第16話 深淵黒血
「空纏衝!!」
ハルトの体が、倉庫街の屋根を蹴って跳ねた。
白煙を尾のように引きながら、一直線にバジリオへ迫る。
だが、届かない。
バジリオの背から広がった夜蝙蝠の翼が、空気を裂いた。
その体は、ハルトよりも滑らかに空を動く。
上へ。
横へ。
背後へ。
重力を無視するような軌道で、バジリオは空中を駆ける。
「遅いな、白煙」
赤い義眼が、ハルトの動きを追っていた。
ハルトは舌打ちし、空中でさらに風を爆ぜさせる。
「空纏衝!!」
二段目の加速。
さらに角度を変え、バジリオの死角へ回る。
隠形で音を消す。
気配も薄める。
氷煙陣を広げ、視界を塞ぐ。
だが、バジリオの義眼は揺らがない。
「高速移動」
「音と気配の消失」
「視覚遮断」
バジリオは、楽しげに口角を上げた。
「どれも見た。一度見たものは、もう通じんよ」
ナイトバットの翼が、ハルトの脇腹を打った。
「ぐっ……!」
ハルトの体が、空中へ弾き飛ばされる。
足場がない。
身動きが取れない。
バジリオの右腕が、獅子の顎へ変形した。
黒い義肢の先に、魔獅子の顔が浮かぶ。
「魔獅子」
獅子の口が開く。
そこに、赤い火が集まった。
「さて、これはどうする?」
最大出力の猛火が、空中のハルトへ放たれた。
「ハルト!!」
大鐘楼の上で、エルナが叫ぶ。
その瞬間、エルナの胸元で魂晶核が震えた。
バジリオの赤い義眼も、わずかに揺れる。
「きさま……なぜ……?」
ハルトの右目が、黒く染まっていた。
黒い眼球の奥に、赤い瞳が浮かぶ。
「深淵の魔眼」
猛火の前に、黒い闇が開いた。
炎が、音もなく奈落へ沈んでいく。
燃えるはずだった空間から、熱が消えた。
ハルトの右目から、黒い血が流れる。
銀弾のギリオと戦った時と同じだ。
深淵の魔眼を使えば、体の奥から何かが削られる。
だが、止める理由にはならない。
ハルトは空纏衝で体勢を立て直し、ふわりと倉庫の屋根へ足をついた。
冷気が、ゆったりと立ち込める。
バジリオは空中で翼を広げたまま、ハルトを見下ろしていた。
「きさま……なぜ深淵が使える?」
「深淵?」
ハルトは黒い血を頬に垂らしたまま、眉をひそめる。
「それは深淵系統だ。人には使えない。悪魔の力だ」
バジリオの顔が、笑みに歪んだ。
「くく……楽しくなってきたぞ。お前も持ち帰ることにする」
「知らねぇよ。大体、急に使えるようになったんだからな」
「皆まで言うな。興が冷める」
バジリオの右腕が蠢いた。
「私が解剖して調べ上げる!!」
黒い蛇が、腕から放たれる。
「影蛇!!」
影の蛇が屋根を這うように走り、ハルトへ牙を向けた。
「深淵の魔眼」
ハルトの右目が、影蛇を捉える。
蛇の体が、闇にぶつかるように歪んだ。
次の瞬間、奈落へ落ちる。
何も残らない。
右目から流れる黒い血が、また一筋増えた。
「ほう」
バジリオは、歓喜を隠さなかった。
「理屈は通らないスキルのようだな。深淵の底に、見たものを堕とす」
赤い義眼が、ハルトを舐めるように観察する。
「が、私を一気に堕とさないところを見ると、制約があるのか?」
ハルトの視界の端に、文字が浮かんだ。
