第21話 黒い王子
翌日。
王城では、緊急国会が開かれていた。
王城の議場は、剣を交える場所ではない。
だが、その空気は戦場より重かった。
奥の高い位置には王座。
そこに、国王ゼクス・ルヴェリア・クリスタリアが座っている。
白髪交じりの金髪。
鋭い灰色の目。
疲れは見える。だが、玉座に座るだけで場を黙らせるだけの威厳があった。
その傍らには、総務大臣ハインツ・オルディン。
銀髪をきっちり後ろへ撫でつけた老紳士。
細身の体に、黒に近い濃紺の礼服。
片眼鏡の奥から議場全体を見渡す姿は、王の横に置かれた静かな刃のようだった。
王座より一段低い位置には、左右二つの長机が置かれている。
右側の長机には三人。
王騎卿クラウス・ロムウェル。
王国騎士団総務長。
グレーの長髪を持つ、穏やかな目の男。
首元には聖教会の聖環が下げられている。
外務卿バルトラム・クレイン。
薄く整えた口髭と、皺一つない上質な上着。
剣ではなく言葉を抜く男。
法務卿エルネスト・ハイゼル。
黒髪に白髪が混じり、細い目と薄い唇を持つ痩せた男。
感情よりも、条文と証拠を重んじる法の番人。
左側の長机にも三人。
政務卿レナード・アシュフォード。
栗色の髪を短く整えた、柔和な顔の男。
行政全体の調整役であり、王国という巨大な機械の歯車を知り尽くしている。
財務卿グレゴール・バルツァー。
禿げかけた頭と濃い眉。
小太りの体に、計算用の魔道具を仕込んだ指輪を嵌めている。
金庫番。数字で国を守る男。
そして、聖教会東支部大司教ラザロ・ヴェルハイム。
白と金の法衣。
胸元には大きな聖環。
柔らかな目と穏やかな微笑みを浮かべているが、その奥は読めない。
各卿の背後には、補佐官が二、三名ずつ控えている。
大司教の後ろにも、白い法衣の幹部たちが数名立っていた。
二つの長机は、中央を挟んで向かい合っている。
王を頂点とした、三角形の議場。
そこで、王都襲撃後初めての緊急国会が開かれた。
ハインツ・オルディンが、一歩前へ出る。
「これより、ルヴェリア国会を制定する」
淡々とした声だった。
感情はない。
しかし、議場の空気がその一言で締まる。
「議題は周知の通り、前日の南諸島連合艦隊による王都ルヴェリア襲撃事件である」
誰も声を発しない。
「特に、倉庫街周辺の港より強襲的に密入国した揚陸部隊による被害は甚大である。倉庫街、港湾設備、保管倉庫、水路周辺施設、民家、商会所有物、人的被害を含め、被害は現在も調査中」
ハインツは手元の書面をめくる。
「現時点での試算は、およそ百白銀貨」
議場に、低いざわめきが走った。
百白銀貨。
銅貨に直せば、一億。
それは小国なら、一年は動かせる額だった。
「倉庫街の復旧、被害者への支援、補償、失われた物流信用の回復を含めれば、この額はさらに増える。無論、減ることはない」
財務卿グレゴール・バルツァーの眉が、わずかに動いた。
ハインツは続ける。
「これは軍事的に見て、南諸島連合による宣戦布告と捉えられてもおかしくない、極めて深刻な問題である。本国会は、これにルヴェリア王国がどう対処するか、慎重に議論し、決定するためのものである」
言葉が落ちる。
最初に口を開いたのは、財務卿グレゴールだった。
「南諸島連合艦隊は、事前に入港審査書を提出していたと聞く」
グレゴールは、指輪をゆっくりと回す。
「それについては、どうお考えかな。外務卿」
視線が、外務卿バルトラムへ集まる。
バルトラムは、わずかに口髭へ触れた。
「提出はされていた」
声は落ち着いている。
