です」
「殺人、放火については我々の管轄ですが、ハロルド教授と火刑のアレンの関係を洗うには、具体的な接点が必要になります」
「犯人が分かっているなら、調べられるでしょう」
「なぜ、調べないんですか」
騎士の声が、少し低くなった。
「剣は、むやみに振るうものではありません」
エイベルは口を閉じた。
「火刑のアレンは、必ず討ち取ります」
「ですが、証拠もなく大学教授の家宅や交友関係を洗えば、それは騎士団による権力の乱用です」
「正義を名乗るなら、なおさら手順を踏まなければならない」
「では、私はどうすればいいんですか」
「アレンの行方はこちらで追います」
「娘さんについても、情報が入り次第連絡します」
「ハロルド教授については、大学と法へ」
「そこでは、何もしてもらえませんでした」
騎士は目を伏せた。
「お気の毒だとは思います」
「ですが、騎士団ができることにも限界があります」
限界。
その言葉で、また扉が閉じた。
「……分かりました」
エイベルは立ち上がった。
礼をしたのか、しなかったのか。
自分でも分からなかった。
扉を出る。
廊下を歩く。
雨に濡れた入口へ向かう。
背後で、若い騎士がぽつりと呟いた。
「この前の火災の……」
「あぁ。火刑のアレンの被害者だ」
担当騎士の声だった。
別の騎士が、苦い声で言う。
「可哀想に。あの火は何も残らない。奥さんの遺体が残っただけでも……」
「言うな」
担当騎士の声が、低く落ちた。
室内の空気が、わずかに締まる。
「我々は正義を執行する」
「必ず、アレンを裁く」
若い騎士は口を閉じた。
けれど、その不安そうな声だけが残った。
「とはいえ……火刑のアレンの尻尾を掴めたことは、一度もありません」
担当騎士は答えなかった。
雨が、詰所の窓を叩いている。
火刑のアレン。
火を残し、灰を残し、遺族だけを残して消える男。
正義は、剣を持っていた。
だが、その剣はまだ、振るう相手の影すら捉えていなかった。
エイベルは詰所を出た。
騎士は、悪人ではなかった。
きっと本気でアレンを追っている。
きっと本気で裁こうとしている。
だからこそ、怒りの向け場所がなかった。
クラリスを殺した者。
ミアを奪った者。
研究を盗んだ者。
自分の人生を灰にした者。
それらは、エイベルの中では一本の線で繋がっている。
けれど、騎士団の書類の中では、別々の事件だった。
雨は、まだ降っている。
次に、エイベルは新聞社へ向かった。
新聞社は、雨の中でも騒がしかった。
濡れた配達員が出入りし、床には泥の跡が伸びている。
机の上には紙束が積まれ、壁には締切時刻を書いた板が掛けられていた。
誰かが怒鳴る。
誰かが笑う。
印刷機の低い音が、建物の奥から絶えず響いている。
ここなら。
エイベルは濡れた外套を握った。
ここなら、真実を世に出せるかもしれない。
応対した記者は、四十前後の男だった。
無精髭を生やし、袖をまくり、片手に鉛筆を持っている。
目だけはよく動く男だった。
「なるほどねぇ」
記者はエイベルの話を最後まで聞いたあと、椅子の背にもたれた。
「本当なら面白いが……」
「本当です」
エイベルはすぐに言った。
「ハロルド教授の研究は、私の研究なしでは成立しません」
「資料は火事の日に消えました」
「大学は調査しません」
「法も、証拠がないと言います」
「騎士団も、管轄ではないと」
息が乱れる。
「なら、せめて世に知らせてください」
「民意なら、動かせるかもしれない」
記者は、鉛筆の先で机を軽く叩いた。
「気の毒に思うが、ガセは書けねぇ」
「ガセではありません」
「真実です」
「証拠のない真実も、新聞じゃガセだよ」
エイベルの言葉が止まった。
記者は続けた。
「それに、そんな記事を出したところで誰が買うんだ」
「世の中は新技術で盛り上がってる」
「ハロルド・メイザーの新型魔力触媒理論」
「魔法を変える未来」
「軍も商会も、大学も教会も金を出す」
「読者が読みたいのは、そっちだ」
エイベルは、机の端を掴んだ。
「それは、私の……」
「分かってる」
記者は遮った。
「少なくとも、あんたはそう信じてる」
「だが紙面に載せるには足りない」
記者は少しだけ目を細めた。
「あんたには悪いが」
「今のあんたを切り抜くなら、悲劇の若き新星だ」
「神教会に家族を奪われ、失意に沈む天才教授」
