番外編-3 誰もが英雄になれる時代
それから、しばらく経った。
王立ルヴェリア魔導大学院の実験室で、エイベルは二人の学生を前にしていた。
リディア・フォルムと、その友人である。
「リディアさん」
「は、はい!」
リディアの声が裏返った。
「以前、実験の手伝いに興味があると言っていましたね」
「……覚えていてくださったんですか?」
「もちろんです。研究が実験段階に入りました。もしよければ、今日の実験を手伝っていただけませんか」
「え」
リディアの目が、まん丸になった。
「助手というほど正式なものではありませんが、かなり重要な実験です。あなたと、そちらのご友人にもお願いしたい」
「……じょ」
「じょ?」
「助手……」
リディアの顔が、みるみる赤くなっていく。
「リディア?」
友人が嫌な予感を覚えて手を伸ばした瞬間、リディアは真っ赤な顔のまま、後ろへ倒れた。
「リディア!?」
友人が慣れた様子で支える。
「すみません、クロウ教授。この子、感情が一定量を超えると倒れるんです」
「それは……大丈夫なのですか」
「いつものことです」
「いつものことなのですか」
エイベルが少し困った顔をすると、リディアは友人の腕の中で小さく震えながら起き上がった。
「や、やります……! 手伝います……!」
「無理はしないでください」
「無理じゃありません!」
友人が、やれやれと肩をすくめる。
「教授、この子はこうなると止まりません」
「分かりました。では、お願いします」
実験台の上には、拳ほどの鉱石が置かれていた。
鉄鉱石ほど硬くはない。
だが、学生二人の風魔法で割れるようなものでもない。
リディアの友人が、それを見て眉を寄せる。
「あの、クロウ教授。これを、私たちの魔力で割るんですか?」
「はい」
「無理だと思います」
彼女は即答した。
「少なくとも、普通に風をぶつけるだけでは無理です。私たちの魔力量では、石ころを少し転がすくらいが限界です」
「その通りです」
「その通りなんですか」
友人が困惑する。
リディアも鉱石を見つめたまま、少し不安そうに口を開いた。
「教授、本当に私たちで……?」
「信じてください」
エイベルは、黒板の前に立った。
「真空波は、真空を作り出し、対象を切断する魔法だと言われています。これまでの常識では、威力を上げるには魔力量を上げるしかありませんでした」
エイベルは黒板に、二つの空気の層を描く。
「ですが、私は違うと考えています。真空は、ただ魔力で空気を消しているのではありません。圧力差によって生まれる現象です」
チョークが、軽い音を立てる。
「つまり、従来の魔法にはまだ改良の余地がある。大きな魔力で無理やり真空を作るのではなく、空気の圧縮率を意図的にずらし、圧力差を生むことに集中すれば、少ない魔力でも切断力を生み出せるはずです」
リディアは息を呑む。
「風を、押すんじゃなくて……」
「そうです」
エイベルは頷いた。
「風を読むイメージです」
「風を読む……」
「目に見える風だけではありません。魔力が空気へ干渉する位置。圧が逃げる方向。真空を作りたい線。そのすべてを、構造として捉えてください」
友人は黒板と鉱石を見比べる。
「それ、本当に学生二人でできるんですか?」
「できます」
エイベルは迷いなく答えた。
「正確に言うなら、できる可能性があります」
「可能性……」
「学問とは、そこから始まるものです」
そうして実験が始まった。
リディアと友人は、鉱石の前に立つ。
二人の魔力は強くない。
風魔法も、講義で扱う基礎魔法の範囲を少し出る程度だった。
最初の一度目。
風が鉱石の表面を撫でる。
何も起きない。
二度目。
鉱石が少し揺れる。
割れない。
三度目。
風の流れが乱れ、机の上の紙が吹き飛んだ。
「すみません!」