「だが、内容は補給という名の空箱だった。指定港も不自然。外務として、あのような無作法な申請を通すことは、国益を損なうと判断した」
「破棄した際、挑発的な言葉を添えたとも聞いているが」
グレゴールの声は、数字を読む時と変わらない。
バルトラムは微笑まなかった。
「今後もこのような無作法を続けるなら、関係を断つ用意があると伝えたまでだ」
「それで逆上した、という可能性は?」
「仮にそれで逆上したとしても」
法務卿エルネストが、静かに割って入った。
「法治国家として、看過できるものではない」
細い目が、大司教の方ではなく、議場の中央へ向けられている。
「軍旗を隠し、識別票を外し、港へ密入国し、揚陸戦を仕掛けた。国際法に照らせば、罪は明白に南諸島連合側にある」
その言葉に、数名の補佐官が小さく頷いた。
だが、政務卿レナード・アシュフォードが口を開く。
「問題は、それだけではありません」
穏やかな声だった。
だが、議場に落ちたそれは、石のように重い。
「昨日、倉庫街で大きな爆発があったと聞く。市中では、アニマの存在も囁かれている」
その瞬間、議場がざわついた。
アニマ。
その言葉だけで、空気が変わる。
魂晶種。
絶滅したとされる亜人。
魂晶核。
兵器転用。
禁忌の実験。
誰もが知っている。
だが、国会の場で軽々しく口にする言葉ではない。
レナードは続けた。
「そのアニマを持ち込んだのが黒牙であるなら、南諸島連合はそれを事前に回収しようとしたのではないか」
「所在は不明だ」
バルトラムが答える。
「だが、もともと南諸島連合の管理下にあったものを、黒牙が奪った可能性はある。でなければ、ここまでの襲撃に踏み切る理由が薄い」
「ただし」
エルネストが再び口を開いた。
「法的に真に問題となるのは、アニマの人体実験および兵器開発だ。護送そのものが、ただちに違法とは限らない。国の保護下に置くこと自体は、むしろ正当化される余地がある」
細い指が、机の上を一度だけ叩く。
「それを黒牙が奪ったとなれば、立場が危ういのは我々です。違いますかな、陛下」
議場の視線が、国王へ集まる。
ゼクス王は、しばらく黙っていた。
そして、重い口を開く。
「……ゼギルか」
その名が落ちた瞬間、議場の空気がさらに重くなった。
ゼギル。
黒牙団長。
ルヴェリアの裏に君臨する男。
そして、この議場にいる者の多くが、本当は知っている名。
クラウスがゆっくりと息を吐く。
「ならば次に問いたい」
グレゴールが、今度は王騎卿へ視線を向ける。
「王騎卿。なぜ騎士団の出動は遅れたのか」
指輪が、かすかに音を立てる。
「王都の中枢戦力が二十分遅れる。これは、給料泥棒と呼ばれても仕方ないのでは?」
クラウス・ロムウェルは、顔色を変えなかった。
「我々はいかなる時も備え、迅速に行動する。今回もそれを違えたつもりはない」
穏やかな声。
だが、王騎卿の言葉には芯があった。
「ただし、命令が交差した。待機と出動が同時に出た。現場は混乱し、団長アレクシス・レインフォードが個人判断で出動を決断した」
議場の数人が、アレクシスの名に反応する。
「結果として、被害は最小限に抑えられた」
「最小限?」
グレゴールの目が鋭くなる。
「この損失で?」
財務卿の声が、少しだけ低くなった。
「むしろ、国防の穴を世界に露呈したようなものだ。奇襲してくださいと言わんばかりではないか」
「その待機命令については、こちらでも調査中だ」
バルトラムが、静かに言う。
「だが、聖教会筋の伝令が関わっているとの報告がある」
議場が一瞬、静まった。
視線が、左側の長机の端へ向く。