【深淵の魔眼】
【注視した対象を奈落の底へ堕とす】
【タルタロスへの門を開ける】
【可能対象】
【放出系の魔法】
【魔力体生物】
【自己身体】
【非生物】
【???】
生物は、基本的に堕とせない。
多分、影蛇のような実体のない魔物ならいける。
火のような放出系の魔法もいける。
物質も対象にできそうだ。
ハルトがそう判断した瞬間、バジリオの腕から蠍の尾が飛び出した。
黒い針が、一直線に迫る。
「氷弾!!」
氷の弾丸が、蠍の尾へ撃ち込まれる。
数発で凍りついた尾へ、ハルトは短剣を向けた。
「致命の氷穿……!」
凍った蠍の尾が、粉々に吹き飛んだ。
バジリオの目が細くなる。
「答えるまでもなさそうだな」
生物そのもの。
あるいは実体を持つ魔物の肉体。
それは、タルタロスだけでは簡単に堕とせない。
ハルトは屋根を蹴った。
「空纏衝!!」
空中へ飛び上がる。
バジリオが避ける。
「空纏衝!!」
さらに、空中で風を爆ぜさせる。
直角に曲がる。
「何っ!」
一瞬だけ、バジリオの反応が遅れた。
「氷結斬!!」
「ウルフエッジ」
バジリオの腕が狼の爪へ変わる。
氷の斬撃と黒い爪がぶつかり、砕けた氷片が空へ散った。
バジリオは笑う。
「面白いが、もう通じない。どうする?」
その声には、怯えが混じっていなかった。
だが、バジリオの体は別だった。
理由のない恐怖。
深淵の魔眼が開いた瞬間、体の奥に冷たいものが走った。
バジリオは胸元を押さえ、愉快そうに笑う。
「このような恐怖を感じるのは初めてだ」
「理由のないものは信じない。だが、たしかに恐怖がある」
赤い義眼が、狂ったように輝く。
「よし、実験だ」
魔獅子の炎が、再びハルトを襲った。
ハルトは右目を開く。
「深淵の魔眼!!」
深淵が、壁のように炎を止める。
だが、その炎と深淵の揺らぎを突っ切って、黒い狼の刃が飛び込んできた。
ウルフエッジ。
狼の牙が、ハルトの肩へ突き刺さる。
「くそ……!」
「よかった。推察が外れていたら、腕を失っていたかもしれないな」
バジリオは、笑っていた。
「同時に出せる魔物が一匹だと言った覚えはない」
獅子の口が、もう一度開いた。
爆発。
ハルトは爆炎から逃れるように屋根を転がった。
背中が瓦を削り、肩から黒く濁った血が飛ぶ。
「きさま、硬いな。興味深い」
赤い義眼が光る。
「ふむ、東大陸の気功術のようだな」
「面白い。面白いぞ、白煙のハルト!」
ハルトは、ボロボロの体で大鐘楼を見る。
針は、十一時五十五分を指していた。
あと五分。
焦りが、胸を締める。
「千針鼠!!」
バジリオの腕から、ハリネズミのような獣が生まれた。
背中の針が逆立つ。
次の瞬間、無数の針が空を埋めた。
「空纏衝!!」
ハルトは加速する。
一段。
「空纏衝!!」
二段。
白煙を引いて空を切る。
だが、バジリオはナイトバットの翼で追いついた。
「ナイトバットは音速で飛べる」
「まあ、私は無理だが、お前に追いつくのは容易い」
ナイトバットの口が開いた。
音が消えた。
いや、音が大きすぎて、耳が理解できなかった。
