表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/8

第五話 久々の休日


灰鼠の仕事は、何日か続いた。

荷車を押す。

倉庫の荷を移す。

水路沿いの小舟へ木箱を積む。

民家の裏口で見張りに立つ。

取り立てに同行して、黙って後ろにいる。

盗賊という言葉から想像していたものより、ずっと地味だった。

派手に金貨を盗むわけではない。

暗い屋根の上を飛ぶわけでもない。

剣を抜いて戦うわけでもない。

ほとんどは、重いものを運び、待ち、黙り、怒られる仕事だった。

それでも、ハルトは少しずつ覚えていった。

水路沿いは足場が滑ること。

倉庫の帳簿係には先に謝っておいた方がいいこと。

黒牙の印がある店と、ない店では、人の目が違うこと。

荷車を押す時は、腕ではなく足と腰を使うこと。

そして、嫌だと思う仕事でも、やらなければ飯がないこと。

取り立ての付き添いをした日があった。

やったのは、ロッソとバルドだ。

ハルトとニオは、狭い家の入口近くに立っていただけだった。

それでも、中にいた男の顔が青くなり、奥で女が泣き、子どもが机の下に隠れるのを見ているだけで、胸の奥が重くなった。

帰り道、ハルトはしばらく黙っていた。

ニオも、何も言わなかった。

水路沿いの道に出たところで、ハルトはようやく口を開いた。

「もしさ」

「うん?」

「あそこで、相手に襲われたらどうするの?」

ニオは少しだけ考えた。

「逃げる」

「逃げられなかったら?」

「その時は、勝てないなりにやる」

ニオは道端に落ちていた小さな木片を拾った。

細く尖った、壊れた木箱の欠片だった。

「やばい時はさ、こういうのを手の内側に隠すんだよ」

ニオは木片を掌に収める。

外から見ると、何も持っていないように見えた。

「ガラスでもいい。木片でもいい。釘でもいい。握れるなら何でもいい」

「それで?」

「諦めたフリする」

ニオは両手を少し上げた。

「もう抵抗しません。許してください。そういう顔をする」

その次の瞬間、ニオの手がハルトの喉元へ伸びた。

寸前で止まる。

「で、喉に叩き込む」

ハルトは思わず一歩下がった。

「……卑怯すぎるだろ」

ニオは笑った。

「盗賊なんだから、卑怯で当然だろ!」

軽い声だった。

けれど、ハルトは笑えなかった。

「騎士みたいに正面から勝てるやつは、そんなことしなくていいんだよ」

ニオは木片を指先で転がす。

「でも俺らは弱い。弱いやつが綺麗に勝とうとしたら、先に死ぬ」

その言葉は、妙に現実味があった。

ハルトはニオの掌を見た。

さっきまで何も持っていないように見えた手の中に、木片が隠れていた。

「覚えときなよ」

ニオは木片を水路へ投げた。

「終わったフリをするやつほど、最後に刺せる」

ハルトは、ひどい話だと思った。

けれど、この世界では、ひどい話ほど役に立つのかもしれなかった。

その何日かの間に、ハルトは何度か見た。

水路沿いの路地。

倉庫の裏口。

市場の端にある、使われていない井戸のそば。

ニオが、顔を布で隠した男と話しているところを。

長く話すわけではない。

近づいて、短く言葉を交わして、すぐに離れる。

一度、ハルトが目を向けると、ニオは気づいたように笑った。

「知り合い」

それだけだった。

灰鼠の人か、と聞いた時も、返ってきたのは同じような曖昧な言葉だった。

「まあ、そんなとこ」

そのたびに、胸の奥が少しざわついた。

聞いていいことと、聞かない方がいいこと。

この世界では、その境目を間違えると危ない。

そう思って、ハルトは踏み込めなかった。

それでも、ニオがその男と話した日は、いつも少しだけ様子が違った。

笑うのが遅い。

返事が短い。

荷物を持つ手に、妙な力が入っている。

気のせいかもしれない。

そう思うには、もう何度か見すぎていた。

その日は、珍しく朝から仕事がなかった。