「問題ありません。今のは圧が外へ逃げています。圧縮する位置を、もう少し鉱石の手前に」
「はい!」
リディアは何度も頷いた。
昼下がりから始まった実験は、夕方になっても続いた。
窓の外の光が、少しずつ赤くなっていく。
実験室の床には、失敗で転がった紙片や、書き直された魔法陣の下書きが散らばっていた。
友人が机に手をつく。
「もうやめようよ、リディア。明日にしよう。これ、無理だって」
「無理じゃない」
「でも、もう何十回もやってるよ」
「絶対、クロウ教授は合ってる」
リディアは鉱石を見た。
息は上がっている。
頬も赤い。
指先には疲労が出ていた。
けれど、目だけは逸らさなかった。
「もう一回だけ」
「リディア……」
「お願い」
友人は大きく息を吐いた。
「本当に、もう一回だけだからね」
「ありがとう」
リディアは目を閉じた。
風を読む。
目に見えるものだけではない。
肌に触れる感覚だけでもない。
真空のイメージ。
圧力差。
空気の圧縮率。
鉱石の表面。
魔力が干渉する位置。
エイベルに教わったものを、一つずつ思い出す。
雑に出さない。
強く押さない。
魔力を増やそうとしない。
位置から。
流れから。
構造から。
すべて、丁寧に。
「……いきます」
リディアと友人の魔力が重なる。
小さな風が生まれた。
ただの風ではない。
鉱石の前で空気が圧縮される。
その奥で、ほんの一瞬だけ圧が抜ける。
目には見えない細い線が、鉱石の表面を通った。
乾いた音がした。
鉱石に、一本の亀裂が走る。
次の瞬間、鉱石は二つに割れた。
実験室が静まり返る。
リディアは、割れた鉱石を見つめたまま動かなかった。
友人も、口を開けたまま固まっている。
エイベルだけが、ゆっくりと息を吐いた。
「……成功です」
その言葉で、リディアの顔が一気に輝いた。
「や、やった……!」
「やったよ、リディア!」
友人がリディアの肩を掴む。
「本当に割れた! 割れたよ!」
「うん! 見た!? 今の見た!?」
「見たって! 私もやったんだから!」
二人はその場で跳ねるように喜んだ。
エイベルも、割れた鉱石を手に取る。
切断面は荒い。
真空波と呼ぶには、まだあまりにも未熟だった。
だが、それでいい。
魔力量ではない。
構造で、結果が変わった。
その事実が、ここにある。
「これで、学会に持っていけます」
エイベルは静かに言った。
リディアが振り返る。
「本当ですか?」
「はい。あなたたちが証明してくれました」
リディアの目に、涙が浮かぶ。
「私たちが……」
「ええ」
エイベルは、割れた鉱石を大切そうに実験台へ置いた。
「魔力の小さな者でも、魔法は届く。その第一歩です」
夕方の光が、実験室に差し込んでいた。
割れた鉱石の断面が、赤く照らされている。
リディアはその光を見つめながら、胸の奥が震えるのを感じていた。
学会当日。
王立ルヴェリア魔導大学院の大講堂は、いつもの講義室とはまるで違っていた。
磨かれた石床。
高い天井。
壁際には各国の技術者、魔道具職人、商会の代表、軍関係者、記者たちが並ぶ。
中央の発表台の前には、簡易の立食席が設けられ、銀の皿とグラスが光を返していた。
これは、ただの学術発表ではない。
魔法が、金になる場所だった。
魔法が、軍事になる場所だった。
魔法が、名誉になる場所だった。
「ハロルド教授」
立食席の一角で、商会の男が声を潜めた。
ハロルド・メイザーは、上質な黒の上着に身を包み、余裕のある笑みを浮かべていた。
「魔石は、既に買い込んであります」
「早いですね」
「発表してからでは遅いですからな。値が上がってから仕入れる商人など、商人ではありません」
商会の男が笑う。
その隣で、別のスポンサーがグラスを掲げた。
「今日の発表が終われば、軍も動くでしょう」
「魔石触媒工学は、次の時代を取りますよ」
