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異世界転生した底辺盗賊の俺、悪名を喰らって悪の帝王へ成り上がる  作者: タクト
番外編 受け継がれる黒鋼の短剣

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番外編-7 閉ざされた扉



 朝の大学は、以前と同じ匂いがした。


 磨かれた床。

 古い本の紙。

 実験室からわずかに漏れる薬品の匂い。

 廊下を行き交う学生たちの足音。

 講義前のざわめき。


 何も変わっていない。


 そう思おうとした。


 けれど、変わっていた。


 学生たちの視線が、エイベルの上を滑る。

 すぐに逸れる。

 逸れた先で、小さな声が生まれる。


「クロウ教授だ」

「火事の……」

「新聞に出てた」

「ハロルド教授の家に押しかけたって」


 声は、雨よりも細かった。

 けれど、耳に残った。


 それでもエイベルは、足を止めなかった。


 学長室の扉は、相変わらず重かった。


 ノックをすると、中から静かな声がした。


「入りなさい」


 エイベルは扉を開けた。


 学長は机の向こうに座っていた。

 白髪混じりの髪を綺麗に撫でつけ、穏やかな顔をしている。

 その顔は、以前と変わらない。


 けれど、エイベルには、その穏やかさが遠く見えた。


「クロウ君」


 学長は椅子を示した。


「まずは座りなさい」

「君が大変な状況にあることは、大学としても理解している」


 エイベルは座らなかった。


「学長」

「ハロルド教授の発表した理論は、私の研究なしでは成立しません」


 学長の眉が、ほんのわずかに動いた。


「私の家が燃えた日に、金庫から研究資料だけが消えました」

「その数日後に、ハロルド教授が、私の理論と実験記録を使わなければ組めない研究を発表している」

「これは盗用です」

「大学として、調査してください」


 言葉は、思ったよりも真っ直ぐ出た。


 エイベルは、自分の中にまだ形が残っていることに、少しだけ安堵した。

 崩れていない。

 まだ、説明できる。

 まだ、順序立てて話せる。


 学長はしばらく黙っていた。


 それから、ゆっくりと口を開いた。


「証拠はあるのかね」


「……証拠?」


「金庫の中身が消えていたというのは、君の証言だけだ」

「火災で燃えた可能性もある」

「ハロルド教授の研究は、以前から進められていたものだ」

「大学として、根拠のない告発で名誉ある教授を傷つけるわけにはいかない」


 エイベルの喉が詰まった。


「根拠ならあります」

「あの理論は、私の圧力差式と、鉱石破砕実験の結果を知らなければ成立しません」

「魔石触媒工学だけでは、あの流路制御はできない」


「専門的な影響関係は、学会で議論されるべきことだ」

「だが、君がいま訴えているのは盗用だ」

「犯罪として扱うなら、証拠が必要になる」


 証拠。


 その言葉が、机の上に硬く置かれた。


「証拠は、盗まれたんです」


 エイベルの声が震えた。


「だから、調べてほしいと言っているんです」


 学長は、困ったように目を伏せた。


「クロウ君」

「君の良くない噂が広まっている」


 エイベルは顔を上げた。


「ハロルド教授の家を夜間に訪ね、怒鳴り込んだ」

「押し問答の末、暴れたとも聞いている」

「神教会にも目をつけられている」

「今の君は、大学にとっても少し危うい立場だ」


「暴れてはいません」


 エイベルは思わず言った。


「突き飛ばされたのは、私です」


「それを証明できるかね」


 何かが、胸の奥で音もなく落ちた。


 証明。


 また、それだった。


 クラリスが死んだことは証明される。

 ミアが見つからないことも記録される。

 火事が起きたことも、新聞に載る。

 エイベルがハロルドの家に行ったことも、証言になる。


 けれど、エイベルが突き飛ばされたことは証明できない。

 資料が盗まれたことも証明できない。

 名前を奪われたことも証明できない。


 胸を裂いているものだけが、いつも形を持たなかった。


 学長は静かに続けた。


「それに……その身なりでは、あまり大学内をうろつかない方がいい」

「学生たちも不安がる」


 エイベルは、そこで初めて自分の袖を見た。


