第10話 引き渡しの日
エルナは、黒い外套を着ていた。
ハルトが買った服ではない。
イグニスがくれた赤いカーディガンでもない。
どちらも、目立つからだ。
黒牙が用意した外套は、黒ではあったが、黒牙団員のものではなかった。
牙の印もない。
威圧感もない。
旅人や小商人の娘が着ていてもおかしくない、ただの黒い外套。
その下には、長旅に耐えられる丈夫な上下。
靴も歩きやすいものへ替えられている。
エルナは、少しだけ袖を摘まんだ。
「変?」
「いや」
ハルトは首を振る。
「旅人っぽい」
「旅人」
「少なくとも、荷物には見えねぇよ」
エルナは一度黙った。
それから、小さく頷く。
「うん」
荷物は、小さかった。
替えの服が少し。
最低限の小物。
あとは、ハルトが贈った銀と翡翠の髪飾り。
エルナはそれだけを持って、倉庫街へ向かった。
集合場所は、倉庫街の目立たない一角だった。
大通りではない。
南側の港から少し内側へ入った、水路沿いの古い事務所。
周囲には荷車が並び、小さな倉庫がいくつも口を開けている。
だが、その一帯の空気だけは違った。
黒牙が周囲を張っていた。
分かる者にしか分からない。
荷役人に見える男。
通りすがりの商人に見える女。
屋根の上で寝ているように見える若い構成員。
全員が、こちらを見ていないふりをしている。
ゼギルは、事務所の前にいた。
黒い外套。
いつもと変わらない立ち姿。
その横にヴァイスの姿はない。
「来たか」
「ああ」
ゼギルはエルナを見た。
「あと一時間くらいで落ち合うことになってる。挨拶は済ませたか?」
エルナは、少しだけ周囲を見た。
そこには、見送りに来た者たちがいた。
セリカ。
ルーカス。
シャノン。
ベルノ。
イグニス。
ライザ。
ナザル。
スイレン。
思っていたより、多かった。
「……まだ」
エルナが言うと、ゼギルは顎で示した。
「なら済ませろ。一時間ある」
最初に動いたのは、ナザルだった。
「ほら」
雑に包まれた小さな包みが、エルナの前に差し出される。
「魚?」
「魚、好きだったろ」
エルナは少しだけ目を見開いた。
「覚えてくれてたんだ」
「当たり前だろ。内陸ルートなら、しばらく食えないぞ」
エルナは包みを受け取る。
「ありがとう」
「長持ちするけど、早めに食えよ」
横でスイレンが静かに頷いた。
「保存食としては優秀です」
「おい」
ナザルが眉を寄せる。
エルナは包みを見る。
「味は、そうでもない?」
「まあ、保存食にしてあるからな。俺は新鮮な魚派だ」
「ナザル様、そこは嘘でも美味しいと言う場面です」
「俺は魚に嘘はつかねぇ」
エルナは少し笑った。
「大事に食べる」
「おう。腐らせるなよ」
次に、イグニスが前へ出た。
「これ」
布に包まれた服だった。
派手すぎず、けれど肌触りのよさそうなもの。
「向こうで着な。ハルトが選んだ服だけじゃ足りないでしょ」
「……いいの?」
「いいの。私が渡したいだけ」
エルナは服を抱えた。
「ありがとう、イグニスさん」
「寒い時はちゃんと着ること。暑い時は脱ぐこと。ちゃんと食べること。寝られる時に寝ること」
「当たり前のことばっかり」
「当たり前を忘れる子は多いんだよ」
イグニスはそう言って、エルナを軽く抱きしめた。
エルナは少しだけ驚いた。
けれど、逃げなかった。
「また会おうね、エルナ」
「……うん」
エルナは服を抱えたまま、小さく頷いた。
「また、会いたい」
イグニスは笑った。
「それでいい」
ライザが横から口を挟む。
「随分と姉みたいじゃないか」
「姉だよ、姉」
「否定しないんだね」
「する理由がないからね」
エルナは、服をぎゅっと抱えた。
その次に、セリカが近づいた。
セリカは小さな箱を持っていた。
箱を開けると、中には黒い腕輪が入っている。
可愛くはなかった。