超音波が、ハルトの頭蓋を揺らす。
「ぐっ……!」
耳から血が滲む。
鼻からも血が垂れる。
視界が揺れた。
「狼蝙蝠狂宴!!」
バジリオが高速で飛び回る。
ナイトバットの翼。
ウルフの爪。
超音波。
黒い刃。
空中を縫うように飛びながら、ハルトの体を切り刻んでいく。
ハルトは受ける。
かわす。
弾く。
だが、追いつかない。
「千毒針」
今度は、蠍の毒針が無数に飛び出した。
ハルトの右目が開く。
「深淵の魔眼!!」
黒い門が、毒針を吸い込む。
だが、多すぎる。
右目で追い切れなかった数本が、ハルトの体へ突き刺さった。
「体が硬くとも、毒は回るだろう」
バジリオの声が、遠く聞こえる。
ハルトは膝をついた。
肩で息をする。
毒が回る。
左耳が聞こえない。
左目が霞む。
右目から黒い血が止まらない。
それでも、右目だけは開いていた。
黒く染まった眼球。
その奥に、赤い瞳がゆっくりと浮かんでいる。
ぽたり。
黒い血が、屋根瓦に落ちた。
ハルトの体が、前へ崩れかける。
その時、胸の奥で何かが鳴った。
窮鼠猫噛。
死にかけた体が、無理やり立ち上がる。
ハルトは、震える膝で立った。
「おっと」
バジリオの義眼が見開かれる。
「今、立てなくなったと私の目は判断していた」
「次の瞬間、貴様を立てると判断している」
バジリオの頬が、歓喜に歪む。
「予想を裏切られつづけ、私は今、人生で初めて興奮しているぞ!!」
「好きだ!! ハルト!!」
「私のものになれ!!!」
ハルトは吐き捨てた。
「気持ちわりぃ」
「死んでも嫌だね」
バジリオは、さらに笑う。
ウルフバットコーラスが迫る。
ハルトは、避けなかった。
黒い刃が走る。
バジリオの右腕から突き出た狼の牙が、ハルトの左手に突き刺さった。
バジリオはすぐに刃を抜こうとする。
だが、抜けない。
ハルトの右手が、バジリオの生身の腕を掴んでいた。
悪名補正が乗った、凄まじい怪力。
骨が軋む音がした。
「捕まえた……」
一瞬だけ、バジリオの動きが止まる。
周囲に散っていた白煙が、一気に集まった。
冷気が収束する。
突風が吹き、白煙がバジリオの周囲へ巻き込まれていく。
「氷冷爆発!!」
冷気が爆ぜた。
空気が、星屑のように煌めく。
屋根も、煙突も、空気の粒まで白く凍る。
ハルトの体にも霜が走った。
だが。
バジリオは空中にいた。
左腕がない。
自分で、左腕をもぎ取っていた。
「あー……まだ終わらせたくない」
「なら、安いものだ」
「四肢の一本や二本」
バジリオは、もぎ取られた腕を見ても顔色ひとつ変えない。
「また増やせばいい」
「狂ってやがる」
ハルトが低く呟く。
バジリオは魔獅子の炎で傷口を焼いた。
肉が焦げる臭いが、冷えた空気に混じる。
止血。
それだけだった。
ハルトは立っていられなくなった。
毒がさらに回る。
左耳は、もう音を拾っていない。
左目も霞み、まともに開かない。
右目から黒い血が流れ続けている。
黒い眼球。
赤い瞳。
頬を伝う黒血。
ハルトは、両膝をついた。
感覚が遠い。
呼吸が浅い。
体の輪郭が、少しずつ消えていく。
俺は、何をしてた……?
