第六話 灰鼠の残された腕章
朝になっても、ニオの震えは完全には収まっていなかった。
本人は、何でもないように振る舞おうとしていた。
いつも通りに赤い髪を整え、いつも通りに軽く笑い、いつも通りにパンの端をかじっていた。
けれど、手元が少しだけ遅い。
水を飲む時、指が震える。
誰かの足音が近づくたびに、肩が小さく跳ねる。
ハルトは何度か聞こうとした。
昨日の夜、どこに行っていたのか。
顔を隠した男と関係があるのか。
何かあったのか。
けれど、そのたびに喉の奥で言葉が止まった。
聞いたら、何かが変わる。
そんな気がしていた。
昼前、倉庫裏の空き部屋にバルドが入ってきた。
「おい、灰鼠全員に招集だ」
ニオの手が止まった。
ハルトはそれを見た。
バルドは気づいていないのか、気づいていて無視したのか、面倒そうに続ける。
「東区の廃倉庫。すぐ来い」
「全員?」
ニオが聞いた。
声が少しだけ硬い。
「ああ」
バルドは首を鳴らした。
「黒牙からだ。遅れたら面倒なことになるぞ」
黒牙から。
その言葉だけで、部屋の空気が少し重くなった。
ハルトは立ち上がる。
昨日までなら、また雑用かと思ったかもしれない。
でも、今は違った。
ニオの震え。
顔を隠した男。
明け方に戻ってきた足音。
それらが、胸の奥で嫌な形につながり始めていた。
東区の廃倉庫は、水路沿いの古い建物だった。
壁は黒ずみ、屋根の一部は崩れかけている。
けれど入口には、黒牙の印が刻まれた木札が下がっていた。
中には、すでに何人もの灰鼠が集まっていた。
十五人ほど。
ハルトは、そこで初めて灰鼠全体をちゃんと見た気がした。
若い者もいれば、くたびれた中年もいる。
痩せた女も、片目に布を巻いた男もいる。
誰もが粗末な服を着て、どこか落ち着かない顔をしていた。
同じ腕章をつけている。
灰色の布に、鼠のような黒い印。
それが灰鼠の印らしい。
ロッソとバルドは、少し前の方に立っていた。
ニオはハルトの隣にいる。
顔色は悪い。
やがて、倉庫の奥の扉が開いた。
空気が変わった。
入ってきたのは、黒い外套を着た男だった。
年は三十代半ばくらいに見える。
細い目に、整えられた髭。
服装は灰鼠たちとは明らかに違う。
貧しさがない。
それだけで、立場が違うと分かった。
男の後ろには、武装した黒牙の構成員が二人ついている。
倉庫の中が静まり返った。
黒い外套の男は、灰鼠たちを見渡した。
「黒牙第七席補佐、ガルムだ」
誰も返事をしない。
男、ガルムは気にした様子もなく続けた。
「昨夜、黒牙幹部の一人が死んだ」
その一言で、倉庫の空気が凍った。
ハルトは息を止めた。
幹部。
死んだ。
灰鼠の何人かが、互いに顔を見合わせる。
ロッソの表情が消えた。
バルドでさえ、口を閉じていた。
ニオは、動かなかった。
動かなかったことが、逆におかしかった。
ガルムはゆっくりと言った。
「殺されたのは、黒煙のレヴィン様だ」
誰かが小さく息を呑んだ。
レヴィン。
その名前に、倉庫内の空気がさらに沈む。
ハルトはまだ知らない。
黒煙のレヴィンが、黒牙でどれほどの存在だったのか。
どんな幹部で、どれだけ恐れられ、どれだけ慕われていたのか。
けれど、周囲の反応だけで分かった。
これは、ただの殺人ではない。
黒牙の中で、何か大きなものが壊れたのだ。
ガルムは懐から小さな布を取り出した。
そこには、灰色の布切れがあった。
腕章の一部。
灰鼠の印が、半分だけ残っている。
「現場付近で、灰鼠の腕章の切れ端が見つかった」
倉庫の中に、ざわめきが走った。
