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異世界転生した底辺盗賊の俺、悪名を喰らって悪の帝王へ成り上がる  作者: タクト
番外編 受け継がれる黒鋼の短剣

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番外編-5 灰になった家



 炎が答えるように、窓を割って吹き上がった。


 熱が、頬を焼いた。


 春の夕暮れが赤く歪んでいる。

 見慣れた家が、見慣れない音を立てて崩れていく。


 木材が爆ぜる。

 硝子が割れる。

 誰かが叫ぶ。

 誰かが水を運ぶ。

 誰かが泣いている。


 そのすべてが、遠かった。


「クラリス!!」


 エイベルは、燃える門へ向かって走った。


「ミア!!」


 腕を掴まれた。


「駄目だ! 入るな!」


「離せ!!」


 振りほどこうとした。

 だが、次の腕が伸びた。

 また別の誰かが腰にしがみつく。


「やめろ! もう中は無理だ!」

「奥さんと娘さんがいるんだろ!? 俺たちが探す! あんたは下がれ!」

「離せ!! 私は……私は中へ……!」


 声が裂れた。


 自分の声なのに、自分のものではないようだった。


 家の中にクラリスがいる。

 ミアがいる。


 朝、二人は玄関で見送ってくれた。

 クラリスは、いつも通り少しだけ笑っていた。

 ミアは寝癖のついた髪のまま、昨日渡した狼のお守りのことを何度も聞いてきた。


 パパ、お守り持った?