「そっちの方が、よっぽど紙は売れる」
「そん、な……」
「もちろん、そんな記事は書かねぇ」
「気持ちは理解できるからだ」
記者は鉛筆を置いた。
「けど、世の中そんなもんだ」
「あんたの栄光も、しばらくしたらすっきり忘れる」
「その代わり、ハロルドの新技術は残る」
「人は、物語より便利な道具を覚える」
エイベルは何も言えなかった。
新聞社を出た。
通りでは、配達員が新聞を抱えて走っている。
軒先で新聞を広げた男が、誰かと笑いながら言った。
「すごい時代になるな」
きっと、ハロルドの記事を読んでいるのだろう。
エイベルは、その横を通り過ぎた。
真実を世に出す場所でも、真実は紙面に乗らなかった。
新聞に必要なのは、真実ではない。
売れる形をした真実だった。
雨が頬を濡らす。
大学は駄目だった。
法も駄目だった。
騎士団も駄目だった。
新聞も駄目だった。
真実は届かない。
正義はない。
名前は奪われた。
研究も奪われた。
クラリスは戻らない。
なら、もう。
もう、何をしても無駄なのではないか。
足が止まりかけた。
その時、胸元の狼のお守りに指が触れた。
ミア。
ミアは行方不明だ。
死んだと決まったわけではない。
研究を取り戻せなくても。
ハロルドを裁けなくても。
世間が忘れても。
ミアだけは、見つけなければならない。
エイベルは、冒険者ギルドへ向かった。
冒険者ギルドは、大学とも、法律相談所とも、新聞社とも違う匂いがした。
濡れた革鎧。
泥のついた靴。
剣油。
酒。
魔物の素材。
雨に濡れた外套。
壁には依頼書が貼られている。
護衛。
素材採取。
魔物討伐。
行方不明者捜索。
盗賊退治。
荷運び。
遺跡調査。
ここなら、人を探せるかもしれない。
受付の女が顔を上げた。
「ご依頼ですか」
「探してほしい人がいます」
受付は、エイベルの顔と身なりを見た。
ただの通常依頼ではないと判断したのだろう。
「緊急ですか?」
エイベルは、一瞬だけ詰まった。
火事から、もう何日も経っている。
ミアが今どこにいるのかも分からない。
何もかも、遅すぎるのかもしれない。
けれど、父親としては、今この瞬間も緊急だった。
「緊急です」
受付の顔つきが変わった。
「では、こちらへ」
奥へ通された。
そこにいたのは、大柄な男だった。
短く刈った髪。
分厚い首。
傷だらけの手。
片眉に古傷。
椅子に座っているだけで、部屋が少し狭く見える。
冒険者ギルド、ルヴェリア東支部長。
ガランド・ベルク。
その隣では、秘書らしき女が書類を広げていた。
「座れ」
ガランドの声は低かった。
エイベルは座った。
そして、話した。
娘のミアが行方不明であること。
自宅が火事になったこと。
妻クラリスは死亡したこと。
娘の遺体は見つかっていないこと。
神教会から脅迫を受けていたこと。
火刑のアレンの魔力識別が出たらしいこと。
騎士団は調査中だが、娘の捜索は進んでいないこと。
人攫い、神教会、闇商会が関わっているかもしれないこと。
ガランドは、最後まで黙って聞いた。
秘書は短く記録を取っている。
エイベルが話し終えると、ガランドは腕を組んだ。
「最後に娘さんを見たのは」
「火事の前です」
「連れ去られたところを見た者は」
「……いません」
「足跡は」
「分かりません」
「馬車の痕跡は」
「分かりません」
「目撃証言は」
「ありません」
「攫った組織名は」
「神教会か、闇商会か、人売りかもしれません」
「向かった方角は」
「分かりません」
「身代金要求は」
「ありません」
質問のたびに、エイベルの手が冷たくなる。
何も答えられない。
父親なのに。
ミアの父親なのに。
何も。
「娘さんが生きていると判断できる根拠は」
「遺体が、見つかっていません」
ガランドの目が、少しだけ細くなった。
「火災の規模によっては、遺体が残らないこともある」
「違います」
「ミアは死んでいません」
「可能性の話だ」
「死んでいません」
ガランドは、しばらくエイベルを見ていた。
それから、静かに言った。
「火刑のアレンは、冒険者ギルドの通常討伐対象ではない」
「なぜですか」
「人を殺したんでしょう」
「冒険者ギルドは、人を殺す組織じゃない」
エイベルは息を呑んだ。
ガランドは続けた。
「魔物を狩り、護衛をし、素材を集め、依頼を受ける」
「国に要請されて動くことはある」