ハロルドは、差し出された手を握った。
「ええ。勝ちに行きましょう」
その声には、自信があった。
魔石を使う。
触媒を使う。
従来の魔法へ外部エネルギーを接続し、術者本人の魔力を超えた出力を引き出す。
分かりやすい。
実用的だ。
金にもなる。
学会も、商会も、軍も、それを求めている。
「メイザー教授」
声がした。
ハロルドが振り返ると、エイベル・クロウが立っていた。
今日はいつもより少しだけ整えた礼服姿だった。
黒い髪をきちんと撫でつけ、銀線の入ったネクタイを締めている。
若さは隠せないが、品はある。
そして、相変わらず人を押しのけるような気配はない。
「クロウ教授」
ハロルドは笑顔で手を差し出した。
エイベルは丁寧に握手を返す。
「本日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。次の発表、楽しみにしていますよ」
「ありがとうございます。私も、メイザー教授の発表を楽しみにしていました」
「はは。互いに良い発表にしましょう」
「はい」
エイベルは素直に頷いた。
そのまま会釈し、発表準備のために離れていく。
商会の男が、エイベルの背を見ながら言った。
「あれが、前回少し話題になっていた若い教授ですか」
「ええ。エイベル・クロウです」
「魔力流体学でしたか」
ハロルドは、グラスを軽く揺らした。
「ええ。面白い研究ではありますが、取るに足りません」
「そうなのですか?」
「実践的ではない。魔力の流れを整える、などと言えば聞こえはいいですが、どちらかといえば魔力灯や街灯、安定した魔道具運用に使うような研究です」
ハロルドは、発表台を見た。
「金にはなりませんよ」
商会の男は安心したように笑う。
「それは良かった」
「心配はいりません。今日、会場が見るのは夢物語ではない。実用です」
やがて、発表が始まった。
先に壇上へ上がったのは、ハロルド・メイザーだった。
彼は慣れた様子で聴衆を見渡し、魔石触媒工学の成果を語った。
風魔法に魔石を接続する。
術者本人の魔力だけでは届かない出力を、外部エネルギーによって補う。
魔石触媒を介することで、風圧、射程、持続時間を従来より大幅に向上させる。
試験用の魔法陣が起動し、会場中央に小さな旋風が生まれる。
そこへ魔石触媒が接続されると、旋風は一気に膨れ上がり、試験用の標的を吹き飛ばした。
会場から、感嘆の声が上がる。
「これにより、魔法を扱う者は、さらに大きな力を得ます」
ハロルドは声を張った。
「優れた術者は、より優れた術者へ。英雄は、より英雄へ。人類を導く者たちに、我々は新たな力を与えるのです」
拍手が起きた。
商会の者たちは満足そうに笑い、軍関係者も深く頷いている。
スポンサーたちは互いに目配せをし、握手を交わした。
ハロルドは壇上で一礼する。
勝った。
そう確信していた。
次に、エイベル・クロウが壇上へ上がった。
拍手はある。
だが、ハロルドの時ほど大きくはない。
それでもエイベルは、穏やかに礼をした。
「エイベル・クロウです。本日は、魔力流体学による風魔法構造の最適化について発表します」
黒板に魔力の流れが描かれる。
風魔法の基本構造。
魔力の干渉点。
空気の圧縮率。
圧力差の発生位置。
そして、無駄な魔力ロス。
最初、会場の反応は鈍かった。
理論が細かい。
派手ではない。
魔石触媒のように分かりやすく光るものもない。
ハロルドは、グラスを手にしたまま薄く笑った。
だが、エイベルの次の言葉で、空気が変わった。
「中央大陸バルハラにおいて、魔法を実用的に行使できる者は、およそ二割程度とされています」
聴衆が静まる。
「ですが、魔法を魔法として見ず、現象として構造分解することで、その比率を変えられる可能性があります」
エイベルは、発表台の上に置かれた鉱石を指した。