ロッソとバルドは別の用事で出ていった。

灰鼠への指示も、夕方まではないらしい。

ハルトが寝床の隅でぼんやりしていると、ニオが顔を出した。

「今日、少し空いた」

「空いた?」

「夕方まで仕事なし」

ニオはそう言って、少し得意げに笑った。

「王都、見る?」

「王都を?」

「お前、まだ倉庫と酒場と寝床くらいしか知らないでしょ」

言われてみれば、その通りだった。

東の都ルヴェリアに入ってから、ハルトが知ったものといえば、盗品の倉庫と、薄暗い酒場と、泥の匂いがする寝床くらいだ。

「見たい」

そう答えると、ニオは満足そうに頷いた。

「じゃあ行こう。金はあんまり使えないけど、見るだけなら安いから」

「安いんだ」

「見るだけならね」

ニオは笑って歩き出した。

倉庫街を抜けると、街は少しずつ顔を変えた。

水路沿いには荷を積んだ小舟が行き交い、橋の上では人足たちが怒鳴り合っている。

魚を焼く匂い、油の匂い、潮の匂い、汗の匂い。

全部が混ざって、空気が重かった。

少し進むと市場があった。

野菜、魚、布、古道具、よく分からない魔道具の部品。

店先には山のように物が積まれ、客も店主も声が大きい。

ニオは歩きながら説明する。

「ここは下町市場。安いけど、ぼったくりも多い」

「ぼったくり」

「灰鼠だってバレると逆に高くされることもある。だから買う時は、別の通りの店がいい」

「黒牙の下なのに?」

「黒牙本体なら違うよ。俺らは灰鼠だから」

ニオは軽く肩をすくめた。

「怖がられるけど、尊敬はされない」

妙に納得できる言葉だった。

市場を抜けると、古い石壁の残る区画に入った。

道は細く、建物は古い。

家と家の間に洗濯物が吊られ、壁のひび割れから草が伸びている。

「ここ、旧城下跡」

ニオが言った。

「昔はこっちに王城があったんだって。今は高台に移ったから、古い建物だけ残ってる」

「それで、スラムになった?」

「全部じゃないけどね。古い町って、金持ちは出ていくけど、貧乏人は残るから」

道端では、子どもが数人、欠けた木片で遊んでいた。

その横を、疲れた顔の女が籠を抱えて歩いていく。

ハルトは、何も言えなかった。

ここにも人が住んでいる。

自分が昨日まで「異世界」とひとまとめにしていた場所に、当たり前みたいに生活があった。

「こっち」

ニオはさらに歩く。

古い区画を抜けると、建設中の巨大な石の壁が見えてきた。

近くで見ると、壁というより崖だった。

石が積まれ、足場が組まれ、作業員が蟻のように動いている。

木材、鉄具、滑車、ロープ。

怒鳴り声と石を削る音が響いていた。

「これが城壁?」

ハルトは見上げながら言った。

「作りかけだけどね」

「作りかけで、これ?」

「完成したら世界一長い城壁にするんだってさ」

ニオは軽く笑った。

「千キロを超える予定らしいよ」

「……千キロ?」

ハルトは聞き返した。

城壁。

千キロ。

意味が分からない。

「馬鹿なの?」

「金持ちの考えることは分かんないよね」

ニオはそう言って、壁沿いの階段を指さした。

「上、行けるよ」

「登っていいの?」

「本当は駄目」

「駄目なんだ」

「でも今日は見張りが少ない」

「それ、もっと駄目じゃない?」

「灰鼠だからね」

その一言で済まされた。

階段は長かった。

作りかけの石段はところどころ粗く、片側には木材や鉄具が積まれている。

上に行くほど風が強くなり、倉庫街の油と泥の匂いが薄れていった。

代わりに、海の匂いがした。

最後の段を上がった瞬間、視界が開けた。

ハルトは、思わず足を止めた。

街があった。

広すぎる街だった。

低地には市場と倉庫街。

その先に港。

海には巨大な商船がいくつも浮かび、帆が白く並んでいる。

水路は街の中を縫うように走り、荷船が小さく動いていた。

遠くの高台には、白い王城。

その周りに、新しい城下町が段々と広がっている。

