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異世界転生した底辺盗賊の俺、悪名を喰らって悪の帝王へ成り上がる  作者: タクト
番外編 受け継がれる黒鋼の短剣

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番外編-6 盗まれた風



 金庫は、開いていた。


 焼けた書斎の奥。

 壁際に残った耐火金庫の扉が、わずかに口を開けている。


 エイベルは、しばらくそれを見つめていた。


 火の熱で歪んだのだと、思おうとした。

 炎に焼かれ、金具が壊れ、偶然開いたのだと。


 だが、鍵穴は壊れていない。

 扉も、無理やりこじ開けられたようには見えない。

 耐火処理を施した金庫は、煤をかぶって黒ずんでいるだけで、原形を保っていた。


 まるで、鍵を知っている者が、当たり前のように開けた後だった。


 エイベルは震える手で扉に触れた。

 金属はまだ少し熱を持っている。

 指先が痛んだ。

 それでも引いた。


 中は、空だった。


 学会用の草稿。

 実験記録。

 魔力量測定。

 鉱石の割れ方を記録した紙。

 圧力差と魔力流路の計算式。

 スポンサー候補の名簿。


 そこにあるはずだったものは、何ひとつ残っていない。


 燃えたのではない。

 灰すらない。


 エイベルは金庫の前に膝をついた。


「……ない」


 声が、焼けた書斎の中に落ちた。


 家は燃えた。

 クラリスは見つかった。

 ミアは、まだ見つかっていない。

 それだけで、もう世界は終わっていたはずだった。


 なのに。


 研究資料だけが、消えている。


 誰かが、持ち出した。


 神教会か。

 火を放った者か。

 それとも。


 そこまで考えた時、一人の顔が浮かんだ。


 ハロルド・メイザー。


 次の瞬間、エイベルは立ち上がっていた。


 夜は、土砂降りだった。


 雨が石畳を叩き、街灯の明かりを滲ませている。

 水は靴の中まで入り、外套は重く肌に貼りついた。

 髪から落ちる雫が、頬を伝う涙と混ざる。


 それでもエイベルは歩いた。


 胸元には、二つの小さな紙がある。


 焼け跡の庭に落ちていた、くまにしか見えない猫の折り紙。

 そして、ミアが渡してくれた狼のお守り。


 パパのお守り。


 ミアはそう言って、得意そうに笑っていた。


 エイベルは何度も胸を押さえた。

 濡らしてはいけない。

 壊してはいけない。


 もう、それしか守れなかった。


 ハロルド・メイザーの家は、教授の家らしく立派だった。


 雨に濡れた門の奥。

 窓には暖かい灯りがともっている。

 人の暮らしの気配がある。

 誰かが食器を置く音。

 誰かが歩く足音。

 家族のいる家の音。


 エイベルは扉を叩いた。


「開けてください!!」


 返事はない。


 もう一度叩く。


「ハロルド教授!!」

「話があります!!」


 雨音の中で、しばらく待った。


 やがて、扉が開いた。


 ハロルド・メイザーが立っていた。


 寝間着の上に羽織をかけている。

 髪は整っておらず、明らかに不快そうだった。

 それでも表情だけは、同僚を気遣う教授の顔をしていた。


「……クロウ君」


 ハロルドは眉をひそめる。


「家族がいるんだ。こんな時間に来られると困る」


 エイベルは雨に打たれながら、彼を見た。


「研究資料が消えていました」

「……何?」


「金庫が開いていたんです」

「燃えたんじゃない。灰も残っていない」

「誰かが持ち出したんです」


 ハロルドの目が、わずかに細くなった。


「それで、なぜ私の家に来る」


 エイベルは、声を絞り出した。


「あなたですか」

「私の研究を盗んだのは、あなたですか」


 ハロルドは、ゆっくりと息を吐いた。


「何を言っている」


「火事が起きた日に」

「クラリスが死んだ日に」

「ミアが消えた日に」

「金庫だけが開いて、資料だけが消えていた」


 雨が強くなる。