 その声が、まだ耳の奥に残っている。


 だから、いるはずだった。


 今も。

 まだ。

 中に。


「クラリス!! ミア!!」


 炎は答えない。


 ただ、窓の奥で赤く踊った。


 誰かが水をかける。

 だが、水は屋根に届く前に熱で白く散った。

 魔法で水を放つ者もいた。

 風で煙を払おうとする者もいた。

 それでも火の勢いは落ちない。


「火の魔法だ……」


 近くで誰かが呟いた。


「普通の火じゃない。中から回ってる」


「何だっていい! 消せ! 早く消せ!!」


 エイベルは叫んだ。


 叫んでも、火は消えなかった。


 炎は、まるで家そのものを食べているようだった。

 屋根の梁を噛み、壁を舐め、窓枠を赤く溶かし、思い出の形を一つずつ失わせていく。


 あの窓の向こうには、ミアの部屋があった。


 折り紙が散らかっていて。

 クラリスが何度片付けなさいと言っても、ミアはまた机の上いっぱいに紙を広げて。

 エイベルが帰ると、よく小さな作品を見せに走ってきた。


 あの奥には寝室があった。


 クラリスが本を読んでいる姿。

 眠ったミアの額にキスをする夜。

 研究で遅くなった時、クラリスが呆れながらも毛布を掛けてくれた夜。


 あの家に、自分の全部があった。


 燃えている。


 全部。


 何もかも。


「離せ……」


 エイベルの声が、急に細くなった。


「頼む……離してくれ……」


 彼を押さえていた男たちが、一瞬だけ力を緩めた。


 その隙に、エイベルは前へ出ようとした。


 だが、玄関の上の梁が焼け落ちた。


 轟音が響く。

 火の粉が吹き上がる。

 熱風が人垣を叩き、何人かが悲鳴を上げて後ろへ下がった。


 エイベルの体も、誰かに引き倒された。


 地面に膝がぶつかる。


 石畳の冷たさを感じた。


 それが、ひどく不自然だった。

 目の前の世界は燃えているのに、自分の膝だけが冷たい。


「……クラリス」


 返事はなかった。


「……ミア」


 返事はなかった。




 火が弱まるまで、どれだけの時間が経ったのか、エイベルには分からなかった。


 空はもう暗くなっていた。


 燃えた家は、家ではなくなっていた。

 黒く崩れた骨組み。

 濡れた灰。

 煙を上げる瓦礫。

 焼け焦げた柱。


 人々の声も、いつの間にか小さくなっていた。


 誰も、エイベルの近くで大きな声を出さなかった。

 まるで声を出せば、その場に残った何かまで壊してしまうと知っているように。


 エイベルは、膝をついたまま動けなかった。


 その時、視界の端に何かが映った。


 庭の土の上。


 そこに、小さな折り紙が落ちていた。


 まっさらだった。


 赤でも黒でもない。

 煤もついていない。

 焦げ跡もない。

 端も丸まっていない。


 昨日と同じ形で。

 昨日と同じ色で。

 ミアが笑って見せた時と、同じままで。


 くまにしか見えない、猫の折り紙。


 家は焼けた。

 窓は割れた。

 屋根は落ちた。

 家具は炭になった。

 クラリスとミアが暮らしていた場所は、灰になった。


 なのに、それだけが綺麗だった。


 エイベルは、手を伸ばした。


 指が震える。

 うまく掴めない。

 触れたら壊れてしまいそうで、怖かった。


 それでも、そっと拾った。


 小さな紙は、軽かった。


 あまりにも軽かった。


「……ミア」


 声が漏れた。


 そこで、ようやく涙が落ちた。


 一粒落ちて、折り紙に触れそうになった。

 エイベルは慌てて、両手で包む。


 濡らしてはいけないと思った。


 壊してはいけないと思った。


 それしか、残っていなかった。


「ミア……」


 ただ、ミアの作ったものがあった。

 ミアの指が折ったものがあった。

 ミアが笑って見せたものが、世界の終わりみたいな焼け跡の中で、綺麗なまま残っていた。


 それが残酷で。

 それだけが救いで。

 それすらも、胸を引き裂いた。


 エイベルは折り紙を抱え込むようにして、地面に伏せた。


 声が出なかった。


 喉は叫びすぎて焼けている。

 涙だけが落ちた。


 その背後で、誰かが近づいてきた。


「……クロウ教授」


 火消しの男だった。


 顔には煤がつき、腕には火傷の跡がある。

 彼は帽子を握りしめ、少しの間、言葉を探していた。


 エイベルは顔を上げない。


「奥様が……見つかりました」


 世界が、一度止まった。


 エイベルは、ゆっくり顔を上げた。


「……クラリスが?」


 男は目を伏せる。


「はい」


「ミアは」


 男は答えなかった。


「ミアは」


 エイベルは立ち上がろうとして、よろめいた。

 膝に力が入らなかった。


「娘は。ミアは、どこですか」


「……まだ、見つかっていません」


「まだ?」


 エイベルの声が震える。


「まだ、ということは、探しているんですよね」


「もちろんです。ただ……」


 男は、言葉を切った。


 その間が、怖かった。


「火の魔法が使われた可能性があります。かなり強い火でした。室内の一部は、骨も残らないほどで……」


「何を言っているんですか」


「ですから、娘さんは……」


「何を言っているんですか」


 エイベルの手が、男の胸倉を掴んだ。


 猫の折り紙を握ったまま、片手で掴んだ。


「ミアは、まだ見つかっていないんでしょう」


「……はい」


「なら、探してください」


「探しています」


「もっと探してください」


「クロウ教授、落ち着いてください」


「落ち着け?」


 エイベルの目が揺れた。


「家が燃えて、妻が死んで、娘が見つからない。そこで私に落ち着けと?」


 火消しの男は唇を噛んだ。


「奥様だけでも見つかって、よかったと……」


 その言葉が、何かを切った。


「よかった?」


 エイベルの指に力が入る。