 外套には、落としきれなかった泥の跡がある。

 袖口は擦れて、皺が深い。

 靴の先も汚れている。


 髪は整えたつもりだった。

 だが、窓硝子に映る姿は、かつて講義室に立っていた若き教授とは違っていた。


 頬がこけている。

 目の下には濃い隈がある。


 自分が、どんな姿で大学に来ているのか。


 今、初めて気づいた。


 そんなことを気にする余裕すら、なかったのだ。


 数日前まで、自分はこの大学で講義をしていた。

 学生たちは手を上げた。

 質問をした。

 笑いも起きた。

 リディアは目を輝かせて、魔力流体学が世界を変える可能性を語った。


 その場所で、今の自分は、うろつかない方がいい人間になっている。


「一年間は休職扱いにしよう」

「給与は最低限出す」

「住まいの件も、大学として多少の補助はできる」

「今は心を休めることが大事だ」


「私は金を求めているのではありません」


 声が、思ったより強く出た。


「休ませてほしいのでもありません」

「調査をしてほしいと言っているんです」


「今の君は冷静ではない」


 その言葉は、ハロルドの声と重なった。


 おかしい。

 冷静ではない。

 錯乱している。


 誰も、エイベルの話を否定しない。

 ただ、エイベル自身を遠ざける。


「正義は……」


 エイベルの声は、ひどく掠れていた。


「正義は、ないんですか?」


 学長は、しばらくエイベルを見ていた。


 責めるでもなく。

 怒るでもなく。

 ただ、疲れた者を見るような目だった。


「正義とは、誰から見た正義かね」


 エイベルは言葉を失った。


「君の正義は、大学を傷つけることか?」

「学会を混乱させることか?」

「神教会との関係を悪化させることか?」


「違います。私は、真実を……」


「ハロルド教授は素晴らしい人間だよ」


 学長は、静かに遮った。


「彼は新理論の収益の一部を、大学と教会へ寄付すると言っている」

「研究施設は増える。学生は救われる。貧しい術者への支援もできる」

「そう考えるならば、ハロルド教授は正義ではないのかね」


「……正義?」


「仮に、だ」


 学長は、そこで一度だけ声を低くした。


「仮に君の研究が、ハロルド教授の研究へ何らかの影響を与えていたとして」

「それでも、その研究が世のために使われるなら」

「君の研究もまた、正義の一部になっているとは思わないのかね」


 エイベルの指先が震えた。


 奪われたものが。

 踏みにじられたものが。

 名前を消されたものが。


 今、正義と呼ばれている。


 自分の研究が誰かを救う。

 それは、かつてエイベルが願ったことだった。


 魔力が弱い者でも。

 魔法をうまく扱えない者でも。

 少ない力で大きな結果を生めるなら。

 世界は少しだけ優しくなる。


 そう思っていた。


 けれど、その願いが、今は刃になって戻ってくる。


 お前の名前はいらない。

 お前の痛みはいらない。

 お前の家族はいらない。

 結果だけがあればいい。


 そう言われている気がした。


「妻と……」


 やっと出た声は、自分でも驚くほど小さかった。


「ミアは……」


 学長は目を伏せた。


「それは調査で、神教会の犯行で間違いないと見られている」


「……神教会」


「火刑のアレン。重要指名手配犯だ」

「現場に残った魔力識別が一致したらしい」

「まだ表には出ておらんがな」


 学長は、ゆっくりと言った。


「少なくとも、ハロルド教授はやっていない」


 エイベルは、口を開いた。


 だが、何も出なかった。


 証拠。

 正義。

 公益。

 寄付。

 神教会。

 火刑のアレン。


 言葉が、机の上で綺麗に並べられていく。


 そのどこにも、クラリスの声はなかった。

 ミアの手はなかった。

 猫の折り紙も、狼のお守りもなかった。


 あの日、家の前で熱に焼かれながら名前を叫んだ自分はいなかった。

 雨の中で泥に倒れ、胸を押さえて泣いた自分もいなかった。


 すべてが、誰かにとって都合のいい形に整えられていく。


 真実は、そこに入る隙間を与えられなかった。


「……もう、いいです」


 エイベルは立ち上がった。


「失礼します」


 学長は何も言わなかった。


 扉を閉める音だけが、妙に大きく響いた。


 研究室へ戻ると、薄く埃が積もっていた。


