第18話 大海水牢
南側倉庫港の海は、すでに戦場というより災害だった。
海面には、折れた帆柱が浮いている。
砕けた甲板。
千切れた軍旗。
割れた樽。
そして、南諸島連合の兵たちが必死にしがみつく木片。
一隻は沈んだ。
巨大な戦艦は、大太法師の質量に叩き潰され、今は半分以上を海の下へ沈めている。
もう一隻は中破。
マジックシールドシステムは砕かれ、船腹に大穴が開き、甲板は波に洗われていた。
残る戦艦は、一隻。
その船首を、氷の外殻を纏った巨大な海の腕が掴んでいる。
大太法師。
海水の肉体に、スイレンの氷が骨格と外殻を与えた巨人。
その巨人が、残った最後の戦艦を見下ろしていた。
その艦橋に、ドミニク・ラゼルはいた。
栗色のくるくる髪は潮風で乱れ、白手袋は手汗で濡れている。
鼻につくほど整っていた軍服も、今は震える肩で皺だらけだった。
ナザルは、ダイダラボッチの頭上から、そんなドミニクを見下ろす。
「恨むなよ、ドミニク」
巨大な氷の拳が、ゆっくりと握り込まれていく。
「元はと言えば、俺たちが盗んだ」
「だが、それでも取り返すっていうんなら」
ナザルの口元が、笑った。
「盗賊流のお返しになるってもんだ」
ドミニクの顔から血の気が引いた。
「あぁ……嫌だ……」
膝が震える。
白手袋の指が、艦橋の手すりにしがみつく。
「死にたくない!!」
ドミニクの足元に、水たまりが広がった。
恐怖で漏らしたのだ。
それを見ても、ナザルの表情は変わらない。
戦場で命を奪いに来た者が、命乞いをする。
そんなものは珍しくもない。
「スイレン!」
「はい」
ナザルの隣で、スイレンが静かに手を上げた。
冷気が、巨人の腕へ集まる。
海水の肉。
氷の骨格。
氷の外殻。
質量の拳。
ダイダラボッチの拳が、最後の戦艦へ向かって振り下ろされようとした。
「氷河巨拳!!」
「ナザル」
その声は、耳元で聞こえた。
「うん?」
ナザルの眉が動く。
拳が止まった。
ほんの少し。
戦艦を砕く寸前で。
「ミレーユか?」
「そうよ」
軽い女の声。
ナザルの肩に、細い念糸がついていた。
いつの間に張られたのか分からない。
ナザルは肩を見て、少しだけ顔をしかめた。
「いつの間に」
「それより、まずいことになったわ」
ミレーユの声から、いつもの余裕が消えていた。
「エルナのコアが暴走させられてる。このままじゃ、街が吹っ飛ぶわよ」
「なに!?」
ナザルの顔が変わった。
ダイダラボッチの拳が、戦艦の目前で止まったまま震える。
「どうすんだよ!!」
「熱を下げるしかないと思う」
ミレーユの声が続く。
「あなたの出番でしょ」
「無茶言うなよ! 俺は海じゃ強いが、陸じゃどうしようも……」
「持っていけばいいじゃない」
「なにを」
「海」
ナザルが黙った。
スイレンも、黙った。
ほんの一瞬、波の音だけが残る。
「……マジですか」
「マジよ」
「お前、たまにとんでもねぇこと言うよな」
「あなたならできるでしょ?」
ナザルは、海を見た。
自分の足元に広がる、どこまでも続く大海。
この場所なら、ナザルは強い。
海と繋がっている限り、ナザルは大海の力を受け取れる。
海の恩寵が、海そのものを味方につける。
だが、それを切り離す。
海水を巨大な水球として持ち上げ、陸の奥、時計塔まで運ぶ。
理屈ではできる。
だが、理屈でできることと、体が持つことは別だ。
「ナザル様」
スイレンが静かに言った。
「それは、体に負担が大きすぎます」
「だろうな」
「海と繋がった大海を扱うのと、陸地に海を切り離すのは全然違います」
「あなたの海の恩寵は、海の加護を受けています」
「ですが、陸では半減しています」
スイレンの声は冷静だった。
だが、その冷静さが、逆に危険を物語っていた。
「海水なのが幸いしています。けれど、身体が持つかどうか」
