第17話 奪い返す
黒い氷翼が、勢いよく広がった。
羽ばたき、というには荒すぎる。
黒血を凍らせた歪な翼が、空気を殴るように叩いた。
次の瞬間、ハルトの体が屋根から跳ね上がる。
黒い閃光。
白煙を裂き、冷気を撒き散らしながら、ハルトはバジリオへ突っ込んだ。
「来るか、白煙!!」
バジリオの右腕が蠢く。
片方では、獅子が口を開いた。
もう片方では、狼の爪が伸びた。
「魔獅子! ウルフエッジ!」
猛火と黒い爪が、同時にハルトを迎え撃つ。
だが、今のハルトは空中で止まらない。
黒い氷翼が、無理やり体を捻る。
空纏衝が背後で爆ぜる。
炎を掻い潜る。
頬を焼く熱。
肺を焦がす空気。
それでも、ハルトは突っ込んだ。
バジリオの腕から、無数の毒針が飛ぶ。
「深淵の魔眼!!」
右目が黒く染まり、奈落の門が開く。
毒針が闇に呑まれて消えた。
右目から黒血が流れる。
頬を伝い、顎から落ちる。
それでも、ハルトは止まらない。
「氷結斬!!」
「ウルフエッジ!」
黒い狼爪と氷の刃がぶつかる。
氷片が砕け、白煙の中に散った。
空中戦。
屋根の上ではない。
路地でもない。
倉庫街の上空で、二人は何度も交差した。
ハルトは黒い翼で無理やり空を蹴る。
バジリオは夜蝙蝠の翼で自在に舞う。
ハルトが右へ跳べば、バジリオが追う。
バジリオが炎を吐けば、ハルトは体を捻って避ける。
毒針が迫れば、タルタロスが呑む。
狼爪が走れば、黒鋼の短剣と氷刃が受ける。
それでも、完全には避けきれない。
ハルトの肩が裂ける。
脇腹に火傷が走る。
耳の奥で、まだ超音波の残響が暴れている。
バジリオも無傷ではない。
黒い氷片が頬を切る。
左肩の傷口が凍る。
義肢の表面に、黒い霜がこびりつく。
「見えているのに食らう攻撃……!」
バジリオの赤い義眼が、歓喜に揺れた。
「刺激的だぞ、ハルト!!」
「気色悪ぃんだよ」
ハルトは吐き捨てた。
手のひらから黒い血が滴る。
それを、凍らせる。
黒血が氷へ変わり、掌の中で槍の形を取った。
通常の氷ではない。
黒く、脈打つように冷たい氷。
「深淵氷槍」
ハルトは黒い氷槍を掴み、力任せに投げた。
空気を裂いて、黒槍が飛ぶ。
「魔獅子!!」
バジリオは猛火で迎え撃つ。
炎が黒槍を包む。
だが、溶けない。
黒い氷槍は炎を突き抜け、バジリオの左肩へ突き刺さった。
「ぐっ……!」
バジリオの体が空中で揺れる。
赤い義眼が、槍を見た。
「溶けない黒氷……!」
「なんなんだこれは……!」
肩を貫かれているというのに、バジリオは笑った。
「最高だ!!」
ハルトは答えない。
もう一本。
さらに、もう一本。
手から流れる黒血を凍らせ、次々に黒い氷槍を作る。
「深淵氷槍」
投げる。
作る。
投げる。
黒い槍が、倉庫街の空を埋めていく。
バジリオはナイトバットの翼で飛び回り、回避する。
避けきれない槍は、ウルフエッジで弾く。
炎で焼く。
毒針で軌道を逸らす。
それでも、黒氷は完全には止まらない。
肩に刺さる。
脇腹を掠める。
義肢の装甲に突き立つ。
バジリオは血を流しながら、恍惚と笑っていた。
「いい」
「いいぞ、ハルト」
「私の義眼が捉えている。軌道も、出力も、魔力の流れも見えている」
黒い氷槍が、バジリオの頬を裂く。
「だが、見えているのに食らう」
「この矛盾がたまらない!!」
ハルトは空中で翼を翻す。
体から黒い血が散る。
それが白煙の中で凍り、細かな黒氷となって落ちた。
バジリオの腕が、大きく変形する。
獅子の顎。
蝙蝠の喉。
狼の爪。
複数の獣が、ひとつの義肢の中で絡み合う。
「獅子蝙蝠音咆哮!!」
獅子の咆哮が爆ぜた。
同時に、ナイトバットの超音波が重なる。
炎の咆哮。
音の衝撃。
二つが混ざり、空気そのものが振動する。
不可避の振撃。
ハルトの体が、空中で弾けたように揺れた。
「がっ……!」
全身から血が噴き出す。
耳から。
鼻から。
裂けた傷口から。
黒く濁った血が、白煙の中に散る。
黒い氷翼が砕けかけた。
ハルトの体が、落ちる。
倉庫街の屋根へ向かって、真っ逆さまに。
「あぁ……」
バジリオが、惜しむように呟いた。