たしか。
「ハルトぉ!!」
大鐘楼の上から、エルナの声が落ちてきた。
その声が、沈みかけた意識を引き上げる。
そうだ。
エルナを守る。
守るんだ。
あいつを。
約束したから。
「ハルト!! 逃げて!!」
感覚が戻った。
「邪魔をするな、アニマ。今いいところなんだ!」
バジリオが苛立った声を上げる。
「ハルト!! 私はいい!」
「私は、あなたに死んでほしくない!!」
「お願い!!! 逃げてー!!」
ハルトは、黒鋼の短剣を握り直した。
感覚のない指が、ぎしりと動く。
窮鼠猫噛が、死にかけた体を力任せに動かしてくれる。
まだ握れる。
まだ立てる。
エルナが叫んでいる。
自分の命より、ハルトの命を優先している。
なら。
「エルナ」
ハルトは、黒い血を吐きながら笑った。
「俺はもう少し、深淵ってやつに堕ちてみるよ」
胸の奥で、深淵鼓動が鳴っていた。
強く。
もっと強く。
違う。
強めるんじゃない。
暴れさせるんじゃない。
外へ漏らすんじゃない。
巡らせる。
ラインハルトの声が、頭の奥で蘇る。
強化魔法は鎧。
フェイドは蓋。
気功術は流れ。
なら、流せ。
腹の奥へ落とす。
血へ通す。
骨へ這わせる。
毒で鈍った指先まで、冷たい闇を運ぶ。
深淵が、血の中を巡る。
どくん。
黒い血が、脈打った。
ハルトの傷口から流れていた血が、色を失っていく。
赤ではない。
黒だ。
右目から流れる黒血だけではない。
肩口。
脇腹。
口元。
毒針に裂かれた皮膚の隙間。
そこから滲む血が、少しずつ黒く濁っていく。
バジリオの赤い義眼が、ぎょろりと動いた。
「黒い血……深淵の侵食反応か……?」
バジリオは、ハルトの全身を舐めるように見た。
次の瞬間、その口角が吊り上がる。
「違う」
声が震えていた。
恐怖ではない。
歓喜だった。
「これは……適応だ!!」
バジリオの笑い声が、倉庫街の空へ響いた。
「深淵に呑まれているのではない! 拒絶もしていない!」
「深淵の鼓動を、血に巡らせている!」
「東大陸の気功術で、深淵を循環させているのか!?」
「はは……ははははは!!」
ハルトには、バジリオの言葉が半分も入ってこない。
ただ、分かる。
冷たい闇が血の中を走っている。
毒で鈍った腕へ。
感覚の消えた指へ。
折れかけた膝へ。
焼けた肺へ。
深淵鼓動を、強めるのではない。
巡らせる。
流れを作る。
暴れる力を、血に通す。
ラインハルトが言っていた。
強化魔法は鎧。
フェイドは蓋。
気功術は流れ。
なら、これは流れだ。
冷たい闇の流れ。
黒い血の流れ。
深淵黒血。
ハルトの背中が、ぎしりと軋んだ。
黒く変じた血が、背へ集まる。
白煙が渦を巻き、冷気が一点へ収束する。
それを、凍らせる。
黒血が体の外へ滲み出る。
冷気に触れた瞬間、黒い氷へ変わる。
歪な骨組みが伸びた。
裂けた刃のような氷片が連なった。
羽根とは呼べない。
鳥の翼でも、天使の翼でもない。
黒い氷の残骸が、ハルトの背中に広がっていく。
白煙が膨れ上がった。
球体のように。
繭のように。
冷たい嵐の卵のように。
そして、弾けた。
突風が倉庫街を薙ぐ。
白煙が空へ舞い上がる。
屋根瓦に霜が走り、周囲の空気が一瞬で凍りつく。
その中心に、ハルトが立っていた。
血まみれの体。
黒く染まった右目。
その奥で揺れる赤い瞳。
目から流れる血も。
傷口から滲む血も。
口元から垂れる血も。
すべて、黒い。
背には、黒い氷の翼。
禍々しく、歪で、刃のように裂けた翼。
バジリオの表情が、恍惚に歪んだ。
「黒血を凍らせている……?」
「深淵を血に巡らせ、その血を氷へ変え、翼として外部展開しているのか……?」
赤い義眼が、強く光った。
「禍々しい……」
バジリオは、息を呑むように笑った。
「だが、美しい!!」
ハルトは短剣を構える。
黒い氷翼が、ゆっくりと広がる。
羽ばたくための翼ではない。
死にかけた体を、もう一度戦場へ縫い止めるための翼。
バジリオが両腕を広げる。
「まるで悪魔じゃないか!!」
ハルトは、黒い血を吐き捨てた。
「うるせぇよ」
黒い氷翼が、軋む。
「俺は、盗賊だ」
ハルトは黒鋼の短剣を握り直した。
「エルナを、奪い返す」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
ブックマーク・評価をいただけると励みになります。