聖教会東支部大司教、ラザロ・ヴェルハイム。
ラザロは、微笑みを崩さなかった。
「馬鹿な。我々がそのようなことをするはずがない」
柔らかな声だった。
「仮に、末端で何かあったとしても、我らの教えは平和を望むもの。無駄な争いを好まぬだけでしょう。王騎卿のように、力で解決しようとする者たちとは違う」
クラウスの目が、わずかに細くなる。
だが、先にバルトラムが言った。
「答えになっていませんな」
短い一撃だった。
ラザロの背後に控えていた聖職者の一人が、眉をひそめる。
そこで、政務卿レナードが口を開いた。
「こちらも調べが出ている」
柔和な顔のまま、議場に別の刃を落とす。
「確証には至っていない。だが、ある筋から、昨夜の戦闘でゼギルが深淵を行使したとの報告がある」
今度こそ、議場が大きくざわめいた。
深淵。
それは、ただの魔法ではない。
悪魔の力。
聖教会が、最も忌むものの一つ。
ラザロの微笑みが、わずかに深くなる。
「深淵。悪魔の力ですな」
大司教は、ゆっくりと国王を見た。
「これがどういう意味を持つか、お分かりですかな、陛下」
白と金の法衣が、議場の灯りを受けて淡く光る。
「聖教会にとって、悪魔の力の行使はアニマなど比にならぬ大罪。ましてや、それを行使したのが王家の血を引く者であるなら」
王座の横で、ハインツ・オルディンの額に汗が浮かんだ。
クラウスも、バルトラムも、エルネストも、言葉を発しない。
国王ゼクスは、重く息を吸った。
「それは……」
その時だった。
議場の扉が、音を立てて開いた。
全員の視線が向く。
黒い外套の男が入ってきた。
足音に迷いはない。
肩で風を切るように、真っ直ぐ議場の中央まで歩く。
ゼギルだった。
その後ろには、副団長ヴァイス・オルディンの姿もある。
「ゼギル……!」
国王の声が、議場に落ちた。
ゼギルは王座の前、議場の中央で足を止める。
ヴァイスはその後ろへ進み、国王に向かって静かに膝をついた。
「ヴァイス……」
ハインツ・オルディンが、思わず名をこぼした。
黒牙副団長。
虚空のヴァイス。
だが、その名を呼ぶ声には、犯罪者へ向けるものとは違う響きがあった。
ヴァイスは頭を垂れる。
「ご無沙汰しております。ルヴェリア陛下、ハインツ様。このような無配慮な入室をお許しください」
「よい」
ゼクス王は、重く息を吐いた。
「ゼギルは、今に始まったことではない。のう?」
ゼギルは、王座を見上げる。
「このくだらないごっこ遊びはなんだ? 父上」
「国王陛下に向かって無礼であるぞ!!」
ハインツが声を荒げる。
だが、ゼクスは片手を上げた。
「よい。それを言うために来たのでもあるまい」
「話が早いな」
「今更、何をしに戻られた?」
政務卿レナードが、静かに問う。
穏やかな顔に、わずかな緊張が走っている。
「ゼギル・ルヴェリア・クリスタリア王子」
その名が議場に響いた。
空気が変わる。
ラザロ・ヴェルハイムが、そこで初めて楽しげに目を細めた。
「これはこれは。死んだはずのゼギル王子ではありませんか」
白い法衣の大司教は、柔らかく笑う。
「黒牙の団長と名前が同じなのは、偶然にしては出来すぎていると思っておりましたが……」
ゼクス王が、重く言う。
「ゼギル、もうやめにせぬか」
議場の誰もが、息を呑む。
「城に戻れ。セシリアも、お前の身を案じておるぞ」
ゼギルは、しばらく黙っていた。
それから、口元だけで笑う。
「戻れと言う前に」
声が、議場を切った。
「聖人の仮面を被った、面従腹背の秘匿主義者どもと手を切ったらどうだ」
大司教の背後に控えていた聖職者たちが、色を変える。