「さらに、目撃証言がある」
ガルムの声は冷たかった。
「昨夜、現場付近で灰鼠が一人、目撃されている」
灰鼠たちの視線が、互いに走る。
誰だ。
誰がいた。
誰がやった。
誰が疑われる。
その空気が、一瞬で倉庫全体に広がった。
ハルトは、隣のニオを見そうになった。
見てはいけない気がした。
けれど、見てしまった。
ニオは俯いていた。
唇を噛んでいる。
昨日の明け方、震えて帰ってきた姿が、ハルトの頭に浮かんだ。
まさか。
そう思う。
そんなわけがない、とも思う。
でも、胸の奥の不安は、もう無視できない大きさになっていた。
ガルムは続ける。
「犯人が灰鼠の中にいるとは限らない」
その言葉に、ほんの少しだけ空気が揺れた。
「腕章を奪われた可能性もある。偽装の可能性もある。だが、黒牙の幹部が死んだ以上、曖昧なままにはできない」
ガルムの目が細くなる。
「明日の正午までに、犯人を出せ」
誰も動けなかった。
「出せなければ、灰鼠全体の責任とする」
その意味を、ハルトはすぐには理解できなかった。
しかし周りの顔を見て、遅れて理解した。
灰鼠全体。
十五人全員。
黒牙は、まとめて潰すことができる。
ガルムは最後に言った。
「これは命令だ」
そう言って、踵を返す。
黒牙の構成員たちも無言で続いた。
扉が閉まる。
その音が、やけに大きく響いた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
最初に動いたのは、灰鼠のリーダーだった。
ハルトはその男の名前を聞いたことがある。
ガジ。
四十前後の痩せた男で、灰鼠をまとめている。
片頬に古い傷があり、いつも安い煙草の匂いがした。
ガジはゆっくり前に出た。
そして、全員を見渡す。
「聞いたな」
誰も答えない。
ガジは腕を上げた。
灰色の腕章が見えた。
「この腕章は、仲間を疑わないためにある」
低い声だった。
「灰鼠は弱い。黒牙団本体でもない。下部組織の一つにすぎねぇ。だからこそ、内側で疑い合えば終わる」
ガジは一人ずつ顔を見る。
「名乗り出ろ」
空気がさらに重くなった。
「やったなら、今ここで名乗り出ろ。逃げても無駄だ。黒牙は追う。隠しても無駄だ。いずれ見つかる」
沈黙。
誰も動かない。
ガジの声が少しだけ低くなる。
「もう一度言う。名乗り出ろ」
倉庫の外で、水路の音がした。
遠くで鐘が鳴っている。
昨日、城壁の上で聞いた鐘の音とは違う。
今は、広い空ではなく、古い倉庫の天井に押しつぶされるように響いていた。
誰も名乗り出なかった。
ハルトの脳裏に、ニオがちらつく。
顔を隠した男。
明け方に帰ってきた姿。
震える手。
大丈夫ではない声。
違う。
そう思いたかった。
でも、昨日の夜、ニオはいなかった。
そして今日、黒牙の幹部が死んだと告げられた。
偶然だ。
そう言うには、あまりにも近すぎる。
ガジはしばらく沈黙を待った。
やがて、ゆっくり息を吐く。
「……分かった」
その声には、失望が混じっていた。
「今日は全員、勝手に動くな。仕事もなしだ。寝床に戻れ。外に出る時は二人以上。単独行動は禁止」
誰かが小さく舌打ちした。
ガジは睨む。
「文句があるなら、黒牙に直接言え」
誰も何も言わなくなった。
解散の空気が流れる。
灰鼠たちは、互いに距離を取りながら倉庫を出ていった。
いつもなら軽口を叩く者も、今日は黙っている。
誰もが、誰かを疑っていた。
腕章は、仲間を疑わないためにある。
ガジはそう言った。
けれど今、その腕章が全員を疑わせている。