「魔力量を増やすのではありません。魔石を足すのでもありません。魔力の流れを整え、空気との干渉を最適化し、圧力差をより効率的に生み出す」
言葉が、会場に落ちる。
「もしこれが実用化すれば、魔法を行使できる者は二割から八割へ届く可能性があります」
会場が、ざわめいた。
軍関係者が顔を上げる。
記者がペンを止める。
商会の者たちが、互いに目を見る。
「魔法は、一部の才ある者だけのものではなくなるかもしれない」
エイベルは、静かに言った。
「誰もが英雄になれる時代が来るかもしれないのです」
その言葉に、ハロルドの笑みが消えた。
発表台の横には、二人の助手が立っていた。
リディア・フォルムと、その友人。
リディアの顔は緊張で青白くなっている。
友人も、いつもの軽口を飲み込んでいた。
「これから、実演を行います」
エイベルが言った。
「二人の魔力は、決して大きくありません。通常であれば、風魔法でこの鉱石を割ることはできないでしょう」
会場が静まり返る。
「ですが、魔力の流れと圧力差を最適化すれば、結果は変わります」
リディアが息を吸う。
友人も、隣で手を合わせる。
二人の魔力が重なった。
小さな風が生まれる。
鉱石の前で空気が揺れる。
だが。
何も起こらなかった。
沈黙。
リディアの顔から血の気が引く。
友人が唇を噛む。
会場の奥で、誰かが小さく笑った。
ハロルドの胸に、安堵が戻る。
ほら見ろ。
夢物語だ。
エイベルは、焦らなかった。
「問題ありません」
彼はリディアたちへ向き直る。
「二人は、私の優秀な助手です」
リディアが顔を上げる。
「いつも通りで構いません。強くしようとしないでください。魔力を増やす必要はありません。流れを見て、圧の逃げ道を閉じる。それだけです」
「……はい」
リディアは震える息を吐いた。
友人が、彼女の横で小さく笑う。
「もう一回だけね」
「うん」
二人は、もう一度手を合わせた。
風を読む。
押すのではない。
増やすのでもない。
流れを見る。
圧を整える。
真空を、線として作る。
二人の小さな魔力が、鉱石の前で重なった。
乾いた音がした。
鉱石に、一本の亀裂が走る。
次の瞬間。
鉱石は、二つに割れた。
会場は、完全に沈黙した。
誰も声を出さなかった。
リディアも、友人も、エイベルも、割れた鉱石を見ていた。
やがて、最初に動いたのは軍服の男だった。
彼が立ち上がり、強く手を叩いた。
次の瞬間、会場が揺れた。
拍手。
歓声。
ざわめき。
椅子が引かれ、記者たちが走り出し、商会の者たちが前へ出る。
「クロウ教授! 今の理論は軍用に転用可能ですか!」
「実験条件を教えてください!」
「助手の魔力量はどの程度ですか!」
「魔石なしで可能なのですか!?」
「出資の窓口はどちらに!」
「次の試験予定は!」
声が殺到する。
エイベルは少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに丁寧に対応しようとした。
リディアはその場でへたり込みそうになり、友人が慌てて支える。
「リディア、立って。今倒れたら記者に踏まれる」
「わ、割れた……」
「割ったんだよ、私たちが」
会場の熱は、止まらなかった。
一方で。
ハロルド・メイザーの周囲だけは、冷えたように静かだった。
商会の男が、割れた鉱石を見ている。
スポンサーたちの笑みも、消えていた。
魔石を買い込んだ。
触媒装置の準備もした。
軍への売り込みも、水面下で進んでいた。
その全ての前に、エイベル・クロウの理論が立った。
外部エネルギーではない。
魔石ではない。
魔法そのものの構造を書き換える理論。
会場の拍手が、ハロルドには風の音のように聞こえた。
不穏な風だった。
そしてその風は、間違いなく自分たちの方へ吹いていた。