 しばらく使われていなかったせいだろう。

 机の端にも、椅子の背にも、本棚の隙間にも、細かな灰色が乗っている。


 ほんの数日前まで、ここは自分の場所だった。


 講義用の資料を広げた。

 実験計画を書いた。

 学生が質問に来た。

 リディアが勢いよく扉を開けて、友人に腕を引っ張られながら入ってきた。


 ここには未来があった。


 今は、少しだけ埃をかぶっている。


 エイベルは椅子に座った。


 木の軋む音がした。


 机の上に手を置く。

 指先に、薄い埃がつく。


 大学は調査しない。

 ハロルドは守られている。

 自分は休職扱いにされる。

 研究は正義の一部にされた。

 妻と娘は神教会の事件に並べられた。

 資料は証拠のない妄言になった。


 では、真実はどこへ行けばいい。


 どこへ持っていけば、形になる。


 考えようとした。


 けれど、頭の中に浮かぶのは、クラリスの手だった。

 ミアの笑い声だった。

 新聞の黒い文字だった。

 学長の穏やかな声だった。


 正義とは、誰から見た正義かね。


 扉が開いた。


「クロウ教授!」


 エイベルは顔を上げた。


 リディア・フォルムが立っていた。

 息を切らし、目を赤くして、それでもまっすぐこちらを見ている。

 隣には、いつもの友人がいた。


 リディアは一歩踏み込んだ。


「話は聞いてます! 新聞も見ました!」

「絶対おかしいです!」

「盗まれてます!」

「大学に再講義しましょう!」


「再審議ね」


 友人が静かに訂正した。


「そう、それです!」


 リディアは拳を握った。


「再審議してもらいましょう!」

「私たちも証言します!」

「実験の時、教授が何を説明していたか、私たちは覚えています!」

「鉱石を割った時の流れだって、手順だって、全部……!」


「君たちに出来ることはない!」


 声が、研究室に叩きつけられた。


 リディアが固まる。


 エイベル自身も、自分の声に驚いた。

 けれど止まらなかった。


「これ以上、関わらないでくれ」


 リディアの顔から血の気が引いていく。


 友人が、リディアを庇うように一歩前へ出た。


「クロウ教授」


 その声は震えていなかった。


「私たちは、ただ力になりたいだけです」

「リディアを遠ざけたい理由も分かります」

「これ以上、誰かを巻き込みたくないんですよね」


 友人は、エイベルの目を見た。


「でも、私たちはクロウ教授に正義があると理解しています」

「それじゃ、駄目ですか?」


 正義。


 また、その言葉だった。


 けれど、学長の声とは違った。

 紙の上で整えられた言葉ではない。

 利益や寄付や大学の未来を飾る言葉ではない。


 目の前の学生が、震えずに差し出している言葉だった。


 だからこそ、エイベルの胸が痛んだ。


「怖いんだ」


 エイベルは呟いた。


「私の大切なものが、また傷つくのが」


 リディアの目が揺れた。


「……すまない」

「私も、冷静ではなかった」


「クロウ教授」


 リディアは、少しだけ前に出た。


「私は、記事のこと信じてません」

「クロウ教授がハロルド教授のところへ行って、暴力を振るうなんて」


「行ったよ」


 リディアの言葉が止まった。


「……え」


「たしかに暴力は振るっていない」

「だが、行った」

「雨の夜に、ハロルド教授の家へ押しかけた」

「研究を盗んだのかと問い詰めた」

「二人を殺したのかとも聞いた」

「記事には、事実と一致するところもあるんだ」


 リディアは唇を開いた。

 けれど、すぐには言葉が出なかった。


「でも……それは」

「それだけ、追い詰められていたからで」

「クロウ教授が悪いわけじゃ……」


「私は君たちにも傷ついてほしくない」


「大丈夫です!」


 リディアは無理に笑おうとした。


「私たちだって……」


「私が傷つけたくないんだ!!」


 研究室が、凍りついた。


 埃が、光の中で静かに揺れている。


 エイベルは息を荒げていた。


 リディアの顔を見た。

 友人の顔を見た。


 まだ若い。

 まだ学生だ。

 研究を信じている。

 正義を信じている。

 努力が報われる世界を信じている。

 学問が真実へ届くと信じている。


 あの日までの、自分のように。


「はっきり言う」