「堕ちてしまうのか、ハルト……」
ハルトは動かない。
腕も。
足も。
翼も。
黒い血を撒きながら、ただ落ちていく。
バジリオは、赤い義眼を細めた。
「そんなわけないよな」
笑う。
「実験を続けよう」
落下するハルトの背中で、黒い氷翼が大きくはためいた。
空気が砕けるような音がした。
ハルトの体が、落下を拒む。
黒い氷翼が、死にかけた体を空へ引き戻す。
ゆっくりと、ハルトが顔を上げた。
鋭い目。
黒い右眼。
赤い瞳。
口元から、白い吐息が漏れる。
空気が震えていた。
深淵鼓動の振動が、体の内側だけでは収まらず、外へ流れ出している。
バジリオの顔が、満足げに歪んだ。
「立ち上がってくれると思ったよ」
だが、次の瞬間、バジリオの体がぐらりと揺れた。
失った左腕。
焼いた傷口。
削れた義肢。
過剰出力。
バジリオ自身も限界だった。
「だが、私の身体が持たない」
「申し訳ない」
バジリオは、壊れかけた義肢をハルトへ向けた。
「お互い、決めよう」
ハルトの右腕に、黒血が絡みついた。
手首。
前腕。
肘。
黒く変じた血が凍り、骨のように伸びていく。
それは槍ではなかった。
投げるための武器ではない。
右前腕そのものが、巨大な黒氷の戦槍へ変わっていく。
身の丈の二倍はある、禍々しい黒いランス。
氷の内側には、血管のような黒い筋が走っている。
その筋が、どくん、どくんと脈打っていた。
「黒血……」
ハルトは右腕を前へ突き出す。
「深淵の大氷戦槍」
バジリオの義肢が、全ての獣を吐き出すように変形した。
獅子。
狼。
蝙蝠。
蠍。
針鼠。
蛇。
複数の獣魂晶が絡み合い、ひとつの砲口を作る。
禍々しい黒い雷が、義肢の奥で唸った。
獣たちの魂の叫び声のような音が、空に走る。
「獣魂晶統合出力砲撃!!」
黒い砲撃が放たれた。
獣の咆哮。
雷鳴。
火炎。
毒。
音波。
すべてを混ぜ合わせたような、歪な黒い光。
大鐘楼の上で、エルナが叫んだ。
「ハルトおおおおおおおおおお!!!」
ハルトは、黒い閃光になった。
黒い氷翼がはためく。
エアバーストが爆ぜる。
深淵黒血が腕の槍を脈打たせる。
ハルトは直進した。
黒い砲撃へ、真正面から突っ込む。
体が焼ける。
皮膚が裂ける。
骨が軋む。
黒い氷翼が削られる。
それでも進む。
黒い光を、裂く。
裂いて。
割って。
押し進む。
深淵の大氷戦槍が、バジリオの獣魂晶義手へ突き刺さった。
一瞬、止まる。
次の瞬間。
どくん。
槍の内側で、黒血が脈打った。
刺さった黒血氷の槍が、義肢の内部で枝分かれする。
一本が二本へ。
二本が十本へ。
十本が百本へ。
黒い氷の棘が、内側から増殖していく。
魔道回路を裂く。
獣魂晶の管を貫く。
絡み合った獣たちの魂晶を、内側から食い破る。
「刺さった後に……内部で、増殖……!?」
バジリオの赤い義眼が、歓喜と驚愕に震えた。
「はは……!」
「ははははははは!!」
黒氷の棘が、義肢の内側で咲き乱れる。
獣たちの叫び声が、砕ける音に変わった。
「最高だ、ハルト!!」
バキン、と。
バジリオの両腕が、粉々に吹き飛んだ。
黒い氷片と魔道義肢の破片が、空に散る。
支えを失ったバジリオの体が、自由落下を始めた。
落ちながら、バジリオは笑っていた。
「おまえ……は……」
血と煤に汚れた顔で、赤い義眼だけがハルトを見ている。
「最高……だ……!」
ハルトは、バジリオを一瞥した。
それだけだった。
すぐに、大鐘楼を見る。
時計の針。
十一時五十九分。
ハルトの顔から、戦闘の熱が消えた。
「エルナ!」
黒い氷翼が、最後の力で羽ばたく。
ハルトは大鐘楼へ飛んだ。
踊り場に足をついた瞬間、膝が落ちる。
黒い氷翼が、砕け散った。
ぱきん、ぱきんと音を立てて、背中から黒い氷片が剥がれ落ちる。
傷口から流れる血が、少しずつ赤へ戻っていく。
黒い右目の奥で、赤い瞳が揺れた。
バクンッッ。
心臓が跳ねる。
ハルトは、かろうじて正気を取り戻した。
「ハルト! 大丈夫なの!?」
エルナが駆け寄る。
ハルトは膝をついたまま、息を荒げて顔を上げた。
「エルナ……パラサイトコアは?」
