第七話 約束
「殺すつもりじゃなかった」
ニオの声は、水路の音に消えそうだった。
夜の倉庫街。
古い倉庫の陰。
薄い月明かり。
水路に揺れる灯り。
ハルトは、しばらく何も言えなかった。
目の前にいるニオは、昨日、夕日の崖で笑っていた少年と同じ顔をしている。
小さい店を持ちたいと言った。
ハルトを信用できると言った。
灰鼠を抜けたいと、少し照れたように笑っていた。
そのニオが、今は震えている。
「……どういうこと?」
やっと、それだけ聞いた。
ニオはすぐには答えなかった。
何度か口を開き、閉じる。
それから、喉の奥から押し出すように言った。
「俺が刺した」
ハルトは息を止めた。
「レヴィン様を……俺が刺した」
水路の音が、急に遠くなった気がした。
レヴィン。
黒牙幹部。
黒煙のレヴィン。
灰鼠全員が集められ、明日の正午までに犯人を出せと言われた、その事件の中心。
その人間を、ニオが刺した。
「なんで」
ハルトの声は、自分でも驚くほど小さかった。
「指輪を盗むだけだったんだ」
ニオは俯いたまま言った。
「盗むだけ?」
「うん」
ニオは頷く。
「入って、取って、出るだけ。そう聞いてた」
「誰に?」
ニオの喉が動いた。
けれど、名前は出なかった。
「……言えない」
「なんで」
「言ったら、もっと終わる」
ハルトは言葉を失った。
ニオは震える手で、自分の服の裾を握った。
「俺なら、魔力識別に引っかからないって言われた。まだ下っ端で、新入りみたいなものだから。黒牙本体の登録もない。館の識別にも、ちゃんとは残ってないって」
魔力識別。
以前、ルヴェリア硬貨にも魔力識別が刻まれていると聞いたことを思い出す。
人や場所にも、そういうものがあるのだろうか。
ハルトには詳しいことは分からない。
けれど、分かることもあった。
ニオは、選ばれたのではない。
使われたのだ。
「裏口は、開いてた」
ニオは続けた。
「開けてもらってた。俺は入るだけでよかった。気配を薄めて、金庫まで行って、呪符で開けて、指輪を取って、出るだけ」
「呪符?」
「渡されてたんだ。これを使えば開くって」
ニオは小さく首を振る。
「本当に開いた。だから、いけると思った」
水路の光が、ニオの顔を揺らす。
「金庫の中に、指輪があった」
ニオの声が細くなる。
「本当にあったんだ。黒い石のついた、変な指輪だった。あれを取れば終わりだと思った」
ニオは自分の手を見る。
「でも、取ろうとした瞬間、指輪の下から黒煙が出た」
「黒煙……?」
「うん。煙っていうより、影みたいだった。床に落ちて、そのまま地面を這って、俺の後ろに回った」
ニオの喉が鳴る。
「振り返ったら、そこにレヴィン様がいた」
ハルトは息を止めた。
「黒煙が、指輪を運んでた。俺の手じゃなくて、あの人の右手に」
ニオは自分の右手の人差し指を見た。
「指輪は、勝手にレヴィン様の指にはまった。右手の人差し指に」
夜の水路が、細く揺れる。
「それで、あの人が俺を見た」
ニオの声が震えた。
「きみ、だれ? って」
その言い方は、怒鳴り声ではなかった。
責める声でも、殺す声でもなかった。
だからこそ、怖かったのかもしれない。
「俺、動けなかった」
ニオは言った。
「黒煙が足元にあって、逃げ道もなくて。灰鼠の俺が、黒牙の幹部の金庫を開けてた。顔も見られた。もう助からないって思った」
「でも……」
ハルトは言いかけた。
ニオは頷いた。
「あの人は、すぐには殺さなかった」
ニオの目が揺れる。
「理由を聞こうとしたんだ」
「理由?」
「なんでこんなことをしたのかって。誰に言われたのかって。そう聞こうとした」
