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異世界転生した底辺盗賊の俺、悪名を喰らって悪の帝王へ成り上がる  作者: タクト
番外編 受け継がれる黒鋼の短剣

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番外編-2 リンドベル家の食卓



 数日後。


 エイベル・クロウは、寝室の鏡の前で三本のネクタイを見比べていた。


 深い青。

 落ち着いた灰色。

 細い銀の線が入った黒。


 どれも悪くない。

 だからこそ、決まらない。


「クラリス」


「はいはい」


「どれがいいと思いますか」


 クラリスは椅子に座り、ミアの髪を整えながら振り返った。


「どれでもいいと思うわ」


「それが一番困ります」


「本当にどれでも似合うもの」


「今日はご両親の家へ行く日です。適当にはできません」


「あなた、学会発表の前より真剣な顔をしているわよ」


「学会には論文を持っていけばいい。ご両親の家には、私自身が行くんです」


 エイベルは本気だった。


 その本気さに、クラリスは笑う。

 ミアは椅子の上で足をぷらぷらさせながら、三本のネクタイを眺めた。


「ミアがえらぶ!」


「では、お願いします」


 エイベルは膝をつき、三本のネクタイをミアの前へ差し出した。


 ミアは真剣に唇を尖らせ、しばらく悩んだ後、銀の線が入った黒を指さした。


「これ!」


「理由を聞いても?」


「きらきらしてるから!」


「なるほど。重要な理由です」


 エイベルは頷き、そのネクタイを丁寧に締めた。


 クラリスはその様子を見ながら、目を細める。


「お土産は?」


「用意しています。港で評判の焼き菓子です」


「いいじゃない」


「ですが、リンドベル家では専属の料理人が作ったものしか召し上がらないのではないかと」


 クラリスは一瞬きょとんとして、それから吹き出した。


「あなた、私の両親をなんだと思っているのよ」


「由緒ある貴族家のご当主と奥方です」


「普通に喜ぶわよ。二人とも流行りものが好きだから」


「……そうなのですか」


「そうよ。特にお母様は、港で評判の菓子を誰より先に食べたがるわ」


 エイベルは、少しだけ安心したように菓子箱を見下ろした。


「それなら、良かった」


「ほら、行きましょう。あまり悩んでいると、夕食が朝食になるわ」


「それは困ります」


 クラリスが笑い、ミアが跳ねるように玄関へ向かう。


 その日のリンドベル家は、いつものように美しかった。


 貴族街の一角。

 白い石造りの屋敷。

 手入れの行き届いた庭。

 春の花が低い垣根に沿って咲き、玄関前には水音の小さな噴水があった。


 エイベルが門をくぐると、執事が静かに頭を下げる。


「お待ちしておりました。クロウ様、クラリス様、ミア様」


「あ、はい。本日はお招きいただきありがとうございます」


 エイベルは、少しだけ背筋を伸ばした。


 すぐに使用人が上着を受け取ろうと近づいてくる。


 エイベルは一瞬だけ戸惑い、それからクラリスに目で助けを求めた。

 クラリスは笑って、小さく頷く。


 エイベルは諦めたように上着を預けた。


「……ありがとうございます」


 食堂へ通されると、既にクラリスの両親が待っていた。


 父、アルフレッド・リンドベルは、白髪の混じった髪を後ろへ撫でつけた、恰幅のいい男だった。

 厳めしく見えるが、目元はよく笑う。


 母、マリアンヌ・リンドベルは、淡い栗色の髪を美しくまとめた、上品な女性だった。

 クラリスの柔らかさは、母によく似ていた。


「よく来たね、エイベル君!」


 アルフレッドが大きな声で言う。


「クラリス、ミアも。待っていたよ」


「お父様、声が大きいわ」


「孫が来たのだ。声くらい大きくなる」


 ミアが母の後ろから顔を出す。


「おじいさま!」


「ミア!」


 アルフレッドは両手を広げた。

 ミアは走り寄り、そのまま抱き上げられる。


「また大きくなったな。いや、前より賢そうな顔をしている」


「ミアね、折り紙できるよ!」


「なんと。天才ではないか」


「でしょ!」


 マリアンヌが口元を押さえて笑う。


「いらっしゃい、エイベルさん。今日も来てくれて嬉しいわ」


「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」


 エイベルは深く頭を下げ、持ってきた菓子箱を差し出した。


「港で評判の焼き菓子だそうです。もしお口に合えば」


「あら、これ、港通りで行列ができているお店のものじゃない」