ラザロの微笑みも、ほんの少しだけ薄くなった。
「その言葉、聖教会への侮辱と受け取りますが?」
「侮辱じゃねぇ」
ゼギルは、大司教をまっすぐ見る。
「評価だ」
「貴様!!」
大司教の背後にいた聖職者の一人が叫んだ。
次の瞬間。
ゼギルの瞳が、そちらを向いた。
「黙れ」
それだけだった。
ただ、それだけで、男の膝が抜けた。
床に尻をつき、口をぱくぱくと動かす。
声は出ない。
理由のない恐怖が、男の喉を握り潰していた。
「下がりなさい」
ラザロが静かに言う。
聖職者は、震えながら後ろへ下がった。
ラザロは、改めてゼギルを見る。
「しかし、ちょうど良いところに戻られた。身を案じておりましたぞ、ゼギル王子」
「白々しい」
「昨夜、深淵を行使したという報告があります」
大司教の声は柔らかい。
「聞かせていただけますかな?」
議場が静まる。
ゼギルは、あっさりと言った。
「使った」
ざわめきが走る。
国王の指が、王座の肘掛けを握った。
ラザロの微笑みが深くなる。
「悪魔の力を使ったと?」
「ああ」
ざわめきが大きくなる。
ゼギルは、面倒くさそうに肩を回した。
「俺のユニークスキル、深淵七禍は、王家の血筋に稀に現れる突然変異だ」
議場が静まり返る。
「子供の頃から困ったぜ。契約もしてねぇのに、悪魔の力を無条件で使えるんだからな」
「これで決まりましたな」
ラザロが、静かに言った。
「南諸島連合が深淵と悪魔を確認した以上、我々に抗議する権利はないのです」
ゼギルの目が、細くなる。
「悪魔の尻尾を出したのはお前だ」
「は?」
ラザロの微笑みが止まる。
先に口を開いたのは、外務卿バルトラムだった。
「聞き間違いでなければ」
バルトラムは、ゆっくりと口髭に触れた。
「深淵を確認したのが南諸島連合であるとは、どなたも発言していないと存じますが」
法務卿エルネストも続く。
「ええ。記録上もありませんな」
細い目が、大司教を捉える。
「なぜ、南諸島連合が確認したと断言できたのですかな?」
「い、いや」
ラザロの背後にいた聖職者たちが、わずかにざわつく。
大司教は、すぐに笑みを作り直した。
「話が混ざっただけでしょう。南諸島連合の襲撃、深淵の報告、いずれもこの場で語られていたことです」
「そうか」
ゼギルが言った。
「なら、もう一つ聞こう」
議場の空気が、さらに沈む。
「ここ一週間、あらゆる手段を使った」
ゼギルは、ラザロを見たまま続ける。
「南にアニマを引き渡した連中は……聖教会の連中だ」
議場が凍った。
「この意味が分かるか?」
「世迷言を」
ラザロの声が、初めて硬くなった。
「ありえぬ。聖教会がアニマの売買に関わるなど、あるはずがない」
「あり得ぬ、か」
ゼギルは、少しだけ笑った。
「その言葉が出るのが早すぎるな」
「証拠もなく、聖教会を貶める気か」
「証拠?」
ゼギルは、ゆっくりと右手を上げた。
「覗くか?」
空気が震えた。
「深淵を」
議場の床に、黒が滲む。
光を吸うような闇。
音を殺すような闇。
そこにあるだけで、理由のない恐怖が肌を撫でる。
ゼギルの声が落ちた。
「深淵魔法」
黒が、口を開く。
「第七禍」
議場の何人かが、椅子から腰を浮かせた。
「色欲の悪魔」
深淵から、何かが落ちた。
鈍い音。
白い法衣を汚した死体だった。
議場に悲鳴が上がる。
聖教会の幹部たちが、顔色を変えた。
死体は、酷い有様だった。
目は潰されている。
歯は何本も抜けている。
爪は剥がされている。
口元は血で固まり、白い法衣は黒ずんだ赤に染まっていた。
だが、その死体の口が動いた。