ハルトの胸が、嫌な形で重くなった。
レヴィンは、すぐに殺さなかった。
黒煙で指輪を取り返した。
逃げ道も塞いだ。
それでも、理由を聞こうとした。
その瞬間に。
「黒煙が、少しだけ離れた」
ニオは両手を握りしめた。
「ほんの少しだけ。動けた」
「……それで?」
ニオの唇が震える。
「隙があった」
それだけで、ハルトは次の言葉を聞きたくなくなった。
でも、ニオは言った。
「だから、刺した」
水路の音がした。
「逃げるために。離してもらうために。死ぬなんて思ってなかった」
「でも」
ハルトの声は掠れていた。
「死んだ」
ニオは頷いた。
「死んだ」
その一言で、すべてが重くなった。
ニオは殺した。
殺すつもりはなかったとしても。
怖かったとしても。
逃げるためだったとしても。
レヴィンを刺して、死なせた。
「俺、あの人を殺した」
ニオは言った。
「でも、殺したかったわけじゃない」
その言葉は、言い訳のようで、祈りのようでもあった。
ハルトは何も返せなかった。
許すことも、責めることもできない。
自分は、まだこの世界のことを知らなすぎる。
黒牙のことも、レヴィンのことも、灰鼠の罪の重さも。
ただ、目の前で震えるニオだけは知っている。
荷車を一緒に押した。
硬いパンを食べた。
持ち方を教えてくれた。
城壁の上で街を見せてくれた。
東の夕日を見せてくれた。
そのニオが、人を殺した。
ハルトの中で、何かがうまく繋がらなかった。
「指輪は?」
ハルトは聞いた。
「黒煙で、レヴィン様の手に戻ったんだろ?」
ニオの顔が、さらに青くなる。
「あの後……」
声が詰まる。
「持ってきた」
「持ってきたって」
「必要だったんだ」
ニオは自分の手を見る。
「あれがないと、黒牙の双環が揃わないって言われた」
「黒牙の双環?」
「知らない。俺も名前しか聞いてない」
ニオは震えたまま続ける。
「あれがないと、全部終わるって。黒蓋が開かないって」
「黒蓋……?」
「知らないんだよ」
ニオは苦しそうに首を振った。
「俺は、本当に名前しか知らない。ただ、あの指輪がないとだめだって言われた。だから……」
そこから先を、ニオは言わなかった。
ハルトも聞けなかった。
レヴィンは死んだ。
そして、指輪はニオの手に渡った。
どうやって持ってきたのか。
そこまで聞けば、たぶん、もう戻れない。
「逃げよう」
ニオが言った。
唐突だった。
「え?」
「一緒に逃げよう。ハルト」
ニオは顔を上げた。
目が赤い。
眠っていないのかもしれない。
「明日の正午までに犯人を出せって言われただろ。出せなかったら灰鼠全員の責任になる。俺が名乗り出ても殺される。名乗り出なくても、見つかったら殺される」
「でも、逃げたら」
「逃げても追われるよ」
ニオはすぐに言った。
「分かってる。でも、ここにいるよりはまだいい」
「どこに逃げるの?」
「西側の外縁を抜ける。古い水門を使えば、朝までは見つからないと思う」
ハルトは混乱していた。
逃げる。
黒牙から。
灰鼠から。
この巨大な都市から。
そんなことができるのか。
「俺、まだこの街のことも全然分からない」
「だから俺が案内する」
ニオは必死だった。
「道は分かる。抜け道も、安宿も、顔を隠して泊まれる場所も知ってる」
「でも」
「ハルト」
ニオが一歩近づく。
「頼む」
その言葉に、ハルトは詰まった。
頼む。
昨夜も、ニオはそう言った。
その一言で、ハルトは外へ出た。
そして今、また同じ言葉で、逃げようと言われている。
「なんで俺を?」
ハルトは聞いた。
「一人で逃げればいいだろ」
ニオは少しだけ目を伏せた。
「一人じゃ、たぶん無理だ」
