第五話 久々の休日
灰鼠の仕事は、何日か続いた。
荷車を押す。
倉庫の荷を移す。
水路沿いの小舟へ木箱を積む。
民家の裏口で見張りに立つ。
取り立てに同行して、黙って後ろにいる。
盗賊という言葉から想像していたものより、ずっと地味だった。
派手に金貨を盗むわけではない。
暗い屋根の上を飛ぶわけでもない。
剣を抜いて戦うわけでもない。
ほとんどは、重いものを運び、待ち、黙り、怒られる仕事だった。
それでも、ハルトは少しずつ覚えていった。
水路沿いは足場が滑ること。
倉庫の帳簿係には先に謝っておいた方がいいこと。
黒牙の印がある店と、ない店では、人の目が違うこと。
荷車を押す時は、腕ではなく足と腰を使うこと。
そして、嫌だと思う仕事でも、やらなければ飯がないこと。
取り立ての付き添いをした日があった。
やったのは、ロッソとバルドだ。
ハルトとニオは、狭い家の入口近くに立っていただけだった。
それでも、中にいた男の顔が青くなり、奥で女が泣き、子どもが机の下に隠れるのを見ているだけで、胸の奥が重くなった。
帰り道、ハルトはしばらく黙っていた。
ニオも、何も言わなかった。
水路沿いの道に出たところで、ハルトはようやく口を開いた。
「もしさ」
「うん?」
「あそこで、相手に襲われたらどうするの?」
ニオは少しだけ考えた。
「逃げる」
「逃げられなかったら?」
「その時は、勝てないなりにやる」
ニオは道端に落ちていた小さな木片を拾った。
細く尖った、壊れた木箱の欠片だった。
「やばい時はさ、こういうのを手の内側に隠すんだよ」
ニオは木片を掌に収める。
外から見ると、何も持っていないように見えた。
「ガラスでもいい。木片でもいい。釘でもいい。握れるなら何でもいい」
「それで?」
「諦めたフリする」
ニオは両手を少し上げた。
「もう抵抗しません。許してください。そういう顔をする」
その次の瞬間、ニオの手がハルトの喉元へ伸びた。
寸前で止まる。
「で、喉に叩き込む」
ハルトは思わず一歩下がった。
「……卑怯すぎるだろ」
ニオは笑った。
「盗賊なんだから、卑怯で当然だろ!」
軽い声だった。
けれど、ハルトは笑えなかった。
「騎士みたいに正面から勝てるやつは、そんなことしなくていいんだよ」
ニオは木片を指先で転がす。
「でも俺らは弱い。弱いやつが綺麗に勝とうとしたら、先に死ぬ」
その言葉は、妙に現実味があった。
ハルトはニオの掌を見た。
さっきまで何も持っていないように見えた手の中に、木片が隠れていた。
「覚えときなよ」
ニオは木片を水路へ投げた。
「終わったフリをするやつほど、最後に刺せる」
ハルトは、ひどい話だと思った。
けれど、この世界では、ひどい話ほど役に立つのかもしれなかった。
その何日かの間に、ハルトは何度か見た。
水路沿いの路地。
倉庫の裏口。
市場の端にある、使われていない井戸のそば。
ニオが、顔を布で隠した男と話しているところを。
長く話すわけではない。
近づいて、短く言葉を交わして、すぐに離れる。
一度、ハルトが目を向けると、ニオは気づいたように笑った。
「知り合い」
それだけだった。
灰鼠の人か、と聞いた時も、返ってきたのは同じような曖昧な言葉だった。
「まあ、そんなとこ」
そのたびに、胸の奥が少しざわついた。
聞いていいことと、聞かない方がいいこと。
この世界では、その境目を間違えると危ない。
そう思って、ハルトは踏み込めなかった。
それでも、ニオがその男と話した日は、いつも少しだけ様子が違った。
笑うのが遅い。
返事が短い。
荷物を持つ手に、妙な力が入っている。
気のせいかもしれない。
そう思うには、もう何度か見すぎていた。
その日は、珍しく朝から仕事がなかった。
ロッソとバルドは別の用事で出ていった。
