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異世界転生した底辺盗賊の俺、悪名を喰らって悪の帝王へ成り上がる  作者: タクト
第六章 白煙と魂晶の少女

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第22話 春泥棒



 昨日とは裏腹に、朝は何も変わらなかった。


 窓から差し込む光はやわらかく、遠くでは水路を行き交う船の音が聞こえる。

 誰かが荷を運び、誰かが店を開け、誰かが今日の飯のことを考えている。


 王都ルヴェリアは、いつも通り目を覚ましていた。


 エルナにとっては、来なかったはずの朝だった。


 昨日で終わるはずだった。

 昨日、どこか知らない場所へ運ばれて、また別の誰かのものになるはずだった。


 けれど、一日だけ伸びた。


 奇跡みたいに伸びた一日。

 その朝も、今日で終わる。


 エルナは部屋の中で、荷物をまとめていた。


 荷物と呼べるほど、多くはない。

 けれど、何もなかった時よりは、ずっと多い。


 畳まれた服。

 イグニスにもらった赤いカーディガン。

 小さな布袋。

 街で買ったもの。

 誰かに渡されたもの。


 エルナは、それらを一つずつ手に取った。


 昨日の騒ぎで、部屋にも薄く埃が入っていた。

 けれど、荷物は奇跡的に残っていた。


 エルナは布でそっと埃を拭う。


 一つ。

 また一つ。


 丁寧に、丁寧に。


 荷物を詰めていくたびに、胸の奥が少しずつ重くなる。


 赤いカーディガンを畳む。

 イグニスの声を思い出す。


 小さな包みをしまう。

 ナザルの軽い声を思い出す。


 服を畳む。

 セリカの手つきを思い出す。


 息を吸った。


 少しだけ、喉が震えた。


 涙が、ぽつりと落ちた。


 楽しかったなぁ。


 そう思った瞬間、止まらなくなった。


 楽しかった。

 怖いこともあった。

 痛いこともあった。

 死にそうにもなった。


 でも、楽しかった。


 屋台の味。

 城壁の上の風。

 夜市の灯り。

 肉の匂い。

 魚の話。

 道場の床。

 酒場の笑い声。

 裏庭の日差し。

 セリカの声。

 イグニスの腕。

 ナザルの軽口。

 ラインハルトの不器用な教え。

 シャノンの尻尾。

 ルーカスの困った顔。

 ベルノの真面目すぎる声。

 クロードの怒った眼鏡。

 ハルトの横顔。


 全部、たった一週間のことだった。


 行きたくないな。


 口には出さなかった。


 出してしまえば、きっと歩けなくなる。


 エルナは袖で涙を拭った。

 何度も拭った。


 最後に、机の上に置いていた髪飾りを手に取る。


 銀の細工。

 翡翠の宝石。


 窓から差し込む朝の光を受けて、小さく輝いている。


 エルナはそれを、前髪にそっと留めた。


 指先で触れる。


 一度。

 二度。


 ちゃんと、そこにあることを確かめる。


 その時、背後の扉が軽く叩かれた。


「エルナ」


 声がした。


 ハルトだった。


 エルナは、もう一度だけ目元を拭った。


「いこう」


 扉が開く。


 ハルトが立っていた。


 右手には黒い手袋。

 胸元にはまだ包帯。

 顔色もよくはない。


 それでも、いつも通りの顔をしようとしていた。


 エルナは涙を見せなかった。


 代わりに、笑った。


「うん!」


 ハルトは一瞬だけ、何かに気づいたような顔をした。

 けれど、何も言わなかった。


 二人は部屋を出た。


     ◇


 街は、昨日の騒ぎが嘘のように動いていた。


 もちろん、被害を受けた場所はある。

 倉庫街の方角には、まだ煙の匂いが残っている。

 壊れた壁も、焼けた屋根も、運ばれていく怪我人もいる。


 それでも、ルヴェリアは止まらない。


 水路には船が浮かび、商人は声を張り、子供たちは路地を走っていた。

 誰かが泣いて、誰かが怒って、誰かが笑っている。