鐘楼がいくつも立ち、どこかで鐘が鳴っていた。

ごおん、ごおん、と。

低く、広い音だった。

空は大きい。

街も大きい。

海も、城も、港も、全部が遠い。

ハルトは息を呑んだ。

広大さだけなら、自分が住んでいた街より広いかもしれない。

いや、街というより都市圏だ。

学校も、駅前も、家の近くの商店街も、全部をまとめて遠くに押し流したような、そんな規模だった。

「……でかい」

それしか言えなかった。

ニオは少し得意そうに笑う。

「だから言ったじゃん。お前が思ってるよりずっとでかいって」

ハルトは返事ができなかった。

こんな街の底で、自分は荷車を押していたのか。

こんな街の片隅で、ゴロツキと見られていたのか。

その事実が、少し遅れて胸に沈んでくる。

「ハルト」

ニオが肩を叩いた。

「そっちもいいけど」

「え?」

振り返った。

そして、言葉を失った。

街の反対側。

そこには、広大な草原が広がっていた。

風に揺れる草。

その向こうに、山。

山のふもとを縫うように、巨大な運河が走っている。

ただの川ではない。

幅が広く、遠目にも人工物だと分かるほど真っ直ぐな区間があり、そこに何隻もの船が浮かんでいた。

さらに遠く、薄い霞の向こうには、山並みよりも高く見える黒い影があった。

火山。

その頂から、細い煙が空へ伸びている。

ハルトは目を離せなかった。

街を見た時とは違う。

これは、規模の話だけではない。

草原。

山。

運河。

火山。

広い空。

知らない世界が、そこにある。

「……本当に」

声が漏れた。

「本当に、異世界なんだな」

ニオが少し首を傾げる。

「異世界?」

「いや……なんでもない」

ハルトは慌てて首を振った。

ニオは気にした様子もなく、遠くの火山を指さした。

「運がいいと、あの辺に見えるんだぜ」

「何が?」

「ドラゴン」

ハルトは固まった。

「ど、ドラゴン!?」

声が裏返った。

ニオの方が驚いた顔をする。

「え? うん」

「いるの? ドラゴン」

「いるよ。まあ、珍しいけどな。たまにだよ」

「たまに……」

ハルトは遠くの火山を見た。

ドラゴン。

魔法がある。

スキルがある。

太陽は西から昇る。

そして、ドラゴンもいる。

「ドラゴンいるんだ……」

自分でも間抜けな声だと思った。

「まあ、魔法もあるもんな」

そこまで言って、ハルトは小さく息を吐く。

「俺は使えないけど……」

ニオが笑う。

「使えないやつの方が多いよ」

「そうなの?」

「ちゃんと魔法を使えるなら、灰鼠で荷車なんか押してないって」

それはそうだった。

ハルトはもう一度、火山を見た。

遠すぎて、ドラゴンなんて見えない。

でも、見えるかもしれないと思えるだけで、胸の奥が少しざわついた。

怖いような。

嬉しいような。

自分は本当に、とんでもない場所に来てしまったのだと思った。

城壁を降りたあと、ニオは少し考えてから言った。

「最後に、もう一か所行こう」

「まだあるの?」

「うん。俺がけっこう好きな場所」

二人は城壁沿いの道を外れ、海側へ向かった。

道は少しずつ細くなり、人の数も減っていく。

倉庫街の騒がしさが遠ざかり、代わりに波の音が聞こえてきた。

たどり着いたのは、海に面した崖だった。

高すぎるわけではない。

だが、下には岩場があり、波が白く砕けている。

東の空は、夕焼けに染まり始めていた。

太陽は海へ向かって沈んでいく。

自分の知っている世界なら、夕日は西に沈む。

けれどこの世界では、東の海へ沈む。

赤い光が、海面を長く伸びていく。

街の喧騒は遠く、風だけが強かった。

ハルトは崖の縁から少し離れた場所に立ち、黙ってそれを見た。

「綺麗だろ」

ニオが言った。

「うん」

本当に綺麗だった。

雪山で見た白い世界とは違う。

焚き火の赤とも違う。

海に沈む夕日は、どこか現実味がなかった。

それでも、目を離せなかった。

