第5話 道場の呼吸
黒牙本部の最上階には、夜でも灯りの落ちない部屋がある。
団長執務室。
窓の外には、夜のルヴェリアが広がっていた。
水路に灯りが揺れ、港の方ではまだ荷役の明かりがちらついている。
眠らない都。
その裏側を握る男は、机に肘をつきながら、低く息を吐いた。
「いつも悪いな、ヴァイス」
ゼギルが言うと、机の向こうに立つ副団長ヴァイスは、静かに書類を閉じた。
「慣れていますよ。小さい頃から、あなたは変わりません」
「ガキの頃の話はするな。思い出したくねぇ」
「そうですね」
ヴァイスは、ほんのわずかに目を細めた。
笑った、というには薄すぎる表情だった。
「ゼギル様。例の輸送ルートの件ですが、整いそうです」
「ああ」
「西の共和国と繋がりのある組織に金を握らせました。表の商会ではありませんが、荷を消すには向いています」
「そうか。ご苦労だったな」
ゼギルは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
魂晶種。
真実の石版にも、その名はあった。
だが、まだ時期ではない。
南諸島連合と正面から事を構えるには、札が足りない。
黒牙だけならまだしも、ルヴェリアそのものが揺れる。
だから流す。
西へ。
亜人共和国へ。
少なくとも、南の実験台に戻すよりはマシな場所へ。
「それと、もう一つ頼まれてくれるか?」
「はい」
「アニマの出処……探れるか?」
ヴァイスはわずかに首を傾けた。
「ルヴェリア北東の村出身、という話では?」
「違ぇ」
ゼギルは机の上の地図へ視線を落とした。
「俺が知りてぇのは、そこからどのルートを通って南諸島連合に渡ったかって話だ」
地図には、ルヴェリア北東から南東のカラント軍港まで、細い線がいくつも引かれている。
水路。
街道。
倉庫。
中継村。
商会の印。
黒く塗りつぶされた空白。
「なんか匂わねぇか?」
「と、いいますと?」
「南諸島連合の独断。非人道的実験。協定違反」
ゼギルは指先で地図を叩いた。
「これだけで済むなら、大した問題じゃねぇ。連中は昔からそういう国だ。バレなきゃ何でもする」
「ですが、そうではないと?」
「どうも胸騒ぎがしやがる」
ヴァイスは黙って続きを待つ。
「南諸島がアニマを欲しがるのは分かる。魂晶核は魔道兵器と相性が良すぎる。だが、見つけて、買って、運んで、隠して、軍港まで通すには手が多すぎる」
「複数の国、または組織が関与していると?」
「ただの勘だ」
ゼギルは短く笑った。
「だが、俺の勘はたまに当たる」
「外れた時の尻拭いも、私の仕事ですが」
「だからいつも悪いって言っただろ」
「聞きました」
ヴァイスは書類を一枚抜き取り、静かに目を通す。
「洗います。北東の売買記録、奴隷商、裏商会、輸送許可、港湾偽装、南諸島連合との接触。必要なら聖教会筋も」
ゼギルの目が、わずかに細くなった。
「聖教会か」
「可能性の一つです」
「ああ。消すな」
「畏まりました」
ヴァイスは深く頭を下げる。
ゼギルは窓の外を見た。
夜のルヴェリア。
灯りの海。
その下で、誰かが何かを運び、隠し、売り、殺している。
「時期じゃねぇ」
ゼギルは小さく呟いた。
「だが、向こうが時期を早める気なら……こっちも寝てるわけにはいかねぇな」
◇
翌日。
ハルトはエルナを連れて、ラインハルト道場の前に立っていた。
黒牙第五席、剣客のラインハルト。
そう聞けば、腕自慢の構成員たちで賑わっていそうなものだが、門の向こうは相変わらず静かだった。
鳥の声の方が、まだ多い。
「……ここ、なに?」
エルナが門を見上げる。
「道場だ」
「道場……」
「身体の使い方を習う場所だな」
「私も?」
「ああ」
エルナは胸元に手を当てた。
服の下には、魂晶核がある。
「私は、戦えないよ」
「戦わせに来たわけじゃねぇよ」
ハルトは門を押し開けた。
中庭の向こうに、広い稽古場がある。
その中央で、ラインハルトが正座していた。
目を閉じ、剣を横に置いている。
ただ座っているだけなのに、空気が妙に硬い。
ルーカス、シャノン、ベルノは少し遅れてハルトの後ろに続いた。
セリカも当然のようにいる。