灰鼠への指示も、夕方まではないらしい。
ハルトが寝床の隅でぼんやりしていると、ニオが顔を出した。
「今日、少し空いた」
「空いた?」
「夕方まで仕事なし」
ニオはそう言って、少し得意げに笑った。
「王都、見る?」
「王都を?」
「お前、まだ倉庫と酒場と寝床くらいしか知らないでしょ」
言われてみれば、その通りだった。
東の都ルヴェリアに入ってから、ハルトが知ったものといえば、盗品の倉庫と、薄暗い酒場と、泥の匂いがする寝床くらいだ。
「見たい」
そう答えると、ニオは満足そうに頷いた。
「じゃあ行こう。金はあんまり使えないけど、見るだけなら安いから」
「安いんだ」
「見るだけならね」
ニオは笑って歩き出した。
倉庫街を抜けると、街は少しずつ顔を変えた。
水路沿いには荷を積んだ小舟が行き交い、橋の上では人足たちが怒鳴り合っている。
魚を焼く匂い、油の匂い、潮の匂い、汗の匂い。
全部が混ざって、空気が重かった。
少し進むと市場があった。
野菜、魚、布、古道具、よく分からない魔道具の部品。
店先には山のように物が積まれ、客も店主も声が大きい。
ニオは歩きながら説明する。
「ここは下町市場。安いけど、ぼったくりも多い」
「ぼったくり」
「灰鼠だってバレると逆に高くされることもある。だから買う時は、別の通りの店がいい」
「黒牙の下なのに?」
「黒牙本体なら違うよ。俺らは灰鼠だから」
ニオは軽く肩をすくめた。
「怖がられるけど、尊敬はされない」
妙に納得できる言葉だった。
市場を抜けると、古い石壁の残る区画に入った。
道は細く、建物は古い。
家と家の間に洗濯物が吊られ、壁のひび割れから草が伸びている。
「ここ、旧城下跡」
ニオが言った。
「昔はこっちに王城があったんだって。今は高台に移ったから、古い建物だけ残ってる」
「それで、スラムになった?」
「全部じゃないけどね。古い町って、金持ちは出ていくけど、貧乏人は残るから」
道端では、子どもが数人、欠けた木片で遊んでいた。
その横を、疲れた顔の女が籠を抱えて歩いていく。
ハルトは、何も言えなかった。
ここにも人が住んでいる。
自分が昨日まで「異世界」とひとまとめにしていた場所に、当たり前みたいに生活があった。
「こっち」
ニオはさらに歩く。
古い区画を抜けると、建設中の巨大な石の壁が見えてきた。
近くで見ると、壁というより崖だった。
石が積まれ、足場が組まれ、作業員が蟻のように動いている。
木材、鉄具、滑車、ロープ。
怒鳴り声と石を削る音が響いていた。
「これが城壁?」
ハルトは見上げながら言った。
「作りかけだけどね」
「作りかけで、これ?」
「完成したら世界一長い城壁にするんだってさ」
ニオは軽く笑った。
「千キロを超える予定らしいよ」
「……千キロ?」
ハルトは聞き返した。
城壁。
千キロ。
意味が分からない。
「馬鹿なの?」
「金持ちの考えることは分かんないよね」
ニオはそう言って、壁沿いの階段を指さした。
「上、行けるよ」
「登っていいの?」
「本当は駄目」
「駄目なんだ」
「でも今日は見張りが少ない」
「それ、もっと駄目じゃない?」
「灰鼠だからね」
その一言で済まされた。
階段は長かった。
作りかけの石段はところどころ粗く、片側には木材や鉄具が積まれている。
上に行くほど風が強くなり、倉庫街の油と泥の匂いが薄れていった。
代わりに、海の匂いがした。
最後の段を上がった瞬間、視界が開けた。
ハルトは、思わず足を止めた。
街があった。
広すぎる街だった。
低地には市場と倉庫街。
その先に港。
海には巨大な商船がいくつも浮かび、帆が白く並んでいる。
水路は街の中を縫うように走り、荷船が小さく動いていた。
遠くの高台には、白い王城。
その周りに、新しい城下町が段々と広がっている。
鐘楼がいくつも立ち、どこかで鐘が鳴っていた。