華やかでもない。
細い宝石も、繊細な飾りもない。
ただ、無骨な黒の腕輪だった。
「これは、黒鋼の腕輪です」
セリカはそう言って、エルナに差し出した。
「可愛くはありません」
「飾りとしても、華やかではありません」
エルナは、そっと腕輪を受け取る。
見た目より、ずっと軽かった。
「ですが、黒鋼は簡単には断てません」
セリカの声は、いつも通り静かだった。
「この繋がりを、忘れないでください」
エルナは黒い腕輪を見つめた。
物としては軽い。
けれど、込められたものは軽くなかった。
「……忘れない」
エルナはそう言って、腕輪を手首に通した。
黒い腕輪が、白い手首に収まる。
ハルトは、それを見て少しだけ眉を下げた。
「お前、贈り物の渡し方硬すぎねぇか?」
「ハルト様よりはましです」
「俺、何かしたか?」
「自覚がないところです」
「理不尽じゃね?」
「事実です」
エルナは小さく笑った。
次に、ルーカスが一歩前に出た。
「西でも、元気でね」
「うん」
「困ったら手紙送って。俺、届くか分からないけど」
「……どうやって?」
「分かんない」
シャノンがルーカスの後頭部を軽く叩いた。
「適当すぎるにゃ」
「だって、分かんないし」
「そこは考えてから言うにゃ」
シャノンはエルナを見る。
「向こうでうまい魚あったら教えるにゃ」
「シャノンは魚ばっかり」
「魚は大事にゃ」
「うん。覚えておく」
ベルノは少し姿勢を正した。
「道中、お気をつけて」
「うん」
「何かあれば、白煙陣営の名を出してください。脅しにはなります」
「……いいの?」
「使えるものは使うべきです」
ベルノは真面目な顔で言った。
「あなたは、我々の客人でした」
「それは、向こうに着いても消えません」
エルナは、また少しだけ腕輪に触れた。
「荷物が、増えちゃった」
ぽつりと、そう言った。
最初に黒牙へ来た時、持っていたものなどほとんどなかった。
自分のものと呼べるものも、ほとんどなかった。
けれど今は違う。
髪飾り。
服。
保存食。
黒鋼の腕輪。
言葉。
思い出。
ハルトは言った。
「いいんじゃねぇか」
エルナが顔を上げる。
「今度は、お前が持っていく荷物だ」
「私が、持っていく荷物」
「ああ」
ハルトは少しだけ笑った。
「捨てんなよ」
「うん」
エルナは頷いた。
「捨てない」
やがて、贈り物をまとめた荷物は、目の前の事務所へ一度預けることになった。
合流まで、まだ時間がある。
この一角は黒牙の管理下にあり、周囲の目も届く。
事務所の中で待機するのが一番安全だった。
見送り組は、そこで帰ることになった。
ナザルは大きく伸びをした。
「俺はそろそろ港の様子見てくるわ。なんか嫌な感じするしな」
「嫌な感じ?」
「水が落ち着かねぇ」
スイレンが隣で頷く。
「港湾側の確認は私たちで行います」
ルーカス、シャノン、ベルノは残った。
周辺警備に当たるためだ。
「ハルト様、周囲は俺たちが見ます」
ルーカスが黒鋼の手甲を鳴らす。
「おう」
「何かあればすぐ知らせます」
ベルノも頷く。
「この一帯の出入りは絞ります」
シャノンは屋根の上を見上げた。
「上も見とくにゃ」
ハルトは三人を見た。
「頼む」
「はい!」
三人はそれぞれ散った。
事務所の中に残ったのは、ハルト、エルナ、セリカ、ゼギルだった。
事務員たちは落ち着かない顔をしている。
黒牙の団長がいるのだから当然だ。
それでも表面上は仕事を続け、帳簿をめくり、書類を運んでいた。
ハルトは窓の外を見た。
倉庫街は、いつも通りに見える。
荷車が通り、荷役人が怒鳴り、小舟が水路を滑っていく。
だが、妙に静かだった。
音はある。
けれど、何かが足りない。
ハルトはそれを言葉にできなかった。
「団長」
「あ?」
「ヴァイスさんは?」
「例の件で動いてる」
「例の件って」