正直な答えだった。
「それに」
「それに?」
「ハルトは、信用できるから」
胸が痛んだ。
信用。
倉庫で聞いた言葉。
店を持ったら雇ってよ、と言った時に返ってきた言葉。
それが今、逃亡の理由になっている。
「俺は」
ハルトは言いかけて、止まる。
断るべきだ。
そう思った。
黒牙の幹部が死んだ。
ニオはそれを刺した本人だ。
逃げれば、自分も疑われる。
分かっている。
分かっているはずなのに、目の前のニオを置いていくことができなかった。
昨日、夕日の崖で笑っていた少年だ。
小さい店を持ちたいと言った少年だ。
ハルトを信用できると言った少年だ。
このまま突き放せるほど、ハルトはまだこの世界に慣れていなかった。
「……分かった」
口から出た言葉に、自分でも驚いた。
ニオの顔が上がる。
「本当に?」
「うん」
ハルトは喉の奥が乾くのを感じた。
「でも、何をすればいい?」
ニオは一瞬だけ、泣きそうな顔をした。
それから、腰の袋を探る。
「これ、持ってて」
小さな布袋だった。
ハルトは反射的に受け取る。
手のひらに、硬い感触があった。
「何?」
「お守り」
「お守り?」
「そう。逃げる時、持ってた方がいい」
お守り。
そんなものにしては、布袋の中身は硬く、重かった。
「俺が持ってると、ちょっとまずいからさ」
「まずいって……」
「すぐ戻る」
ニオは早口になった。
「隠してるものがあるんだ。金とか、着替えとか、外に出るための札とか」
「だったら一緒に行く」
「だめ。二人だと目立つ」
ニオの手は震えていた。
「明日の朝までに、宿屋で落ち合おう。南水路の青い看板の宿」
「場所、分からない」
「途中まで迎えに行く。鐘が二回鳴る頃」
ニオは無理に笑った。
「大丈夫。お守りだから」
その言い方が、少しだけ変だった。
でもハルトは、そこまで深く考えられなかった。
いや。
考えようとしなかったのかもしれない。
布袋を開ければ、何かが分かる気がした。
けれど、今それを見たら、本当に戻れなくなる気もした。
ニオは何度も周囲を確認した。
「俺、行く」
「ニオ」
ハルトが呼ぶと、ニオは振り返った。
「本当に、逃げられるの?」
ニオは一瞬だけ黙った。
それから、笑った。
「逃げるしかないだろ」
その笑顔は、震えていた。
「明日の朝までに、全部変えよう」
変える。
何を。
生活を。
運命を。
罪を。
疑いを。
ハルトには分からなかった。
分からないまま、頷いた。
ニオは路地の奥へ走っていった。
赤い髪が闇に消える。
ハルトは一人になった。
水路の音がする。
遠くで、鐘が一つ鳴った。
ハルトは手の中の布袋を見た。
開けるべきか迷った。
でも、開けられなかった。
中身を見たら、本当に戻れなくなる気がした。
すでに戻れない場所に片足を踏み込んでいるのに、まだそんなことを考えている。
自分は、馬鹿なのかもしれない。
ハルトは布袋を服の内側に押し込んだ。
心臓の近くに、硬い感触が当たる。
痛い。
お守り。
ニオはそう言った。
けれど、それは祈りの重さではなかった。
罪の重さだった。
読んでいただきありがとうございます。
ついにニオの口から、レヴィン殺害と指輪の話が語られました。
ただし、ニオが知っていること、話せることはまだ断片的です。
黒牙の双環、黒蓋、そして「お守り」として渡された布袋。
ハルトはまだ事の重大さを完全には理解できていません。
次回、逃げる前に事態はさらに悪い方向へ転がっていきます。
続きも読んでもらえると嬉しいです。
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