 生きている街だった。


 ハルトとエルナは、ゆっくり歩いた。


 会話は少なかった。


 ハルトがゆっくり歩くのは、傷のせいなのか。

 それとも、ただ急ぎたくないだけなのか。


 エルナには分からなかった。


 ルヴェリア西部は、ほとんど被害を受けていない。

 店先には果物が並び、洗濯物が揺れ、馬車がのんびりと道を進んでいる。


 外縁区へ近づくほど、空が広くなっていく。


 建物の密度が薄れ、土の匂いが濃くなる。

 畑が見えた。

 牧草地が見えた。

 遠くに草原が広がっている。


 王都の端は、思っていたよりも静かだった。


 二人は巨大な外壁の下へ来た。


 見上げるほど高い壁だった。

 石と魔法と人の手で積み上げられた、途方もない境界。


 エルナは立ち止まり、少しだけ見上げた。


 最初にこの街へ来た時は、こんなものは目に入らなかった。


 あの時は、どこへ運ばれるのかも分からなかった。

 誰のものになるのかも分からなかった。

 自分の行き先も、自分の気持ちも、何もなかった。


 今は違う。


 見える。


 壁が高いこと。

 空が青いこと。

 風が冷たくないこと。

 ハルトが隣を歩いていること。


 全部、見えてしまう。


 だから、名残惜しかった。


 二人は外壁の門をくぐった。


 外へ出ると、王都の喧騒が少し遠くなる。

 道の先には、西へ続く街道が伸びていた。


「あいつら、なんで来ないんだろうな」


 ハルトがぽつりと言った。


 エルナは少しだけ笑う。


「うん。会いたかったな、もう一回」


「まあ、きっと会えるだろ」


「だといいね」


 それきり、二人は黙った。


 少し歩くと、道の脇に変哲もない荷馬車が止まっていた。


 派手な紋章もない。

 黒牙の印もない。

 ただの行商人の荷馬車にしか見えなかった。


 これが一度目の輸送手段だと、エルナは聞いている。


 ここから何度も馬車を乗り継ぎ、名前も顔も変えながら、大陸西の共和国を目指すらしい。


 荷馬車のそばに立つ男が、二人へわずかに頭を下げた。


 行商人のような服装。

 どこにでもいそうな顔。

 どこにでもいそうだからこそ、信用できるのだろう。


 エルナとハルトは、向かい合った。


 言葉が出なかった。


 言いたいことは、たくさんあった。


 もっと話したかった。

 もっと色んなところを見に行きたかった。

 もっと色んなものを一緒に食べて、笑って、泣いて、怒って。


 もっと一緒にいたかった。


 言葉にすれば、全部こぼれてしまいそうだった。


 エルナは唇をぎゅっと結び、荷馬車の方を見る。


「じゃあ、行くね」


 精一杯、普通の声を出した。


「またね、ハルト……」


「あぁ、また……」


 ハルトの声も、どこか遠かった。


 エルナは歩き出す。


 一歩。

 二歩。

 三歩。


 たった数歩なのに、とても遠くへ行ってしまったように感じた。


 ハルトの胸が熱くなる。


 肋骨の奥が、変なふうに痛んだ。


「エルナ!!」


 気づいた時には、手を伸ばしていた。


 ハルトは、エルナの手を握っていた。


 肋骨が痛む。

 右手も痛む。

 体中がやめろと言っている。


 それでも、離せなかった。


 エルナが振り返る。


「ハルト……?」


「エルナ、俺……」


 言葉が喉で引っかかった。


 言えなかった。


 行くな、とも。

 ここにいろ、とも。

 俺が全部どうにかする、とも。


 言えなかった。


 そんな言葉は、あまりにも無責任だった。


 ハルトは息を吸う。


「髪飾り……さ」


 エルナの指が、前髪の翡翠に触れた。


「うん……」


「今は、意味知ってるから」


 エルナの目に、涙が浮かんだ。


 ハルトは、声を絞り出す。


 泣くな。

 今は泣くな。

 そう思いながら、自分の喉も震えていた。


「約束だ」


 それだけだった。


「忘れんな」


 肝心なことは、何も言えていない。