「今は聞くな」
ゼギルは椅子に座りもせず、壁に背を預けていた。
目だけが、窓の外を見ている。
「団長も、警戒してるんですか」
「当たり前だろ」
ゼギルは短く言う。
「向こうが大人しく引き下がるなら、そもそもアニマなんざ運んでねぇよ」
エルナの肩が、小さく揺れた。
ハルトはそれに気づき、少しだけ位置を変えた。
エルナと窓の間に立つ。
ゼギルはそれを見て、わずかに口元を上げた。
「様になってきたじゃねぇか」
「茶化さないでください」
「褒めてんだよ」
その時だった。
どこかで、声がした。
いや、声ではない。
通信の向こうのような、こもった音。
「作戦を開始する」
ハルトが顔を上げる。
次の瞬間、世界が爆ぜた。
音が消えた。
いや、音が大きすぎて、耳が理解を拒んだ。
事務所の壁が膨れ上がる。
窓が砕ける。
床が跳ねる。
天井が落ちる。
ハルトは反射でエルナの腕を掴んだ。
「エルナッ!」
間に合わない。
そう思った。
爆炎が、視界を埋め尽くした。
やばい。
その一言だけが、頭の中で白く弾けた。
だが、熱は来なかった。
代わりに、闇があった。
黒い闇が、爆炎も、破片も、瓦礫も、音さえも呑み込むように広がっていた。
数秒遅れて、闇がゆっくりと引いていく。
吹き飛んだ事務所。
逃げ惑う事務所員。
割れた机。
砕けた壁。
外から流れ込む潮風。
その中心に、ゼギルが立っていた。
「団長……!」
ハルトの声が漏れる。
ゼギルは振り返らない。
黒い外套の裾だけが、爆風の残りで揺れていた。
「やっぱり動きやがったか」
港の方から轟音が響く。
海を見る。
軍艦が三隻。
その腹から、無数の揚陸艇が倉庫街へ向かって迫っていた。
「……軍艦が三隻」
ハルトは、乾いた声で呟いた。
「まるで戦争じゃねぇか」
「あぁ」
ゼギルはあっさりと言った。
「これまでの抗争じゃねぇ。戦争だ」
盗賊同士の抗争ではない。
暗殺でもない。
裏取引の失敗でもない。
国家の軍が、街へ噛みついてきていた。
ゼギルの声が低くなる。
「覚悟決めろ」
爆煙の向こうから、巨大な影が歩いてくる。
両腕。
両脚。
すべてが異様な魔装義肢。
歩くたびに、地面が鈍く鳴る。
両手両足を魔装義肢に換装した、歩く軍艦のような大男だった。
男は瓦礫の前で足を止める。
「お初にお目にかかる。黒牙の皆さん」
低く、よく通る声だった。
男は片腕を胸の前に置き、戦場には似合わないほど丁寧に名乗る。
「南諸島連合、ギルガメス島将軍」
「ヴァルバトス・ヴォルグである」
その目が、ゼギルへ向く。
「そして、深淵のゼギル殿」
ゼギルは笑わなかった。
「ずいぶん派手な挨拶だな」
「失礼。こちらも急いでいるのでな」
ヴァルバトスの視線が、ハルトの後ろへ動く。
エルナが、わずかに息を止めた。
「その荷物は、我が国にとって大事なものでな」
ヴァルバトスは、当然のように言った。
「お返しいただきたい」
ハルトの指が、ぴくりと動いた。
「……荷物?」
白い冷気が、足元に薄く漏れる。
ゼギルが片手を上げた。
「ハルト」
その一言で、ハルトの足が止まる。
ゼギルは、ヴァルバトスを見たまま言った。
「悪いな、将軍」
「あれはもう、うちのガキが盗んだ」
ヴァルバトスの目が細くなる。
ゼギルは黒い外套を揺らし、静かに笑った。
「黒牙は、盗んだもんを簡単に返さねぇ」
その瞬間、ヴァルバトスの右腕が変形した。
金属が唸る。
関節が開き、外装が組み変わり、巨大な槍のような砲身が伸びる。
ゼギルの目が細くなった。
「ハルト。エルナを連れて、オルガンの館を目指せ」
「でも!」
ハルトは反射で言い返していた。
ゼギルの背中が、少しだけ動く。
「でも、じゃねぇ」
声は低かった。
怒鳴ってはいない。
それなのに、足が止まる。
「お前、誰の心配してんだ」
「……団長」