エルナは胸元に食い込む赤黒いコアを押さえた。
「それが……止まらないの……」
「なんで……!」
ハルトの視線が、パラサイトコアへ向く。
蛸のように吸着した管が、脈動している。
翡翠色の魔力が、凄まじい勢いで吸い上げられていた。
熱が、上がっている。
空気が歪むほどの熱。
エルナの胸元から、危険な光が滲み出している。
「多分、バジリオの腕に制御装置があったんだと思う……!」
「マジかよ……」
ハルトが砕いたバジリオの獣魂晶義手。
あれが、パラサイトコアの制御装置を兼ねていた。
制御を失ったパラサイトコアは、止まらない。
魂晶核から、無尽蔵に近いエネルギーを吸い上げ続けている。
脈動するたび、熱が上がる。
膨張するたび、空気が震える。
ハルトの脳裏を、嫌な言葉がよぎった。
核撃。
このままどこまでエネルギーを吸うか分からない。
パラサイトコアが、どこまで耐えられるかも分からない。
外せば爆発。
このままでも、オーバーフローで爆発。
「今度こそ逃げて、ハルト」
エルナが、震える声で言った。
「あなただけでも」
「……」
「被害がどれくらいになるか分からない」
「今逃げても間に合うか分からない」
「でも、分かるの」
エルナは、自分の胸元を押さえる。
「これは、取り除いたら爆発する」
「適応できてないから」
「このまま吸収しても、オーバーフローで爆発する」
それでも、エルナはハルトを見た。
「なら、せめてハルトには生きていてほしい」
「爆発を止める術は……もうないから」
「……んなよ」
「え?」
「勝手に決めんなよ」
ハルトは、歯を食いしばって立ち上がる。
「言っただろ?」
「俺は、お前を盗みに来た」
「……ハルト」
「盗賊は、盗んだものを命懸けでも投げ出さねぇ」
「取られても取り返す」
「死んでもな」
ハルトは、エルナの胸元のパラサイトコアへ右手を伸ばした。
「お前は俺の獲物だ、エルナ」
「絶対に逃げない」
右手が、パラサイトコアに触れる。
じゅう、と肉の焼ける音がした。
熱が、ハルトの手のひらを焼く。
「ハルト! 手が!!」
「関係ねぇ!」
ハルトの手から、冷気が渦巻く。
「お前が死ぬくらいなら、腕くらい捨てる!」
「もし意味がなかったとしても、一緒に死んでやる!!」
ハルトは、エルナを見た。
「最後の一秒まで、生きる希望を捨てんな!!」
エルナの瞳に、涙が浮かぶ。
「どうでもいいなんて言わせねぇ」
「死んでもいいとか、興味ないとか、意味がないとか」
ハルトの声が震える。
怒りで。
痛みで。
それでも、真っ直ぐに。
「そんなもの、全部、俺が盗んでやる!!」
「今この瞬間を生きて、絶対にいい未来にしてやる!!」
「だから、諦めるな、エルナ!!」
エルナの涙が、頬を伝った。
だが、その目はもう逸れていない。
「うん!!」
エルナが、ハルトの手に自分の手を重ねる。
「私、生きたい!!」
「一緒に、ハルトと明日を見たい!!」
その瞬間、パラサイトコアの熱が、わずかに揺らいだ。
「エルナ……?」
「師匠の気功術、役に立つかもしれない」
ハルトの目が見開かれる。
「……それだ!」
ハルトの冷気。
エルナの魔力。
パラサイトコアを通じて、二つの流れを繋ぐ。
吸われた魔力を、そのまま奪われっぱなしにしない。
エルナの魂晶核へ戻す。
循環させる。
ハルトは冷気を流す。
エルナは魔力を整える。
パラサイトコアの脈動が、ほんの少しだけ弱まった。
「いける……!」
だが、次の瞬間。
バクンッッ。
パラサイトコアが、さらに大きく跳ねた。
熱が上がる。
循環している。
確かに、少しは抑えられている。
それでも、足りない。
吸収量が多すぎる。
熱の上昇が止まらない。
「止まれ……!」
ハルトは歯を食いしばる。
「止まれよ!!」
パラサイトコアが、赤黒く膨れ上がる。
光が、漏れる。
臨界点が、近い。
正午まで、あとわずか。
熱は、間もなく限界を超える。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
ブックマーク・評価をいただけると励みになります。