 マリアンヌが、少女のように目を輝かせた。


「気になっていたのよ。けれど、なかなか買いに行けなくて」


「お母様、前に使用人に頼もうとしていたものね」


「だって、流行りものは早く食べたいでしょう?」


 マリアンヌは嬉しそうに菓子箱を受け取った。


「ありがとう、エイベルさん。こういうお土産は大歓迎よ」


 エイベルは、肩の力が少し抜ける。


「喜んでいただけたなら、良かったです」


 席につき、食事が始まった。


 最初は少し固かったエイベルも、アルフレッドが何度も話しかけるうちに、少しずつ表情を和らげていく。


「それで、エイベル君。学院の方はどうだね」


「はい。学生たちは熱心です。新しい環境でしたが、想像よりも早く受け入れていただけました」


「当然だろう。君の講義なら、私でも聞きたいくらいだ」


「お父様は三分で寝るわ」


「クラリス、私はそこまで失礼ではない」


「五分かしら」


 マリアンヌが小さく笑う。


「クラリス」


「冗談よ」


 食卓に笑いが広がる。


 アルフレッドはミアを見て、少しだけ名残惜しそうに言った。


「しかし、やはり寂しいな。ミアにもっと会いたい。いっそ、こちらで一緒に住むというのはどうだ」


「お父様、それは前にも断ったでしょう」


「だが、部屋はある。庭もある。ミアも走り回れる」


「今の家の方が、エイベルの大学に近いの。私もあの家が気に入っているわ」


「むぅ。残念だ」


 アルフレッドは本気で残念そうに肩を落とす。


 ミアがその真似をして、同じように肩を落とした。


 食卓にまた笑いが起きる。


 やがて、アルフレッドは咳払いを一つした。


「では、せめて婿養子の件だけでも考えてくれないか」


「お父様」


 クラリスがすぐに声を上げた。


「またその話?」


「何度でもするとも」


 アルフレッドは胸を張る。


「エイベル・リンドベル。素敵な響きじゃないか。君がリンドベル家に加わってくれたら、私は鼻が高いよ」


 エイベルは困ったように笑った。


「お気持ちはありがたいのですが、私は……」


「もう、お父様。エイベルはエイベルがいないと、クロウの家が続かないのよ? 考えてる?」


「うむ。それは良くない。良くないが……ぜひ、我が家の名も背負ってほしいのだ」


「頑固なんだから」


 アルフレッドは少し考え、それから手を打った。


「そうだ。エイベル・クロウ・リンドベルでもいいぞ!」


 クラリスが額を押さえた。


「お父様」


 エイベルは、思わず笑ってしまった。


「そうですね。それなら、私も少しなりたいです」


 アルフレッドの顔が、一瞬で輝いた。


「そ、そうか! エイベル君!」


 アルフレッドは両手を上げた。


「歓迎するよ!」


 ミアも祖父の真似をして、両手を上げる。


「かんげいするよ!」


「ミア、それは何を歓迎しているの?」


「わかんない!」


 マリアンヌが笑い、クラリスも堪えきれずに吹き出した。


 食事は、穏やかに進んだ。


 上質な料理。

 温かい会話。

 ミアの笑い声。

 クラリスの柔らかな注意。

 アルフレッドの少し大げさな喜び。

 マリアンヌの穏やかな視線。


 エイベルは、そのどれもが自分には不思議だった。


 天涯孤独だった自分が、こんな場所に座っている。

 貴族の食卓で、責められるのではなく、歓迎されている。

 家柄を問われるのではなく、名を加えてほしいと言われている。


 食事の終わり頃、エイベルは静かにナプキンを置いた。


「改めて、お礼を言わせてください」


 アルフレッドとマリアンヌが、同時にエイベルを見る。


「クラリスとの結婚を許していただいたこと。私を、家族として迎えてくださったこと。本当に感謝しています」


 アルフレッドは少し照れたように鼻を鳴らした。


「最初は驚いたよ。家柄も後ろ盾もない若い学者だと聞いた時はね」


「お父様」


「だが、クラリスが選んだ男だ」


 アルフレッドはクラリスを見る。


「私たちが手塩にかけて育てた娘だ。そう簡単に間違うはずがない」


「自慢になっているのかしら、それ」


「当然だ」


 マリアンヌが静かに微笑んだ。


「それに、今は私たちもあなたが大好きよ。エイベルさん」


 エイベルは言葉に詰まった。


 クラリスが隣で、そっと彼の手に触れる。


 アルフレッドは楽しそうに笑った。


「エイベル・クロウ・リンドベル。次に会う時は、そう呼びたいものだね」


「お父様」


「冗談だ。半分は」


「半分なのね」


 また笑いが起きた。


 エイベルも、少し遅れて笑った。


 その食卓は、温かかった。