「だが、指名手配犯の討伐は基本的に騎士団や治安組織の管轄だ」
「弱き者の剣ではないのですか」
「そうだ」
ガランドは即座に答えた。
「だからこそ、冷静で公平な視点がいる」
「各国の冒険者ギルドは、戦争に加担してはならない」
「中立でなければ、国境を越えて依頼を受けられない」
「弱き者の味方でいるために、国の剣にはなれない」
「ですが、ミアは……」
「人攫いから人を奪い返す依頼は、稀にある」
ガランドは低く言った。
「だが、その場合は痕跡がある」
「組織名」
「拠点」
「目撃者」
「馬車の行方」
「取引場所」
「少なくとも、追う線が必要だ」
エイベルは何も言えなかった。
「何も痕跡がないなら、手の打ちようがない」
「神教会は、ほとんど痕跡を残さない」
「残るのは魔力識別くらいだ」
「それも騎士団が握っているなら、俺たちが勝手に追えるものじゃねぇ」
「金なら」
エイベルは身を乗り出した。
「金なら、必ず用意します」
「研究が戻れば」
「大学が調査すれば」
「必ず」
「今、出せるものは」
エイベルは言葉に詰まった。
「……ありません」
「なら、正式依頼としては受けられない」
視界が、揺れた。
「娘の捜索は」
ガランドは少しだけ息を吐いた。
「金が続く限り、捜索を出すこと自体はできる」
「だが、はっきり言って無駄になる可能性が高い」
「うちでは受注しない」
「そんな……」
「もしその金があるなら、今後の自分のために使え」
「身なりを整えろ」
「大学に戻れ」
「未来を見ろ」
「未来……」
エイベルの口から、乾いた声が漏れた。
未来。
その言葉が、胸の奥に落ちた瞬間、何かが弾けた。
「未来なんていらない!!」
ガランドの目が鋭くなる。
「家族のいない未来なんて!!」
「そんなものいらない!!」
「探してください!!」
声がひび割れる。
「お願いします!」
「お願いします!!」
「お願いします!!!」
エイベルは机に手をついた。
「金は必ず用意します……!!」
「差し出せるものは全て差し出します!!」
「この命も!!」
ガランドの顔が変わった。
怒りだった。
「俺たちはその、命を守る者だと思っている」
低い声が、部屋の底を震わせた。
「軽々しく勝手に差し出すんじゃねぇよ」
「不愉快だ」
エイベルは唇を震わせた。
それでも、最後の声を絞り出した。
「……お願いします」
ガランドは目を伏せた。
苦い沈黙が落ちる。
それから、ガランドは言った。
「希望は持たせたくねぇ」
「出ていけ」
エイベルは、立ち上がれなかった。
秘書が静かに横へ来る。
「さあ、立てますか」
優しい声だった。
それが、ひどく痛かった。
エイベルはどうにか立ち上がった。
足元がふらつく。
秘書が支えようとしたが、エイベルは首を振った。
扉の外へ出る。
そして、扉が閉まった。
部屋の中で、秘書が小さく言った。
「良かったのですか」
「良かったわけねぇだろ」
ガランドの声は、低く濁っていた。
「はらわたが煮えくり返るくらい腹が立ちやがるぜ」
「火刑のアレン……協定がなけりゃ、追って切り伏せてやりてぇ」
拳が机の上で震えている。
「だが、俺たちは無法者じゃねぇ」
「弱き者の剣だ」
「その芯は、まっすぐじゃねぇといけないだろう」
「……そうですね」
「俺たちはまだ、守れないものばかりだ」
秘書は目を伏せた。
「私たちは完璧ではありません」
「ですが、救われるものもいます」
ガランドは、苦く笑った。
「……そう、思うしかねぇな」
エイベルは呆然としていた。
ギルドの外にいた。
いつ出たのか分からない。
雨が降っている。
人が歩いている。
馬車が通る。
冒険者たちが、笑いながら扉を開けて中へ入っていく。
最後の希望が絶たれた。
間違いなく。
「はは」
喉の奥から、声が漏れた。
「ははは……」
笑っているのか。
泣いているのか。
分からなかった。
「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!!」
叫びが、雨の通りに裂けた。
周囲がざわつく。
髪が乱れる。
濡れた前髪が額に張りつく。
どうでも良かった。
「正義はない」
「どこにもない」
「クソ!!」
通行人が足を止める。
「何が!!」
エイベルは、ギルドの看板へ歩いた。
「弱き者の剣だ!!」
拳を叩きつけた。
鈍い音がした。
もう一度。
もう一度。