ナザルは鼻で笑った。
「時計台までもちゃあいい」
「死んだ時は、たっぷり寝れるだろ?」
「そうですね」
スイレンは、あっさり頷いた。
「その時は一緒です」
「お前は死なないだろ?」
「ナザル様がいないと、過労で私も死にます」
スイレンは涼しい顔で言う。
「一蓮托生です」
ナザルは一瞬だけ目を丸くし、それから笑った。
「はっ。そうだな!」
ダイダラボッチの拳が、ゆっくりと開く。
掴まれていた戦艦が、海面へ落ちた。
激しい波が立ち、戦艦が大きく揺れる。
ドミニクが艦橋で叫んだ。
「と、止まったのか!?」
ダイダラボッチの氷外殻が、剥がれていく。
ぱきん。
ぱきん。
巨大な氷の腕から、外殻が割れ、海へ落ちる。
氷の巨人が崩れていく。
ドミニクは、顔を引きつらせながら笑った。
「か、勝った……?」
震えた声が、少しずつ大きくなる。
「勝った! 私たちの勝利だ!!」
「だ?」
ナザルの声が、海の上から落ちた。
次の瞬間。
海が、もう一度浮き上がった。
戦艦の船首が、大きく持ち上がる。
「う……うわぁぁぁ!!」
ドミニクの悲鳴が艦橋から響く。
だが、ナザルはもう戦艦を見ていなかった。
戦艦を潰すための海ではない。
街を救うための海だ。
海面が大きくへこんだ。
巨大な水が、海から切り取られていく。
丸い。
あまりにも巨大な水球。
家屋より大きい。
倉庫より大きい。
見上げる兵たちの顔に、大きな影が落ちる。
それは、海が空へ持ち上げられる光景だった。
「大海魔法」
ナザルの鼻から、血が一筋流れた。
スイレンがわずかに目を細める。
ナザルは、それでも笑っていた。
「大海水牢」
巨大な水球が、空へ浮かぶ。
海から切り離された水の塊。
それなのに、水球の内側では海流が渦を巻いていた。
スイレンが、小さく息を吐いた。
「流石です、ナザル様」
「お前が褒めるなんて珍しいな」
ナザルは鼻血を拭わず、笑った。
「海が空から降っちまうぜ?」
「今、降らせようとしているのはナザル様です」
「違ぇねぇ」
ナザルは、肩越しに念糸へ向けて叫んだ。
「ミレーユ! あとは任せろ! けど、できれば団長にも伝えろよ!」
「……わかったわ。お願いね」
念糸越しに、ミレーユの声が消える。
ナザルは、スイレンを見た。
「スイレン」
「はい」
「俺はもう、仲間が死ぬのを黙って見てるのはごめんだ」
スイレンは一瞬だけ、目を伏せた。
「カイル……ですか」
「あぁ」
ナザルの声が、低くなる。
「ハルトも、エルナも、仲間だ」
「俺は、何があっても守る」
「そう決めたんだ」
スイレンは、静かに頷いた。
「それを、私は手伝えないですよ」
今の大海水牢は、ナザルの領域だ。
海の加護。
ワダツミの支配。
スイレンの氷彫刻では、海を切り離して運ぶ負荷を肩代わりできない。
「いい」
ナザルは前を見た。
「傍で見てろ」
「分かりました」
巨大な水球が、王都ルヴェリアの空へ進み始めた。
春の空は、雲ひとつなかった。
なのに、戦場になった王都が曇った。
家屋よりも大きな水球が、上空を通り過ぎていく。
雲ではない。
海だ。
水の影が、屋根を覆う。
通りを覆う。
戦場になった街を、暗く染める。
「うっ……」
ナザルの鼻血が、さらに溢れた。
赤い血が顎を伝い、海風に飛ぶ。
「ナザル様」
スイレンが寄り添うように、水球の側面に立つ。
「無理をしている自覚はありますか?」
「今さら聞くなよ」
「ありますね」
「まぁな」
ナザルは笑った。
「けど、時計台までもちゃあいいんだろ?」
「はい」
「なら問題ねぇ」
巨大な水球は、街の上を進む。
その中心で、ナザルは血を流しながら、海を持っていた。
大鐘楼の踊り場。
ハルトは肩で息をしていた。
右手は、パラサイトコアの熱で焼けている。
手の感覚はもうない。
