第四話 灰鼠の仕事う
翌朝、ハルトは腕の痛みで目を覚ました。
昨日、荷車を押し、荷を下ろし、酒場から戻り、よく分からないまま眠った。
その結果がこれだ。
肩が重い。
手のひらがひりつく。
太ももにも、ふくらはぎにも、知らない疲労が溜まっている。
高校の登山部でも、疲れた日はあった。
けれどこれは、山を歩いた疲れとは違う。
人に使われた疲れだ。
「起きてる?」
横から声がした。
ニオだった。
狭い寝床の端で、赤い髪を手ぐしで整えている。
寝床といっても、倉庫裏の空き部屋に薄い布を敷いただけの場所だった。
「うん」
「今日は倉庫街だって」
「倉庫街?」
「昨日入れた荷の整理と、別の荷の移し替え」
ハルトは起き上がる。
「ロッソたちは?」
ニオは口をへの字に曲げた。
「遊びに行った」
「……遊び?」
「昨日の取り分、俺らより多かったでしょ」
そういえば、ロッソとバルドの袋は明らかに重かった。
「今日の仕事も、あの二人の名前で受けてる」
「名前で?」
「うん。だから、あいつらが働いてなくても金は入る」
ニオは肩をすくめた。
「あいつらの分まで、俺らが働けってこと。俺たちが動くから」
ハルトは少しだけ黙った。
「それ、かなり……」
言いかけて、やめる。
理不尽。
そう言いたかった。
でも、ここではきっと、そんな言葉に意味はない。
ニオは苦笑した。
「灰鼠だからね」
それはつまり、断れば次の仕事がなくなるということだ。
次の仕事がなければ、飯もなくなる。
ハルトは何も言えずに立ち上がった。
倉庫街の朝は、すでに騒がしかった。
木箱を運ぶ音。
樽が転がる音。
水路を行く小舟の水音。
怒鳴り声。
咳払い。
どこかで焼かれる魚の匂い。
高台の方にある城や新しい街並みとはまるで別物だった。
ここは低い。
空気も、声も、人の目も。
「こっち」
ニオに連れられて入ったのは、昨日とは別の倉庫だった。
扉の上には黒牙の印がない。
代わりに、壁の隅に小さく黒い線が刻まれている。
「これも黒牙の倉庫?」
ハルトが聞くと、ニオは首を振った。
「表向きは別の商会の倉庫」
「表向き」
「そう。中身は半分黒牙」
嫌な言い方だった。
倉庫の中には、麻袋や木箱が積み上げられていた。
乾いた豆。布。鉄具。油。塩。よく分からない魔道具の部品。
奥にいた痩せた男が帳簿を見ながら言う。
「灰鼠か。遅い」
「すみません」
ニオがすぐに頭を下げる。
ハルトも遅れて頭を下げた。
男は細い指で奥の荷を指した。
「奥の袋を水路側へ。水路側の箱を二階へ。二階の空箱は裏へ。昼までに終わらせろ」
ニオの顔が固まった。
「二人で、ですか?」
「他に誰がいる?」
男は帳簿から目を離さない。
「昨日、灰鼠はいい荷を入れたんだろう。なら働け」
それだけだった。
ハルトは倉庫の奥を見た。
袋。
箱。
樽。
階段。
水路側の扉。
量がおかしい。
どう考えても二人で昼までに終わる仕事ではない。
「やるよ」
ニオが小さく言った。
「やらないと終わらないから」
「やっても終わる?」
「それは言わない約束」
ハルトは息を吐いて、麻袋を持ち上げた。
重い。
米かと思ったが、違う。
中身は乾いた豆のようなものだった。
肩に担ぐと、骨に重さが乗った。
一袋運ぶ。
戻る。
また担ぐ。
二袋、三袋。
十袋を超えたあたりで、数えるのをやめた。
ニオは慣れているのか、力の使い方がうまかった。
重いものを持つ時、腰を落とし、片側の肩だけに負担をかけない。
ハルトは見よう見まねで真似をする。
「持ち方、そうじゃない」
ニオが言った。
「背中で持つと潰れるよ。腰と足」
「足」
「そう。荷物を運ぶ時は腕じゃない。腕は引っかけるだけ」
言われた通りにすると、少しだけ楽になった。
「うまいね」
ニオが笑う。
「覚えるの早い」
「必死だから」
「最高」
ニオは短く笑って、また荷を担いだ。
そんな会話をしながら、二人はひたすら荷を運んだ。
昼は来た。
仕事は終わらなかった。
痩せた男は一度だけ倉庫に戻ってきて、積み方に文句を言い、また出ていった。
飯は硬いパンと、薄い豆の汁だった。
ハルトは倉庫の壁にもたれながら、それを食べた。
うまくはない。
けれど、食べなければ動けない。
昨日の酒場の煮込みが、急に贅沢に思えた。
「灰鼠って、いつもこんな感じ?」
ハルトが聞くと、ニオはパンをかじりながら頷いた。
「仕事によるけど、だいたいこんな感じ」
「盗賊って、もっとこう……」
「派手?」
「うん」
ニオは笑った。
「派手な仕事は上のやつがやる。俺らは運ぶ、隠す、見張る、掃除する、怒られる」
「夢がない」
「夢があるやつが来て、夢がなくなる場所だからね」
軽い言い方だった。
でも、笑えなかった。
ハルトはパンを飲み込み、水を飲んだ。
「ニオは、抜けたいんだよね」
「うん」
ニオはあっさり言った。
「金を貯めて?」
「そう」
「何するの?」
ニオは少しだけ黙った。
それから、倉庫の暗い天井を見上げる。
「小さい店」
「店」
「酒場でも飯屋でもいい。安いやつでいいんだ。仕事帰りの人が来て、腹いっぱい食べて、少しだけ飲んで帰るような店」