 エイベルの声も、雨に負けないように少しずつ荒くなる。


「あなたは、あの研究を欲しがっていた」

「魔石触媒工学と組み合わせれば、もっと大きな成果になると」

「商会も軍も注目すると」

「あなたが、盗んだんですか」


 ハロルドは答えなかった。


 その沈黙が、エイベルの中で膨らんだ。


 言ってはいけない言葉が、喉まで上がってくる。

 証拠はない。

 何もない。

 けれど止められなかった。


「あなたが……二人を殺したんですか」


 ハロルドの表情が変わった。


 怒りではない。

 焦りでもない。


 呆れたような、憐れむような顔だった。


「……まさか」

「そんなわけがないだろう」


「では、なぜ資料がないんですか」


「君は疲れている」


 ハロルドは静かに言った。


「奥方を亡くしたばかりだ」

「娘さんも……」


「ミアは死んでいません」


 エイベルは即座に遮った。


「まだ、見つかっていないだけです」


 ハロルドは少しだけ黙った。


 そして、同情めいた顔をした。


「そうか」

「だが、いまの君はおかしい」


 おかしい。


 その言葉が、雨より冷たく胸に刺さった。


「冷静ではない」

「こんな夜に、同僚の家へ押しかけて」

「研究を盗んだだの、人を殺しただの」

「普通ではないよ」


「なら、金庫はなぜ開いていたんですか」

「資料はどこへ消えたんですか」

「なぜ、私の資料だけが灰も残さず消えたんですか」


「私に分かるはずがない」


 ハロルドの声は、少しずつ冷たくなっていく。


「神教会に狙われていたんだろう」

「君の研究は、商会にも軍にも注目されていた」

「敵はいくらでもいる」

「それを私だと決めつける方が、おかしい」


 おかしい。


 また、その言葉だった。


 エイベルは一歩踏み出した。


「資料を返してください」

「お願いします」

「あれは、私の研究です」

「クラリスが……ミアが……」


 言葉が崩れた。


 自分でも、何を言おうとしているのか分からなくなった。


 ハロルドは扉に手をかけ、声を低くした。


「これ以上騒ぐなら、衛兵を呼ぶ」


 エイベルは固まった。


「妻子を亡くし、錯乱した教授が、同僚の家へ押しかけている」

「そう見られて困るのは、君だ」


 雨音が遠くなった。


 自分が何をしているのか。

 どこに立っているのか。

 一瞬、分からなくなった。


 エイベルは、それでも手を伸ばした。


「あなたしかいないんです」

「私には、あなたしか……」


「いい加減にしろ」


 ハロルドが、エイベルを突き飛ばした。


 足が滑る。

 体が傾く。

 エイベルは泥水の中へ倒れた。


 冷たい水が服に染み込む。

 泥が手につく。

 胸元だけを守るように、無意識に体を丸めた。


 ハロルドは扉の前から見下ろしていた。


 そして、鼻で笑った。


「あんな研究を、世に出さなければよかったな」


 扉が閉まった。


 雨だけが残った。


 エイベルは、泥の中で動けなかった。


 あんな研究を、世に出さなければよかった。


 その言葉が、頭の中で何度も鳴る。


 私がおかしいのか。


 二人を失って、おかしくなったのは、私だったのか。


 本当に資料は燃え尽きていた。

 それなのに私は、世迷い言を吐いて、ハロルド教授の家へ押しかけている。


 そういうことなのか。


 エイベルは泥に濡れた指を見た。


 資料は大事だった。

 確かに、大事だった。


 だが、家族ほどではない。


 なのに私は、なぜ資料を返してくれと言った。


 なぜ、二人を返してくれと言わなかった。


 確証がなかったからか。

 ハロルド教授が二人を殺したと、まだ言い切れなかったからか。


 では、私は何をしに来た。


 資料を取り戻しに来たのか。

 妻と娘を殺した者を探しに来たのか。


 なぜ。


 なぜだ。


 なんで。


 おかしいのは、私なのか。


 胸元に手を当てる。


 そこには、猫の折り紙がある。

 狼のお守りがある。