ごおん、ごおん、と。
低く、広い音だった。
空は大きい。
街も大きい。
海も、城も、港も、全部が遠い。
ハルトは息を呑んだ。
広大さだけなら、自分が住んでいた街より広いかもしれない。
いや、街というより都市圏だ。
学校も、駅前も、家の近くの商店街も、全部をまとめて遠くに押し流したような、そんな規模だった。
「……でかい」
それしか言えなかった。
ニオは少し得意そうに笑う。
「だから言ったじゃん。お前が思ってるよりずっとでかいって」
ハルトは返事ができなかった。
こんな街の底で、自分は荷車を押していたのか。
こんな街の片隅で、ゴロツキと見られていたのか。
その事実が、少し遅れて胸に沈んでくる。
「ハルト」
ニオが肩を叩いた。
「そっちもいいけど」
「え?」
振り返った。
そして、言葉を失った。
街の反対側。
そこには、広大な草原が広がっていた。
風に揺れる草。
その向こうに、山。
山のふもとを縫うように、巨大な運河が走っている。
ただの川ではない。
幅が広く、遠目にも人工物だと分かるほど真っ直ぐな区間があり、そこに何隻もの船が浮かんでいた。
さらに遠く、薄い霞の向こうには、山並みよりも高く見える黒い影があった。
火山。
その頂から、細い煙が空へ伸びている。
ハルトは目を離せなかった。
街を見た時とは違う。
これは、規模の話だけではない。
草原。
山。
運河。
火山。
広い空。
知らない世界が、そこにある。
「……本当に」
声が漏れた。
「本当に、異世界なんだな」
ニオが少し首を傾げる。
「異世界?」
「いや……なんでもない」
ハルトは慌てて首を振った。
ニオは気にした様子もなく、遠くの火山を指さした。
「運がいいと、あの辺に見えるんだぜ」
「何が?」
「ドラゴン」
ハルトは固まった。
「ど、ドラゴン!?」
声が裏返った。
ニオの方が驚いた顔をする。
「え? うん」
「いるの? ドラゴン」
「いるよ。まあ、珍しいけどな。たまにだよ」
「たまに……」
ハルトは遠くの火山を見た。
ドラゴン。
魔法がある。
スキルがある。
太陽は西から昇る。
そして、ドラゴンもいる。
「ドラゴンいるんだ……」
自分でも間抜けな声だと思った。
「まあ、魔法もあるもんな」
そこまで言って、ハルトは小さく息を吐く。
「俺は使えないけど……」
ニオが笑う。
「使えないやつの方が多いよ」
「そうなの?」
「ちゃんと魔法を使えるなら、灰鼠で荷車なんか押してないって」
それはそうだった。
ハルトはもう一度、火山を見た。
遠すぎて、ドラゴンなんて見えない。
でも、見えるかもしれないと思えるだけで、胸の奥が少しざわついた。
怖いような。
嬉しいような。
自分は本当に、とんでもない場所に来てしまったのだと思った。
城壁を降りたあと、ニオは少し考えてから言った。
「最後に、もう一か所行こう」
「まだあるの?」
「うん。俺がけっこう好きな場所」
二人は城壁沿いの道を外れ、海側へ向かった。
道は少しずつ細くなり、人の数も減っていく。
倉庫街の騒がしさが遠ざかり、代わりに波の音が聞こえてきた。
たどり着いたのは、海に面した崖だった。
高すぎるわけではない。
だが、下には岩場があり、波が白く砕けている。
東の空は、夕焼けに染まり始めていた。
太陽は海へ向かって沈んでいく。
自分の知っている世界なら、夕日は西に沈む。
けれどこの世界では、東の海へ沈む。
赤い光が、海面を長く伸びていく。
街の喧騒は遠く、風だけが強かった。
ハルトは崖の縁から少し離れた場所に立ち、黙ってそれを見た。
「綺麗だろ」
ニオが言った。
「うん」
本当に綺麗だった。
雪山で見た白い世界とは違う。
焚き火の赤とも違う。
海に沈む夕日は、どこか現実味がなかった。
それでも、目を離せなかった。