「舐めんな」
ゼギルは、ゆっくりと振り返った。
黒い瞳が、爆煙の向こうで笑っている。
「俺は最強だ」
その一言で、場の空気が変わった。
「この場で一番危ねぇのは、俺じゃねぇ」
「お前が連れてる、その子だ」
ハルトは歯を食いしばった。
「お前が残って俺の横に立つなら、誰がエルナを盗み切る」
「……」
「盗賊だろ、ハルト」
ゼギルの黒い外套が、爆風の残りに揺れる。
「盗んだもんを、最後まで抱えて走れ」
ハルトは、拳を握った。
残りたい。
戦いたい。
この場に立ちたい。
けれど、それはハルトの役目ではなかった。
「……はい」
ハルトは頭を下げた。
「お願いします!」
ゼギルは鼻で笑う。
「任せろ」
その時、ルーカス、シャノン、ベルノが戻ってきた。
「俺たちは残ります」
ルーカスの声は震えていなかった。
「護衛できなくて、すみません」
ハルトは思わず振り返る。
「は?」
ベルノが剣に手をかける。
「ハルト様とエルナさんを最後までお守りするのが、我々の役目でした」
シャノンが耳のあたりをぴくりと動かす。
「でも、このまま全員で逃げたら、追いつかれるにゃ」
「お前ら、相手は軍だぞ」
「分かってます」
ルーカスは頷いた。
「だから、残ります」
ハルトは何か言おうとした。
だが、ゼギルが先に笑った。
「はっ。気にすんな、ハルト」
ゼギルが顎で前方を示す。
「どうせ、こいつはお前らじゃ止めらんねぇ」
ヴァルバトス・ヴォルグが、瓦礫を踏み砕いて進んでくる。
その背後に、三人の魔道兵が降り立った。
一人は腕を剣に変えている。
一人は槍のような魔装義肢を構えている。
一人は両脚だけが、獣のように異様な形へ変形していた。
ゼギルは三人の魔道兵を見て、つまらなさそうに言った。
「そこの番犬三人を止めとけ」
ルーカスが黒鋼の手甲を鳴らす。
「はい」
シャノンの腰の後ろで、魔力の尻尾が揺れる。
「了解にゃ」
ベルノが眼鏡を押し上げる。
「必ず、時間を稼ぎます」
ハルトは、三人を見る。
ついこの間まで、補佐見習いだった。
まだ危なっかしくて、見ていないと不安で、何度も転んで、何度も立ち上がった三人。
その三人が今、軍の魔道兵の前に立っている。
「……死ぬなよ」
ハルトはそれだけ言った。
ルーカスが笑う。
「はい!」
シャノンが肩をすくめる。
「死ぬほど働くのは嫌にゃ」
ベルノが短く頷く。
「生きて、また報告します」
セリカが静かに言った。
「ハルト様。行きます」
ハルトはエルナの手を握り直した。
「走るぞ」
「うん」
エルナが頷く。
背後で、ゼギルの闇が広がった。
前方には、倉庫街の路地が内陸へ続いている。
ハルトは振り返らなかった。
振り返れば、足が止まる。
足が止まれば、盗んだ少女を奪われる。
だから、走った。
背後で、戦争が始まった。
あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回は、エルナの引き渡し当日。
別れと旅立ちの回になるはずが、南諸島連合の強襲によって、一気に戦争の始まりへ変わる回でした。
エルナは最初、ほとんど何も持っていませんでした。
けれど今は、髪飾り、服、保存食、黒鋼の腕輪、そして白煙陣営との繋がりを持って旅立とうとしています。
「荷物」として扱われてきたエルナが、今度は自分の意思で「持っていく荷物」を得る。
そこを書きたかった回でもあります。
そして南諸島連合の将軍、ヴァルバトス・ヴォルグが登場しました。
ここからは、これまでの裏社会の抗争ではなく、国家の軍が相手になります。
ゼギル、三牙、ハルトたちがそれぞれの場所で戦うことになります。
少しでも「続きが気になる」と思っていただけたら、ブックマークや評価で応援してもらえると嬉しいです。
執筆の大きな励みになります。