ニオは自分で言って、少し照れたように笑った。
「盗んだ金で始める店ってどうなのって話だけど」
ハルトは答えに迷った。
正しいとは言えない。
でも、笑う気にもなれなかった。
「いいと思う」
結局、それだけ言った。
ニオは少し驚いた顔をした。
「ほんとに?」
「うん。少なくとも、荷車を押し続けるよりは」
ニオは声を出さずに笑った。
「それはそう」
少しだけ沈黙が落ちる。
倉庫の外では、水路を小舟が通る音がしていた。
ハルトは、何となく言った。
「俺も一緒に行こうかな」
ニオが顔を上げる。
「え?」
「その店。雇ってよ」
「ハルトを?」
「うん」
ニオはぽかんとした。
それから、少しだけ笑う。
「まじかよ……」
「だめ?」
「いや」
ニオはパンの欠片を指で転がした。
「でも、いいよ」
「本当に?」
「うん」
ニオはハルトを見る。
「信用できるからね」
ハルトは返事に詰まった。
信用。
その言葉は、昨日の「いいやつ」より重かった。
「俺、そんな大した人間じゃないよ」
「知ってる」
ニオはすぐに言った。
「大した人間なら灰鼠にいないし」
「それはそうかも」
「でも、昨日止めようとしたじゃん。バルドが籠まで取ろうとした時」
ハルトの胸が少し詰まる。
あの時の視線。
右目の奥に浮かんだ黒い文字。
【悪名】ゴロツキ。
まだ忘れられない。
「止められてない」
「でも、言った」
ニオはパンを口に入れる。
「それだけで、俺はちょっと信用できると思った」
ハルトは何も言えなかった。
嬉しいような、困るような、痛いような。
その全部が混ざっていた。
午後も、仕事は続いた。
水路側の箱を二階へ運ぶ。
二階の空箱を裏へ下ろす。
空箱だから軽いと思ったら、木が湿気を吸っていて妙に重い。
途中でハルトは、ふと気づいた。
朝より、少しだけ荷が軽く感じる。
いや、気のせいかもしれない。
体が慣れただけかもしれない。
だが、足が半歩だけ前へ出る。
息が、ほんの少し長く続く。
右目の奥が、うっすらと疼いた。
表示は出ない。
けれど、昨日の黒い文字が頭に残っている。
ゴロツキ。
補正、微弱。
「……これか?」
小さく呟く。
ニオが振り返った。
「何?」
「いや、なんでもない」
ハルトは箱を担ぎ直した。
チートと呼ぶには、あまりにも地味だった。
昨日、ゴロツキと見られて。
得たものがこれ。
少し荷物が軽く感じるかもしれない程度。
情けない。
けれど、ゼロではない。
それが、少し怖かった。
夕方。
ようやく仕事が終わった時、ハルトはその場に座り込みたくなった。
しかしニオはまだ動いていた。
帳簿の男に報告し、空いた場所の確認をし、水路側の扉を閉める。
慣れている。
それが、逆に痛々しかった。
「終わった?」
ハルトが聞くと、ニオは肩を回しながら頷いた。
「一応ね」
「一応」
「明日、積み方に文句言われるかもしれないから」
「終わってないじゃん」
「灰鼠の仕事は、終わったことにしてから怒られるんだよ」
ハルトは苦笑した。
倉庫を出る頃には、空が赤黒く沈んでいた。
太陽が東へ落ちていく。
まだ慣れない光景だった。
その帰り道。
ニオが、ふと足を止めた。
水路沿いの細い路地。
その奥に、顔を布で隠した男が立っていた。
背は高くない。
だが、立ち方が妙に静かだった。
ニオがハルトを見る。
「先、行ってて」
「え?」
「すぐ戻る」
ハルトは路地の奥を見た。
顔を隠した男は、こちらを見ていないようで、見ている。
「灰鼠の人?」
ハルトが聞くと、ニオは少しだけ間を置いた。
「まあ、そんなとこ」
曖昧な返事だった。
ニオは小走りで路地へ入っていく。
ハルトはその背中を見送った。
声は聞こえない。
ただ、ニオが男の前で足を止めるのが見えた。
男が何かを差し出す。
ニオはそれを受け取らず、首を横に振る。
短いやり取り。
すぐにニオは戻ってきた。
「ごめん。行こう」
「今の人は?」
「知り合い」
「灰鼠の?」
「まあ、そんなとこって言ったじゃん」
ニオは笑った。
でも、その笑い方は、昼に夢を話した時とは少し違っていた。
ハルトはそれ以上、聞けなかった。
聞いていいことと、聞かない方がいいこと。
この世界では、その境目を間違えると危ない気がした。
二人は並んで歩き出す。
倉庫街の水路には、東へ沈む夕陽の赤が細く揺れていた。
ハルトはその光を見ながら、今日一日で知ったことを思い返す。
灰鼠の仕事は地味で、きつい。
信用できるやつは貴重。
悪名の補正は、たぶん本当にある。
そしてニオには、まだ話していない何かがある。
全部、分からないことばかりだった。
それでも、昨日より少しだけ、この世界の足場が見えた気がした。
泥まみれで、湿っていて、いつ崩れるか分からない。
そんな足場だったけれど。
読んでいただきありがとうございます。
今回は灰鼠としての地味な仕事と、ニオとの少しだけ前向きな会話の回でした。
ハルトにとっては、悪名の補正が本当に存在することを体感し始める回でもあります。
そして、ニオにはまだ何かありそうです。
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