「クソ!」
「クソ!!」
「クソ!!!」
手の皮がめくれる。
血が滲む。
雨で薄まった血が、看板に赤黒く広がる。
悲鳴が上がった。
「やめろ!」
「押さえろ!」
ギルドから数人が飛び出してきた。
エイベルの腕を掴む。
「触るな!!」
エイベルは力任せに振り払った。
かつてのエイベル・クロウの面影は、そこにはなかった。
目は血走り、頬はこけ、濡れた髪は乱れている。
穏やかに講義をしていた若き教授はいない。
学生に知識を開いていた優しい声もない。
あるのは、雨の中で血を流しながら看板を殴る、壊れかけた男だけだった。
看板が、音を立てて割れた。
その音を聞いた瞬間、エイベルの足から力が抜けた。
誰かに押されたわけでもない。
それなのに、エイベルは地面へ転がった。
雨の空が見えた。
「お前らは全員、嘘つきだ」
声が、喉の奥から漏れる。
「真実を見ようともせず」
「綺麗事を吐き」
「弱者を切り捨てる」
雨粒が、目に落ちる。
「この世界に正義も真実もない!!!」
涙が溢れていた。
怒りなのか。
虚しさなのか。
クラリスへなのか。
ミアへなのか。
もう何も分からなかった。
「消えろ」
「消えてくれ」
「死んでくれ」
自分の感情が、どうなっているのかも分からない。
ギルドの者たちは、それ以上近づかなかった。
ただ、哀れな人間を見るように、互いに目を合わせている。
エイベルは、そこでようやく雨に気づいた。
熱い頬を、雨が流れている。
雨だ。
ずっと雨だ。
もう、やむことはないのだろうか。
「クラリス」
「ミア」
声が、雨に溶けた。
「弱い男ですまない」
「何もしてあげられなくて」
「守ってあげられなくて」
「探してあげられなくて、すまない」
お前たちの元へ行きたい。
そう思った。
胸の奥が、ふっと軽くなった。
生きている保証なんてない。
ミアが生きていると信じていた最後の希望も、捨てた。
なぜなら。
この世界は何ひとつ、私の思い通りにはならないのだから。
私がおかしいのだ。
私が狂っている。
いや、狂っていないと保てなかった。
本当に娘は生きていると、思い続けるしかなかった。
「ミア」
「クラリス」
エイベルは、空を見上げた。
「そっちへ行ってもいいですか」
死のう。
そう思った。
耐えられない。
もう、耐えられないのだ。
エイベルは震える手で胸元を探った。
狼のお守り。
そして、くまにしか見えない猫の折り紙。
雨に濡れた空へ、二つの小さな紙を掲げる。
どう死のうか。
そう考えた時だった。
声が、聞こえた気がした。
約束だよ。
ミアの声。
宝物だから、外には持っていかない。
エイベルの指が止まった。
猫の折り紙は、庭に落ちていた。
家の中ではない。
焼けた部屋でもない。
灰の下でもない。
庭に、落ちていた。
なのに、燃えていなかった。
煤もついていなかった。
焦げ跡もなかった。
同じ形で、同じ色のままだった。
ミアが、約束を破ったのか。
「……そんなわけがない」
声が漏れた。
あの子は、約束を破らない。
あの子は、自分を裏切らない。
なら。
誰かが、外へ出した。
ミアが、外に出た。
あるいは、誰かがミアを連れ出した。
その途中で、これを落とした。
「生きているのですか」
雨が、紙を濡らしそうになる。
エイベルは慌てて二つを胸元へ戻した。
「ミア……」
確率は低い。
分かっている。
連れ去られた後に殺されているかもしれない。
もうどこにもいないかもしれない。
火事の中で何も残らなかっただけかもしれない。
それでも。
死体はなかった。
猫は、庭にあった。
約束は、破られていなかった。
もしミアが生きているのに、自分が諦めたら。
誰が助ける。
誰が探す。
誰が、あの子の名前を呼ぶ。
エイベルは、地面に手をついた。
指先が震える。
血の滲んだ拳に、雨水が混ざる。
体は重い。
心は、もうほとんど動かなかった。
それでも、立ち上がった。
もう一度だけ。
クラリスの両親なら。
アルフレッドとマリアンヌなら。
ミアは孫だ。
クラリスの娘だ。
あの二人なら、きっと動いてくれる。
自分ひとりでは無理でも。
リンドベル家なら。
あの家なら。
まだ、終わっていない。
エイベルは、猫の折り紙と狼のお守りを胸元へ戻した。
雨はまだ降っていた。
それでもエイベルは、歩き出した。
クラリスの実家、リンドベル家へ。