ハルトはニオの隣を歩いた。
声をかけるべきか迷った。
ニオは黙っている。
赤い髪が、薄暗い倉庫の出口で少し揺れた。
「ニオ」
ハルトは、とうとう呼んだ。
ニオの肩が、ほんのわずかに跳ねた。
「なに?」
「昨日の夜」
そこまで言った時、ニオがこちらを見た。
その目が、ひどく怯えていた。
ハルトは言葉を失う。
ニオはすぐに笑った。
いつものように。
けれど、失敗していた。
「昨日の夜が、どうかした?」
声が軽すぎた。
軽くしようとして、軽くなりすぎていた。
ハルトは喉の奥が詰まる。
「……いや」
「そっか」
ニオは前を向く。
二人は倉庫街の道を歩いた。
水路には昼の光が反射している。
人の声もある。荷を運ぶ音もある。
世界は何も変わっていないように見えた。
でも、ハルトの中では何かが変わっていた。
昨日まで、ニオは信用できる相手だった。
一緒に荷を運び、店の話をして、夕日の崖を見た相手だった。
そのニオの背中が、今は少し遠い。
疑いたくない。
でも、疑ってしまう。
ハルトは右目の奥に違和感を覚えた。
表示は出ない。
ルシファーは何も教えない。
悪名は喰うのに、真実は教えてくれない。
「……最悪だ」
小さく呟いた。
ニオには聞こえなかったらしい。
それでよかった。
夕方まで、ハルトたちは寝床にいた。
ロッソとバルドも戻ってきたが、いつものような雑な笑いはなかった。
バルドは壁にもたれて腕を組み、苛立ったように足を鳴らしている。
ロッソは煙草を吸いながら、何も言わずに床を見ていた。
誰も、レヴィンの話をしない。
誰も、昨日の夜の話をしない。
それが余計に気持ち悪かった。
夜になった。
灯りは消された。
しかし、眠れるはずがなかった。
隣で、ニオが寝返りを打つ音がする。
起きている。
ハルトにも分かった。
しばらくして、ニオが小さく言った。
「ハルト」
「……うん」
「起きてる?」
「うん」
沈黙。
暗闇の中で、ニオの息が震えている。
ハルトは体を起こした。
「ニオ?」
ニオもゆっくり起き上がる。
顔は見えない。
けれど、声だけで分かった。
限界なのだと。
「話がある」
ニオはそう言った。
「ここじゃ、だめだ」
ハルトの心臓が、嫌な音を立てた。
「どこに行くの?」
「少しだけ外」
単独行動は禁止。
ガジの言葉が頭をよぎる。
でも、ハルトは断れなかった。
ニオは震える声で言った。
「頼む」
その一言で、ハルトは立ち上がってしまった。
夜の倉庫街は静かだった。
二人は、人目を避けるように水路沿いの細い道へ出る。
月は薄い。
水面には、揺れる灯りがいくつか映っている。
ニオはしばらく歩き、古い倉庫の陰で足を止めた。
そして、ハルトの方を向いた。
「ごめん」
最初の言葉が、それだった。
ハルトは何も言えなかった。
ニオは唇を噛む。
「俺、関わってる」
水路の音が、やけに大きく聞こえた。
「レヴィンって人のこと?」
ハルトが聞くと、ニオは顔を歪めた。
「殺すつもりじゃなかった」
その瞬間、ハルトの背筋が冷えた。
終わった。
何かが、終わった。
そう感じた。
読んでいただきありがとうございます。
ついに黒牙の召集がかかり、それは同時に灰鼠たちに疑いの目が向けられました。
ニオの告白、物語は動き始めます。
そして、ニオの口から出た「関わってる」という言葉。
次回、指輪事件の中身が少しずつ明らかになります。
続きも読んでもらえると嬉しいです。
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