 あまりにも温かくて。


 その温度を、エイベルは生涯忘れられなかった。




 リンドベル家での食事を終え、家に戻った頃には、ミアはすっかり眠っていた。


 馬車の中で何度も目をこすり、それでも「ねてない」と言い張っていたが、家に着く頃にはエイベルの腕の中で小さく寝息を立てていた。


「今日は、はしゃいでいたものね」


 クラリスが小さな声で言った。


「アルフレッド様も、マリアンヌ様も、ミアに甘いですから」


「あなたも十分甘いわよ」


「否定はしません」


 エイベルはミアを抱いたまま、寝室へ向かった。


 小さな体をベッドに寝かせ、布団をかける。

 ミアは眠ったまま、少しだけ唇を動かした。


「……ねこ……」


「ええ。猫でしたよ」


 エイベルは小さく笑い、ミアの額にそっと口づけた。


「おやすみ、ミア」


 灯りを落とし、寝室の扉を静かに閉める。


 廊下には、夜の静けさが満ちていた。


 クラリスはそのまま寝室へ向かうと思っていたが、エイベルは書斎の方へ足を向けた。


「エイベル?」


「少しだけ、研究を進めます」


 クラリスは呆れたように眉を下げた。


「今日は休みでしょう。休んだら?」


「学会が近いですから」


「あなた、昨日も同じことを言っていたわ」


「昨日より一日、学会が近くなっています」


「屁理屈まで研究しなくていいの」


 エイベルは少し困ったように笑った。


 クラリスは彼の前に立ち、軽く胸元のネクタイをほどく。


「お父様とお母様に、いいところを見せたいの?」


「……それもあります」


 エイベルは素直に答えた。


「アルフレッド様とマリアンヌ様には、よくしていただいています。私のような者を認めてくださった。クラリスとの結婚も、ミアのことも」


「あなたのような者、なんて言わないで」


「ですが、事実です。私は家柄も後ろ盾もありません。だから、失望させたくないんです」


 クラリスは、そっと息を吐いた。


「頑張らなくていいのよ」


 エイベルが顔を上げる。


「今のままでも、私は幸せ」


 その言葉は、とても静かだった。


 けれど、エイベルの胸には深く届いた。


「……私もです」


 エイベルは微笑む。


「でも、研究は趣味なので」


 クラリスは目を細めた。


「研究が服を着ている」


「ひどい」


「事実よ」


「否定が難しいですね」


 クラリスはくすりと笑い、台所へ向かった。


「コーヒーを入れてあげる。それを飲んだら、少しは寝ること」


「努力します」


「努力じゃなくて約束」


「……分かりました。約束します」


 しばらくして、クラリスは温かいコーヒーを持って書斎へ来た。


 机の上には、すでに紙が広げられている。

 魔力の流れ。

 空気の圧。

 小さな風を大きな突風へ変えるための線。


 エイベルは椅子に座り、ペンを手に取っていた。


「本当に、楽しそうね」


「はい」


 エイベルは、迷いなく答えた。


「楽しいです」


 クラリスはコーヒーを机の端に置き、エイベルの髪を軽く撫でた。


「無理はしないでね」


「はい。おやすみなさい、クラリス」


「おやすみ、エイベル」


 クラリスは書斎を出ていった。


 扉が閉まる。


 家は静かだった。


 寝室には、ミアがいる。

 その隣には、クラリスがいる。

 そしてこの書斎には、自分の研究がある。


 エイベルはコーヒーを一口飲み、ペンを走らせた。


 幸せだった。


 その幸せが、胸の奥で静かに明かりを灯している。


 今日、リンドベル家の食卓にあった笑い声。

 腕の中で眠るミアの重さ。

 クラリスが淹れてくれたコーヒーの温度。

 自分を迎えてくれた人たちの声。


 そのすべてが、エイベルの背中を押していた。


 だからこそ、もっと届きたいと思った。


 この理論が、誰かの役に立つところまで。

 この魔法が、まだ魔法を持たない誰かの手に届くところまで。


 窓の外では、夜のルヴェリアが静かに息をしている。

 遠くの港で鳴る鐘の音が、かすかに風に乗って届いた。


 エイベルは顔を上げる。


 寝室の方からは、何も聞こえない。

 それが、たまらなく愛しかった。


 クラリスが眠っている。

 ミアも眠っている。

 明日になれば、また二人の声が聞こえる。


 それだけで、世界は十分に優しかった。


 エイベル・クロウは、小さく微笑み、もう一度ペンを取った。


 春の夜は静かだった。


 家族の眠る家に、紙をなぞる柔らかな音だけが、いつまでも続いていた。

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