 必ず迎えに行く。

 生きてろ。

 待ってろ。

 また会おう。


 全部、言えなかった。


 でも、その一言に、全部押し込めた。


 エルナは泣きながら、笑った。


「忘れないよ」


 昼の太陽に照らされた笑顔だった。


 暖かくて。

 綺麗で。

 でも、悲しみを必死に押し込めた笑顔。


「約束……盗まれないように、大事にしておくね!」


 ハルトは、何も返せなかった。


 ただ、少しだけ笑った。


 エルナは手を離す。


 荷馬車へ向かう。


 今度は、振り返らなかった。


 荷台の中へ入る。

 外からは中が見えないようになっている。


 男が手綱を握る。


 荷馬車が、ゆっくりと走り出した。


 車輪が土を踏む音がする。


 がたん。

 がたん。


 遠ざかっていく。


 ハルトは手を振らなかった。


 振っても、きっと見えない。


 それに、振れば、何かが本当に終わってしまう気がした。


 荷馬車は街道の先へ進む。

 春の光の中で、少しずつ小さくなっていく。


 やがて、見えなくなった。


 ハルトは、しばらくそこに立っていた。


 まるで、世界で一人になったようだった。


 胸の中が空っぽになる。


 騒がしかった一週間が、嘘みたいに消えていく。


 手の中に、さっきまであった温度だけが残っていた。


「はぁ」


 すぐ横から、ため息が聞こえた。


「白煙様は、意気地無しだな」


 ナザルが、ハルトの肩に寄りかかっていた。


「いつからいたんだよ」


「俺が先にいたんだよ」


「待ち伏せかよ」


「ルート確認だよ。俺は水路と荷の男だぜ?」


「じゃあ、仕事してたのか」


「半分な」


「残り半分は?」


「野次馬」


「最悪だな」


 ナザルはにやりと笑う。


「愛してる、行かないでくれエルナぁ! くらい言えねぇのか、お前」


「言えるか、そんなもん」


「エルナは表向き死んだことになってる。女の子一人くらい、この街じゃどうにでもなるぜ?」


「それじゃダメだ」


 ハルトは、荷馬車が消えた方を見る。


「エルナをまた危険に巻き込んじまう」


「お前が守るんだろ?」


「守る力をつける」


 ハルトは、手袋をはめた右手を握る。


「これからだ」


 ナザルは、しばらく黙った。


 そして、ふっと笑う。


「まあ、いいけどよ」


「なんだよ」


「飲み行くか?」


「……ナザル、お前、街の掃除は?」


「サボった!」


「じゃあ、ナザルの奢りな」


「お! いいねぇ。昼から飲むしかねぇな!」


「イグニスも呼ぼう」


「え、来るか? あいつ」


「イグニスが一番暇してるだろ」


「違いねぇや!」


 ナザルが笑う。


「あ、スイレンはダメだぜ。今頃ブチ切れてる」


「呼ばねぇよ。いや、呼べねぇ」


「怒られるもんな! お前と俺、同じ動物を見る目してるぜ!」


「ふざけんな。一緒にすんな」


「てめぇ、どういう意味だ!」


 ナザルがハルトの首に腕を回す。


「よーし、こうなったらどっちが飲めるか勝負だな!」


「いいぜ。なら、観客は多い方がいいよな」


「あー、大宴会だ!」


 ナザルが空へ拳を上げる。


「ミニ牙宴しよう! ミニ牙宴!!」


「なんだよそれ……」


 ハルトは呆れたように言った。


 けれど、少しだけ笑っていた。


「ん?」


 ナザルが顔を覗き込む。


「最高」


「だろ?」


 二人は、ルヴェリアへ戻っていく。


 馬鹿みたいな話をしながら。

 少しだけ空いた胸を、無理やり笑いで埋めながら。


 春風が舞う。


 西の草原から。

 東の海から。


 それぞれの風が、水の都で混じり合い、人々の頬を撫でていく。


 春の晴天に包まれた王都に、大鐘楼の音が響いた。


 水の都。

 世界一の経済都市。

 世界一の軍事国家。


 王都ルヴェリアは、陥落する。

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