死者の喉から、声が漏れる。
それは、生きた人間の声ではなかった。
深淵に喉を掴まれ、吐かされる声だった。
南へ流したアニマの名。
売買に関わった教会筋の連絡役。
奴隷商の名。
裏商会の帳簿。
カラント軍港へ向かった輸送許可。
南諸島連合側の受け取り窓口。
そして、中央聖都クリソストモスの一部勢力との接触。
死体は、隠していたものを吐き続けた。
議場から、音が消えていく。
ラザロの顔色が変わっていた。
微笑みは消えている。
ゼギルは、それを見た。
「知ってる顔か」
低い声だった。
「都合よく消したつもりだったか?」
「死者を愚弄し、弄ぶとは……!」
ラザロの声が震えた。
ゼギルは、床に転がる死体を見下ろす。
「弄んだのは俺じゃねぇ」
その声には、怒りよりも冷たさがあった。
「目を潰し、歯を抜き、爪を剥がし、吐かせた後に殺した」
ゼギルは、ラザロを見る。
「俺はそいつを拾って、深淵に落としておいただけだ」
「あ、悪魔め……!」
「馬鹿を言え」
ゼギルは笑わなかった。
「俺は悪魔じゃねぇ」
深淵が、ゼギルの足元で静かに揺れる。
「悪魔は、使役しているだけだ」
議場の空気が凍る。
「七大悪魔は、全て調伏している」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
ゼギルは議場を見渡す。
「分かったろ、国王。ここにいる全員もだ」
彼の声は、議場の隅まで届いた。
「こいつらは南と聖都クリソストモスの一部勢力と共謀して、アニマの軍事開発、人体実験を行おうとしている」
ラザロの背後で、聖職者の一人が後ずさる。
「そのうえで、王家の血筋の深淵を理由に、戦争をふっかけるつもりだ」
ゼギルは、ラザロを見た。
「めくれてるんだよ」
黒い瞳が、深く沈む。
「まだやるか?」
「ぐ……ぐぅ……!」
ラザロの喉から、低いうめきが漏れた。
国王ゼクスが、静かに言った。
「聞かねばなるまいな」
その一言で、衛兵が動く。
「連れて行け」
「陛下! これは謀略です! 悪魔の術に惑わされてはなりません!」
ラザロが叫ぶ。
だが、衛兵は止まらなかった。
「離せ! 私は聖教会東支部大司教であるぞ!」
白と金の法衣が乱れる。
聖職者たちも連れていかれる。
抵抗する者は衛兵に押さえ込まれ、引きずられていった。
議場の扉が閉まる。
重い音だった。
残ったのは、青ざめた政務卿と財務卿だった。
ゼギルの視線が、二人へ向く。
「どこまで知ってたかは知らねぇ」
レナードの喉が鳴った。
グレゴールの指輪が、震えている。
「だが、聖教会の甘言は悪魔より黒い」
ゼギルの周囲の闇が、わずかに脈打った。
「決めな」
黒い恐怖が、床を這う。
「どっちに乗るか」
「我々は……嵌められたのだ」
レナードが、かすれた声で言った。
「こんなはずでは……」
「そんなところだろうな」
ゼギルの声は冷たい。
「次に深淵から出る死体は、お前らかもしれねぇ」
恐怖が二人を撫でた。
財務卿グレゴールの顔が、真っ青になる。
政務卿レナードの手が、机の上で震えた。
誰も笑わなかった。
ゼギルは、もう二人を見ていなかった。
踵を返し、議場を出ようとする。
「ゼギル・ルヴェリア・クリスタリア」
国王の声が、背中に届いた。
ゼギルの足が止まる。
「城に戻ってこい」
ゼクス王は、玉座から動かなかった。
だが、その声だけは、先ほどまでの王のものではなかった。
「世には、お前とセシリアしか後継がおらんのだぞ」
ゼギルは振り返らない。
「戻る気はねぇ」
短い返答だった。