それでも、冷気を流し続ける。
エルナはハルトの手に自分の手を重ね、必死に魔力の流れを整えていた。
ハルトの冷気。
エルナの魔力。
パラサイトコアを通じて、二つの流れを循環させる。
吸われた魔力を、魂晶核へ戻す。
少しは抑えられている。
だが、足りない。
パラサイトコアの熱は、なおも上がっていた。
「ハルト……!」
「大丈夫だ……エルナ……気を抜くな……」
「う、うん……でも、熱が……」
ハルトは、歯を食いしばる。
このままでは、どうしようもない。
それだけは理解していた。
冷やしている。
循環もできている。
それでも、熱の上昇が止まらない。
パラサイトコアが、エルナの魂晶核からエネルギーを吸い続けている。
このままでは、臨界を超える。
その時だった。
「ヒーローのお出ましだぜ!!」
聞き慣れた声が、空から落ちてきた。
春の、雲ひとつない街が曇る。
違う。
雲ではない。
巨大な水塊だ。
大鐘楼の外に、家よりも大きな水球が迫っていた。
「な、ナザルか!?」
「あたりめーだろ! 俺以外誰がいる?」
水球の側面に、ナザルが立っていた。
鼻血を流し、顔色は悪い。
それでも、いつもの軽い笑みを浮かべている。
「ハルト! エルナ!」
「ナザルさん!!」
エルナが叫ぶ。
「礼はいらねぇぜ!」
ナザルは片手を上げた。
「大海水牢!!」
「待て!! ナザル!?」
ハルトが叫ぶより早く、巨大な水球が大鐘楼を呑み込んだ。
水が踊り場を包む。
塔を包む。
ハルトも、エルナも、パラサイトコアも、水の中へ呑まれていく。
「ごぼぼっ……!」
ハルトは思わず口を押さえた。
だが、苦しくない。
「あれ、これ……」
「息できるぜ」
ナザルの声が、水の中で普通に聞こえた。
水の中なのに、声が届く。
息もできる。
「それも海の加護。俺のユニークスキル、海の恩寵の効果だ」
「本当にすごかったんだな、お前……」
「今さらかよ!」
ナザルが笑う。
その間にも、大海水牢の内側で海流が生まれた。
パラサイトコアの周囲へ、水が集まる。
熱が、海流に引き剥がされていく。
エルナの胸元で暴れていた熱が、一気に落ち着いた。
「す、すごい……!」
エルナが目を見開く。
「これなら……落ち着きそうだ……」
ハルトも、ほんの一瞬だけ息をついた。
だが。
海水の温度が、みるみる上がっていく。
大海水牢の内側に、熱が溜まる。
パラサイトコアは、まだエネルギーを吸い続けている。
冷やしても、冷やしても。
熱が湧き上がる。
「嘘だろ」
ナザルの顔が引きつった。
「エルナちゃん! もう少し熱抑えらんねぇ!?」
「む、無理だよ!!」
「だよなぁ!」
ハルトが叫ぶ。
「ナザル! どうにかなんねぇか!?」
「無理だ! やれるだけやってる!」
水球の近くで、スイレンが手をかざしていた。
彼女の周囲の海水が凍り、また溶ける。
氷を作り、水温を下げる。
下げた端から、熱が奪っていく。
「スイレン!」
「やれるだけやって、みんなで寝ましょう!!」
「スイレン! その寝ましょう、怖いやつだ!」
ナザルが叫ぶ。
それでも、誰も手を止めない。
ナザルは大海水牢を維持し続ける。
スイレンは水温を下げ続ける。
ハルトは冷気を流し込む。
エルナは魔力を循環させる。
それでも。
パラサイトコアの熱は、上がり続けていた。
赤黒い生体兵器が、脈動する。
バクン。
バクン。
水の中で、危険な光が膨らんでいく。
ハルトは歯を食いしばった。
ナザルは鼻血を流しながら、水球を支えた。
スイレンは、凍る指先で氷を作り続けた。
エルナは涙を浮かべながら、それでも手を離さなかった。
正午は、すぐそこまで迫っていた。
熱は、まだ上がり続けていた。
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