「君たちに出来ることはない」


 リディアの目に、涙が溜まった。


「これは実験じゃない」

「課題でも、学生のお遊びでもない」

「失敗したら、次の手順を試せるものじゃない」


 声が震えた。


 怒りではなかった。

 恐怖だった。


 自分の周りにいた者が、また奪われることへの恐怖だった。


「それが現実なんだ!!」


 言い切った瞬間、エイベルの胸が痛んだ。


 リディアが泣きそうな顔をしている。

 友人が拳を握っている。

 それでも、二人とも逃げなかった。


 だから余計に、突き放さなければならなかった。


「もう一度言う」


 エイベルは声を落とした。


「君たちに出来ることはない」

「……もう、関わらないでくれ」


 リディアが、何かを言おうとした。


 エイベルは見なかった。


 見てしまえば、きっと止まる。

 言葉を撤回してしまう。

 助けてほしいと、縋ってしまう。


 だから、扉へ向かった。


「クロウ教授……!」


 リディアの声が背中に刺さる。


 エイベルは振り返らなかった。


 研究室を出る。

 扉を閉める。


 その向こうで、リディアが泣き崩れる音がした。


「わた、私だって……何かしたい」


 声は、扉を越えて聞こえた。


「出来ることがないのなんて、分かってるよ」

「学生だもん」

「まだ、先生みたいに論文も書けないし」

「大人みたいに、誰かを動かす力もないし」

「怖い人たちに睨まれたら、きっと何もできないのも分かってる」


 リディアの声が、途中でしゃくり上げた。


「でも……でもさぁ……」

「何もできないからって、何も思ってないわけじゃないじゃん……!」


 エイベルの足が止まりかけた。


「せめて、傍にいてあげたいじゃん……!」

「ひとりで泣いてほしくないじゃん……!」

「間違ってないって、言ってあげたいじゃん……!」


 扉の向こうで、友人がリディアを抱きしめる気配がした。


「だって、好きなんだもん」

「大好きなんだもん……!」


 その声は、恋の告白というにはあまりにもぐしゃぐしゃだった。

 憧れも、尊敬も、悔しさも、無力さも、全部混ざっていた。


「先生が言ってたんだよ……」

「魔法は、生まれつきだけじゃないって」

「流れを知れば、変えられるって」

「だったら、先生のことだって……」

「こんなのおかしいって、私たちが言えば……少しは、何か……」


 言葉が涙に崩れる。


「信じてるから」

「信じてるからじゃん……!!」


 友人の声は聞こえなかった。


 慰める言葉も。

 大丈夫だという嘘も。


 ただ、誰かを抱きしめる衣擦れの音だけが、扉の向こうで小さく鳴った。


 エイベルは歩いた。


 一歩。

 また一歩。


 大学の廊下は、以前と同じ長さだった。


 けれど、出口までがひどく遠かった。


 背後ではまだ、リディアの泣き声が聞こえている。


 戻れ。


 胸の奥で、何かがそう叫んだ。


 戻って、謝れ。

 助けてくれと言え。

 信じてくれてありがとうと言え。


 けれど、エイベルは振り返らなかった。


 振り返れば、きっと縋ってしまう。

 縋れば、あの二人まで同じ火の中へ引きずり込む。


 廊下の先で、学生たちが道を空けた。


 誰も声をかけなかった。

 誰も目を合わせなかった。


 ただ、小さな囁きだけが、靴音の隙間に落ちていく。


「リディア、泣いてた……?」

「クロウ教授が?」

「やっぱり新聞の……」


 エイベルは歩き続けた。


 大学の門を出る。


 雨は、まだ降っていた。


 火事の夜から、ずっと降り続いているような気がした。

 空が晴れた日もあったのかもしれない。

 けれど、エイベルの中では、あの夜から何ひとつ乾いていなかった。


 学問は、真実へ届くものだと思っていた。


 けれど、大学は扉を閉ざした。


 なら、外だ。


 大学の外には、まだ正義があるかもしれない。


 法がある。

 騎士団がある。

 新聞がある。

 人を探す者たちもいる。


 まだ、終わっていない。


 エイベルは胸元に手を当てた。


 猫の折り紙と、狼のお守り。

 雨に濡らしてはいけない、小さな重み。


 それだけが、足を前へ出させた。

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