ラインハルトは静かに目を開けた。
「来たか」
「定期の日だろ」
「うむ」
ラインハルトの視線が、エルナに止まった。
「連れてきたのか」
「一応、俺の預かりだからな」
「ならば、道場へ来るのは当然だ」
「なんでだよ」
「預かりなら鍛える。道理だ」
ハルトは一瞬、言葉を止めた。
「……エイベルも、似たようなこと言いそうだな」
ラインハルトが少しだけ目を細める。
「風読みが?」
「ああ。あいつも、預かった奴に手ぶらで帰れとは言わねぇだろ」
「ならば、良い道理だ」
「勝手に正当化すんな」
ラインハルトは立ち上がり、エルナの前へ来る。
エルナは少しだけ肩を強張らせた。
だが、ラインハルトは胸元を見なかった。
足元、肩、呼吸。
ほんの数秒だけ見て、短く言う。
「細いな」
「体の話か?」
ハルトが聞くと、ラインハルトは首を振った。
「呼吸だ。力の通り道が細い」
「分かるのかよ」
「見れば分かる」
「分かんねぇよ」
ラインハルトはエルナを見る。
「だが、切れてはいない」
エルナは何も言わなかった。
意味は分からない。
けれど、自分のどこかを見られた気がした。
ハルトは一歩前へ出る。
「エルナの胸の件は知ってるな?」
「ああ。魂晶核だろう」
「もしもの時だ。そんなこと、ないに越したことはねぇ。けど、魂晶にも魔力の流れがあるはずだろ」
「あるだろうな」
「なら、内功で少しでも抑えられるかもしれねぇと思ってな」
「可能だろう」
即答だった。
「早いな」
「魔力の流れは普遍だ」
ラインハルトは自分の胸に手を当てる。
「人の血も、獣の息も、魔石の脈も、水の流れも、根は変わらん。魂晶核とて、流れがあるなら整えられる」
「……そうか」
ハルトは、ほんの少しだけ息を吐いた。
「良かった」
その声に、エルナがハルトを見る。
ハルトは彼女を見ていない。
ただ、少しだけ肩の力を抜いていた。
エルナは胸元に手を置いたまま、黙っている。
ラインハルトは、その沈黙を見て言った。
「好きになる必要はない」
エルナの指が、わずかに止まる。
「受け入れろとも言わん。嫌おうとも、拒絶しようとも、それもお前の一部だ」
ラインハルトの声は静かだった。
「ただ、そこに流れがあるなら、知らねばならん」
「……知る」
「そうだ。まずは流れを知ることからだ」
エルナは少しだけ目を伏せた。
それから、小さく頷く。
「……お願いします」
ラインハルトの目が、わずかに輝いた。
「うむ。なかなかの逸材だな」
「早くねぇか?」
「呼吸が素直だ」
「全員に言ってねぇか、それ」
「逸材は多い方がいい」
「弟子増やしたいだけだろ」
「否定はしない」
セリカが小さく息を吐いた。
「ラインハルト様、まずは基礎からお願いします」
「うむ」
それからしばらく、ラインハルトはエルナに呼吸を教えた。
座る。
背筋を伸ばす。
息を吐く。
腹の奥へ意識を落とす。
ただ、それだけ。
言葉は少ない。
説明も丁寧とは言えない。
けれど、ラインハルトは急かさなかった。
エルナが分からない顔をすれば、黙ってもう一度見せる。
胸元に力が入れば、「握るな」とだけ言う。
呼吸が浅くなれば、「吐け」とだけ言う。
それだけの稽古だった。
しばらくすると、エルナがぽつりと呟いた。
「……少し、あたたかい」
「それが流れだ」
「これが?」
「今はまだ、水たまりの波紋ほどだ。だが、知れば扱える」
エルナは胸元に触れた。
「私が……?」
「お前がだ」
返事は簡単だった。
簡単すぎて、エルナは少しだけ困った。
ハルトはその様子を黙って見ていた。
やがて、ラインハルトが手を叩く。
「よし。今日はここまでだ」
「もう終わり?」
「初日はやりすぎるな。内側の稽古は、外側より疲れる」
「……そうなんだ」
「明日も来るといい」
「明日も?」
「毎日来るといい」
「おい」
ハルトが即座に割り込んだ。
「勝手に予定を増やすな」
「必要だ」
「弟子にしたいだけじゃねぇか」
「必要でもある」
「そこは否定しろよ」
ラインハルトは静かに首を振った。
「できない」
「正直すぎるだろ」
その後、道場はいつもの稽古へ移った。
エルナは壁際に座り、セリカと並んで見学する。