「ここ、たまに来るんだ」

ニオは岩に腰を下ろした。

「仕事がない日とか、嫌になった日とか」

「嫌になるんだ」

「なるよ」

ニオは笑った。

「灰鼠だからね」

その言い方はいつもの軽さだったが、少しだけ別のものが混じっていた。

「店を持ったらさ」

ニオは夕日を見ながら言った。

「たまにはここに来たいんだよね」

「店、忙しくなるんじゃないの?」

「そこそこ暇な店でいい」

「いいの?」

「忙しすぎると、また荷車押してるのと変わんないじゃん」

ハルトは少し笑った。

「たしかに」

ニオも笑う。

しばらく、二人は黙って夕日を見ていた。

ハルトは思った。

この世界はひどい。

盗品の荷車を押すし、灰鼠は使われるし、金は少ないし、ゴロツキとして見られる。

でも、ひどいだけではない。

作りかけの城壁の上から見た街。

草原。

運河。

火山。

ドラゴンがいるかもしれない空。

そして、東の海に沈む夕日。

この世界には、まだ知らないものが多すぎる。

怖い。

でも、少しだけ見てみたいとも思った。

その日の夜。

ハルトは疲れていたせいか、寝つきが早かった。

倉庫裏の寝床は相変わらず硬く、薄い布は体をほとんど守ってくれない。

それでも、城壁の上で受けた風と、東の夕日の赤が頭に残っていた。

目を閉じる。

遠くで、水路を行く小舟の音がした。

どれくらい眠ったのか分からない。

ふと、目が覚めた。

理由はなかった。

ただ、寝床の隣が空いていた。

「……ニオ?」

小さく呼ぶ。

返事はない。

いつもなら、ニオはそこにいる。

寝相は悪いが、眠りは浅い。

呼べば、だいたい小さくうめく。

でも、今はいない。

ハルトは体を起こした。

部屋は暗い。

ロッソとバルドの姿もない。

外からは、夜の倉庫街の水音だけが聞こえている。

胸の奥に、小さな不安が生まれた。

顔を隠した男。

水路沿いの路地。

倉庫の裏口。

使われていない井戸のそば。

まあ、そんなとこ。

ニオの曖昧な笑い。

それらが、眠気の中で繋がりかける。

ハルトはしばらく待った。

戻ってくるかもしれない。

そう思った。

けれど、ニオは戻らなかった。

夜は長かった。

目を閉じても、眠れない。

どこかで足音がするたびに、ハルトは体をこわばらせた。

やがて、空が薄く明るくなり始めた頃。

扉が、そっと開いた。

ニオだった。

赤い髪が乱れている。

顔色が悪い。

唇が少し青い。

そして、震えていた。

「ニオ」

ハルトが名前を呼ぶと、ニオはびくりと肩を跳ねさせた。

「起きてたの?」

声がかすれていた。

「どこ行ってたの?」

ニオは答えなかった。

ただ、笑おうとした。

でも、うまく笑えていなかった。

「ちょっと……用事」

それだけ言って、ニオは寝床に座り込んだ。

手が震えている。

ハルトは、その手を見た。

何かを握っていたわけではない。

血がついているわけでもない。

それでも、ひどく嫌な感じがした。

「大丈夫?」

ニオは少し遅れて頷いた。

「大丈夫」

大丈夫な声ではなかった。

ハルトはそれ以上聞けなかった。

聞かなければいけない気がした。

でも、聞いたら何かが崩れる気もした。

明け方の薄い光が、倉庫裏の狭い部屋に差し込んでくる。

昨日見た東の夕日とは違う、冷たい朝の光だった。

ハルトは黙って、震えるニオを見ていた。

不安だけが、静かに大きくなっていった。

読んでいただきありがとうございます。


今回は久々の休日として、ハルトがルヴェリアの広さと、この世界の大きさを知る回でした。

城壁、運河、火山、ドラゴン、そして東の海に沈む夕日。


少しだけ綺麗な一日でしたが、ニオの周りには不穏な影も濃くなってきました。


続きも読んでもらえると嬉しいです。

ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