「俺は、この国に仕えたままじゃ、一生真実に辿り着けない」
「真実、か」
国王は目を伏せた。
「真実の石版のことなら、知っておる」
議場の空気が、再び変わる。
王騎卿クラウスが、わずかに目を細めた。
外務卿バルトラムも、口を閉ざす。
「だが、知ったから何だ」
ゼクスは言う。
「世界はもう神話では回っておらん。経済があり、民が生き、国が回っておる」
ゼギルが、ようやく振り返った。
「それだよ」
その目は、王ではなく、国そのものを見ているようだった。
「ルヴェリア王とミカエルの約束を、反故にする気はねぇ」
議場が静まり返る。
「知ってしまったからには、必ず履行する責任がある」
ゼギルの足元の闇が、静かに揺れた。
「少なくとも、この権能にはな」
ゼクス王は、黙っていた。
ゼギルは続ける。
「深淵七禍は、先人の王の遺産だろ」
その言葉に、ハインツの顔色が変わる。
「この力は、神へ届く黒い牙だ」
ゼギルは、王座を見上げた。
「知ってるよな?」
国王は、答えなかった。
答えられなかったのではない。
答える必要がなかった。
ゼギルは、低く告げる。
「俺たちは必ず神殺しをする」
その言葉は、狂気ではなかった。
誓いだった。
「邪魔をするなら、この国も潰す」
「ゼギル……」
国王の声が、少しだけ揺れた。
その時、ハインツ・オルディンが椅子から立ち上がった。
「ヴァイス!!」
ヴァイスが、静かに顔を上げる。
「……父上」
議場に、別のざわめきが走った。
総務大臣ハインツ・オルディン。
副団長ヴァイス・オルディン。
同じ姓。
同じ家筋。
ハインツは、震える声を抑えて言う。
「お前は、どうなんだ」
その声には、総務大臣ではなく、一人の父の色が混じっていた。
「今からでも戻れる。王城に、お前の席はある」
ヴァイスは、ゆっくりと頭を下げた。
「私は幼少の頃より、ゼギル様にお仕えしました」
硬い声だった。
「その信念を変える気はありません」
ハインツは、しばらく何も言えなかった。
やがて、唇を震わせる。
「そうか……」
片眼鏡の奥で、目が濡れていた。
「お前……立派になったな」
ヴァイスの表情は崩れなかった。
ただ、深く頭を下げる。
「父上」
短い沈黙。
「申し訳ございません」
ゼギルが言った。
「行くぞ、ヴァイス」
「はっ……!」
次の瞬間、空間が硝子のように砕けた。
議場の中央に、ひび割れた透明な破片が浮かぶ。
その向こうへ、ゼギルとヴァイスの姿が消えていく。
砕けた破片が、何事もなかったかのように元へ戻る。
二人の気配だけが、議場から消えていた。
残された議場に、重い沈黙が落ちる。
ハインツ・オルディンが、深く頭を下げた。
「申し訳ありません」
国王ゼクスは、しばらく目を閉じていた。
「よい」
その声は、疲れていた。
「わしも止められなんだ」
右側の長机で、バルトラム・クレインが静かに口を開く。
「私は、ゼギル王子と同意見です」
国王の目が、外務卿へ向く。
クラウス・ロムウェルも続いた。
「私もです。この虚構の二百年、変えられるなら変えたい」
バルトラムは、淡々と言う。
「しかし今、かの約束を果たせるのは、ロード・オブ・ザ・アビスを持つゼギル王子しかいないでしょう」
国王は、ゆっくりと息を吐いた。
「主らは、親心を分かっておらぬ」
バルトラムとクラウスが、目を合わせる。
そして、同時に頭を下げた。
「失礼いたしました、陛下」
王城の議場には、まだ血の匂いも煙もない。
だがこの日。
ルヴェリアの奥で、静かに何かが砕けた。
面白いと思って頂けたら高評価ブックマークお願いします!