 ミアの手が作ったもの。

 ミアの声が残ったもの。

 ミアが、パパを守ると言ってくれたもの。


 涙が溢れた。


 雨に混ざって、どこへ流れたのかも分からない。

 それでも、胸の奥だけがぐちゃぐちゃに裂けていく。


「クラリス」


 声が震えた。


「ミア」


 泥水の中で、エイベルは胸を押さえたまま泣いた。


「もう一度だけでいい」


 雨が、背中を叩く。


「抱かせてください」


 返事はなかった。


 数日後。


 エイベルは、安宿の薄暗い一室にいた。


 家はない。

 大学へも行けない。

 リンドベル家の門も開かなかった。


 薄い壁の向こうでは、誰かが咳をしている。

 階下からは安い酒の匂いと、湿った木材の匂いが上がってきた。

 寝台は硬く、机は傾いている。


 それでも、雨に打たれるよりはましだった。


 エイベルの前には、新聞が広げられている。


 見出しには、こうあった。


 ハロルド・メイザー教授、新型魔力触媒理論を発表。

 魔石触媒工学と魔力流体理論の融合。

 少量魔力による高効率出力に成功。

 軍・商会が実用化へ注目。


 最初、文字は意味を持たなかった。


 エイベルは、新聞を読み返した。


 一度では足りなかった。

 二度目で、疑いが形になった。

 三度目で、疑いは確信へ変わった。


 そこに書かれている理論は、ハロルドの魔石触媒工学だけでは成立しない。


 魔力の流れ。

 圧力差。

 魔力ロスの軽減式。

 鉱石破砕実験の記録。

 風をどう流し、どこで圧を作り、どこで現象へ変えるのか。


 それは、エイベルが積み重ねてきたものだった。


 自分の講義。

 自分の実験。

 リディアたちと割った鉱石。

 夜遅くまで机に向かい、クラリスに毛布を掛けられた時間。

 ミアが隣で折り紙を折っていた時間。


 全部、そこにあった。


 名前だけが違う。


 エイベル・クロウの名前は、どこにもない。


 視線が、紙面の隅へ落ちた。


 小さな囲み記事があった。


 若き新星エイベル・クロウ教授、失意の錯乱か。


 神教会から脅迫を受けていたとされる若き研究者エイベル・クロウ教授が、先日の火災で妻を失い、娘も行方不明となった。

 関係者によれば、クロウ教授は深い失意の中、同僚であるハロルド・メイザー教授宅へ夜間に押しかけたとの証言もある。

 大学関係者は、教授の心身状態を案じている。


 エイベルは、その短い記事を読み終えた。


 あの夜の雨。

 泥の冷たさ。

 胸元の折り紙。

 ハロルドに投げつけた問い。


 それらは、すでに誰かの言葉で別の形に変えられていた。


 錯乱。

 失意。

 心身状態。


 違う。


 私は、狂ってなどいない。


 ハロルドだ。


 やはり、おかしかったのは私ではなかった。


 資料は燃えてなどいなかった。

 私の世迷い言ではなかった。

 錯乱でも、妄想でも、悲しみに狂った男の言いがかりでもなかった。


 ハロルド・メイザーが、私の研究を奪ったのだ。


 家族を奪われた夜に、研究を奪った。

 焼け落ちた家の灰の上で、私の名前を奪った。

 新聞の小さな囲み記事で、私の信用を奪った。

 そして今度は、私の正気まで奪おうとしている。


 拳が震えた。

 新聞紙が、指の中で潰れていく。


 許せない。


 ただ殺して終わりではない。

 殴って終わりでもない。


 真実を世に知らしめる。


 ハロルド・メイザーが何をしたのか。

 あの日、何を奪ったのか。

 誰の名前を踏み台にして、何を手に入れようとしているのか。


 公的な手段で。

 正しい手順で。


 大学に。

 学会に。

 法に。

 世論に。


 弾劾する。


 地位も、名誉も、信用も、未来も。

 あの男が私から奪ったように、すべてを奪う。


「ハロルド・メイザー」


 エイベルは、新聞の上に拳を置いた。


「私は、あなたを許さない」

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