「何が」


 男の服が軋んだ。


「何が良かったんですか」


「クロウ教授……!」


「クラリスが死んだことですか? 遺体があったことですか? ミアが見つからないことですか? 何が、何が良かったんですか!!」


 周囲の者たちが慌ててエイベルを押さえる。


 エイベルは抵抗した。

 抵抗して、すぐに力が抜けた。


 火消しの男の襟を掴んだ手が、落ちる。


「……違う」


 エイベルは呟いた。


「違う……あなたは、悪くない……」


 膝から崩れ落ちた。


 そのまま、灰と泥の上に手をつく。


 折り紙だけは、壊さないように胸へ抱いた。


「クラリス……」


 声が震える。


「ミア……」


 それ以上、言葉は続かなかった。




 翌日から、エイベルは大学へ行かなかった。


 誰かが連絡をしたのか、大学から使いが来た。

 返事はできなかった。


 研究室の机。

 講義。

 学生たち。

 学会の資料。

 次の実験。


 昨日まで自分の世界の中心だったものが、急に遠くなった。


 エイベルは、クラリスの実家であるリンドベル家へ向かった。


 葬儀のことを話さなければならない。

 クラリスの両親に会わなければならない。

 ミアのことも、探さなければならない。


 そう思って門の前に立った。


 しばらく前、同じ門をくぐった時は、ミアがアルフレッドの真似をして両手を上げていた。

 アルフレッドが笑っていた。

 マリアンヌが、港で評判の焼き菓子を嬉しそうに眺めていた。

 クラリスが呆れながらも、嬉しそうにしていた。


 温かい食卓だった。


 その門が、今日は冷たかった。


 呼び鈴を鳴らすと、執事が出てきた。


 いつもの執事だった。

 丁寧で、隙がなく、リンドベル家らしい礼節を纏った男。


 だが、彼はエイベルを中へ入れなかった。


「申し訳ございません、クロウ様」


「クラリスのことで、お義父様とお義母様に……」


「旦那様と奥様は、お会いになれません」


「……今は、そういう場合では」


「葬儀の準備はこちらで進めております」


 エイベルは、言葉を失った。


「こちらで?」


「はい。クラリス様はリンドベル家のご息女です。必要な手配は、すべてこちらで」


「私は、夫です」


 執事の表情は変わらなかった。


「承知しております」


「なら、私も……」


「お引き取りください」


 その言葉は、丁寧だった。


 丁寧だからこそ、扉を閉じる音に似ていた。


「ミアは、まだ見つかっていません」


「……承知しております」


「探さなければ」


「旦那様と奥様は、今は何もお聞きになれません」


「お願いします。少しだけでいい。お二人に会わせてください」


 執事は、深く頭を下げた。


「申し訳ございません」


 それ以上、何を言っても同じだった。


 エイベルは門の前に立ったまま、しばらく動けなかった。


 中から誰かが出てくることはなかった。


 門は開かなかった。


 かつて、エイベル・クロウ・リンドベルという名を笑ってくれた家は、その日、エイベル・クロウを中へ入れなかった。




 どこを歩いたのか、エイベルには分からなかった。


 気づくと、燃えた家の前にいた。


 家は、もう煙をほとんど上げていない。

 夜のうちに火は消え、朝のうちに周囲の片付けも少し進んでいた。


 それでも、そこにあるのは家ではなかった。


 黒い跡。

 崩れた壁。

 焼けた床。

 濡れた灰。

 割れた窓枠。


 ここに帰ってきたはずだった。


 クラリスがいた。

 ミアがいた。

 自分の研究があった。

 食事があった。

 声があった。


 玄関の前で、エイベルは立ち止まる。


 ただいま。


 そう言えば、クラリスが振り返った。

 ミアが走ってきた。

 時々、転びそうになって、クラリスに叱られた。


 もう、誰も出てこない。


 焼けた玄関を越えた。


 床板は抜け落ち、ところどころ水を吸って崩れている。

 歩くたびに、湿った灰が靴裏にまとわりついた。


 寝室へ向かった。


 そこには、形を失った寝台があった。

 黒く焦げ、骨だけになったような家具。

 布も、枕も、何も残っていない。


 けれど、エイベルには見えた。


 ミアが眠っている。

 クラリスがその横で髪を撫でている。

 エイベルが額にキスをする。

 ミアが寝言で「ねこ」と呟く。


 ええ。猫でしたよ。


 そう言った自分の声まで、思い出せた。


 エイベルは目を閉じた。


 開けても、そこには灰しかなかった。


 次に、書斎へ向かった。


 書斎は、ひどく焼けていた。

 机は崩れている。

 椅子は足だけ残っている。

 本棚は黒い塊になっていた。


 研究者としての自分の場所。


 そこも、失われていた。


 エイベルは、奥へ進む。


 壁際に、金庫があった。


 耐火の魔法処理を施した金庫。

 重要資料を入れるためのもの。

 学会用の草稿、実験記録、魔力量測定、鉱石の割れ方を記録した紙、スポンサー候補の名簿。


 すべて、そこに入れた。


 昨日の夜、自分の手で鍵をかけた。


 エイベルは膝をつき、金庫へ手を伸ばした。


 その手が、止まる。


 金庫は、開いていた。


 扉が、わずかに口を開けている。


 エイベルは、しばらくそれを見つめていた。


 頭が理解を拒んだ。


 焼けて壊れたのか。

 火の熱で歪んだのか。

 そう思おうとした。


 だが、鍵穴は壊れていない。

 扉も、無理やりこじ開けられたようには見えない。

 まるで、鍵を知っている者が開けたように。


 エイベルは金庫の扉を開いた。


 中は、空だった。


 あるはずの資料は、どこにもなかった。


 灰すら、残っていなかった。

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