「ここ、たまに来るんだ」
ニオは岩に腰を下ろした。
「仕事がない日とか、嫌になった日とか」
「嫌になるんだ」
「なるよ」
ニオは笑った。
「灰鼠だからね」
その言い方はいつもの軽さだったが、少しだけ別のものが混じっていた。
「店を持ったらさ」
ニオは夕日を見ながら言った。
「たまにはここに来たいんだよね」
「店、忙しくなるんじゃないの?」
「そこそこ暇な店でいい」
「いいの?」
「忙しすぎると、また荷車押してるのと変わんないじゃん」
ハルトは少し笑った。
「たしかに」
ニオも笑う。
しばらく、二人は黙って夕日を見ていた。
ハルトは思った。
この世界はひどい。
盗品の荷車を押すし、灰鼠は使われるし、金は少ないし、ゴロツキとして見られる。
でも、ひどいだけではない。
作りかけの城壁の上から見た街。
草原。
運河。
火山。
ドラゴンがいるかもしれない空。
そして、東の海に沈む夕日。
この世界には、まだ知らないものが多すぎる。
怖い。
でも、少しだけ見てみたいとも思った。
その日の夜。
ハルトは疲れていたせいか、寝つきが早かった。
倉庫裏の寝床は相変わらず硬く、薄い布は体をほとんど守ってくれない。
それでも、城壁の上で受けた風と、東の夕日の赤が頭に残っていた。
目を閉じる。
遠くで、水路を行く小舟の音がした。
どれくらい眠ったのか分からない。
ふと、目が覚めた。
理由はなかった。
ただ、寝床の隣が空いていた。
「……ニオ?」
小さく呼ぶ。
返事はない。
いつもなら、ニオはそこにいる。
寝相は悪いが、眠りは浅い。
呼べば、だいたい小さくうめく。
でも、今はいない。
ハルトは体を起こした。
部屋は暗い。
ロッソとバルドの姿もない。
外からは、夜の倉庫街の水音だけが聞こえている。
胸の奥に、小さな不安が生まれた。
顔を隠した男。
水路沿いの路地。
倉庫の裏口。
使われていない井戸のそば。
まあ、そんなとこ。
ニオの曖昧な笑い。
それらが、眠気の中で繋がりかける。
ハルトはしばらく待った。
戻ってくるかもしれない。
そう思った。
けれど、ニオは戻らなかった。
夜は長かった。
目を閉じても、眠れない。
どこかで足音がするたびに、ハルトは体をこわばらせた。
やがて、空が薄く明るくなり始めた頃。
扉が、そっと開いた。
ニオだった。
赤い髪が乱れている。
顔色が悪い。
唇が少し青い。
そして、震えていた。
「ニオ」
ハルトが名前を呼ぶと、ニオはびくりと肩を跳ねさせた。
「起きてたの?」
声がかすれていた。
「どこ行ってたの?」
ニオは答えなかった。
ただ、笑おうとした。
でも、うまく笑えていなかった。
「ちょっと……用事」
それだけ言って、ニオは寝床に座り込んだ。
手が震えている。
ハルトは、その手を見た。
何かを握っていたわけではない。
血がついているわけでもない。
それでも、ひどく嫌な感じがした。
「大丈夫?」
ニオは少し遅れて頷いた。
「大丈夫」
大丈夫な声ではなかった。
ハルトはそれ以上聞けなかった。
聞かなければいけない気がした。
でも、聞いたら何かが崩れる気もした。
明け方の薄い光が、倉庫裏の狭い部屋に差し込んでくる。
昨日見た東の夕日とは違う、冷たい朝の光だった。
ハルトは黙って、震えるニオを見ていた。
不安だけが、静かに大きくなっていった。
読んでいただきありがとうございます。
今回は久々の休日として、ハルトがルヴェリアの広さと、この世界の大きさを知る回でした。
城壁、運河、火山、ドラゴン、そして東の海に沈む夕日。
少しだけ綺麗な一日でしたが、ニオの周りには不穏な影も濃くなってきました。
続きも読んでもらえると嬉しいです。
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