ラインハルトは中央に立ち、ハルトたちを見た。
「次は組手だ」
ハルトが首を鳴らす。
「誰からだ?」
「ルーカス、シャノン、ベルノ。三人で行け」
ルーカスが自分を指差す。
「僕たち三人で、ですか?」
「うむ」
ベルノが木刀を手に取り、ハルトを見る。
「ラインハルト様。ハルト様を相手に、我々三人で?」
セリカが淡々と頷いた。
「今のハルト様に一人で挑むのは危険です」
「危険ってほどじゃねぇよ」
ハルトが眉を寄せる。
セリカは即答した。
「危険です。主に道場が」
「俺じゃなくて道場かよ」
シャノンが手首をぶらぶら回した。
「三対一ならワンチャンあるにゃ」
ルーカスもゆるく構える。
シャノンは素手。
ルーカスも素手。
ベルノだけが木刀を握っている。
ハルトも短剣には触れなかった。
いつものように、素手で中央へ歩く。
「道場を壊す場合、たぶんハルト様側です」
ベルノが真顔で言う。
「なんで俺が壊す前提なんだよ」
「実績がありますので」
セリカが静かに言った。
「あります」
「……少しだけな」
ハルトは諦めたように息を吐いた。
「始め」
ラインハルトの声が落ちた瞬間、最初に動いたのはルーカスだった。
速い。
道場用に出力を落としているとはいえ、踏み込みだけで床板が低く鳴る。
拳が、一直線にハルトの胸元へ伸びた。
だが、ハルトはそこにいなかった。
半歩。
ただ半歩、横へずれただけだった。
ルーカスの拳が空を切る。
「え」
ルーカスが声を漏らした瞬間、ハルトの足がルーカスの軸足を払った。
軽い音。
次の瞬間、ルーカスの長い身体が横に崩れる。
ハルトは倒れかけたルーカスの襟元を掴み、床に叩きつけず、勢いだけを殺して横へ投げた。
「うわっ」
ルーカスが床を滑る。
そこへシャノンが低く飛び込んだ。
まっすぐではない。
床を這うように近づき、途中で角度を変える。
猫のような、読みにくい軌道。
「にゃっ!」
ハルトは追わなかった。
追えば遅れる。
だから、先に置いた。
シャノンが入り込む場所へ、膝を半歩出す。
「うにゃ!?」
シャノンの身体が勝手に詰まった。
ハルトの掌が、シャノンの肩に触れる。
押す。
それだけだった。
だが、悪名補正を内側へ落としたまま放たれた掌底は、軽い音を立ててシャノンの身体を吹き飛ばした。
「にゃああ!?」
シャノンは床を転がり、ぎりぎりで受け身を取る。
「痛くはないけど、むかつくにゃ!」
「なら次は入る場所を選べ」
ハルトが言った瞬間、正面からベルノの木刀が来た。
軌道は素直。
だが足が泥臭い。
正しい剣筋に、ヤマザル時代の嫌な間が混ざっている。
ハルトは木刀を避けなかった。
手の甲で、木刀の腹を弾く。
乾いた音が鳴った。
「っ……!」
ベルノの腕が跳ね上がる。
その隙に、ハルトは踏み込んだ。
拳ではない。
開いた掌を、ベルノの胸元へ置く。
「悪くねぇ」
そのまま、短く押した。
「ぐっ……!」
ベルノの身体が後ろへ飛ぶ。
受け身を取ったが、膝が床を擦った。
ハルトは追撃しない。
ただ、中央に立っている。
三人が同時に動いたはずだった。
だが、終わってみれば全員が一度、床に転がされていた。
「……強」
シャノンがぼそりと言った。
「いや、これ、三対一だよね?」
ルーカスが起き上がりながら首を傾げる。
「三対一だ」
ベルノが木刀を握り直す。
「だが、こちらが三である意味を作れていない」
「正解だ」
ハルトは軽く手首を回した。
「一人ずつ来てる。三人いるだけだ」
ベルノの目が細くなる。
「同時に崩せ、ということですね」
「やれるならな」
次は、三人の動きが変わった。
ルーカスが正面から入る。
シャノンが左から消える。
ベルノが一拍遅れて、木刀の間合いを作る。
今度は連携だった。
ルーカスの拳は囮。
シャノンの低い踏み込みが本命。
ベルノの木刀は、ハルトが避ける先を塞ぐためにある。
だが。
ハルトは避けなかった。
ルーカスの拳を、肘で内側へ落とす。
シャノンの足払いを、逆に足裏で踏んで止める。
ベルノの木刀が来る前に、ハルトの視線がベルノを射抜いた。
ほんの一瞬。
ベルノの踏み込みが遅れる。
その一瞬で足りた。
ハルトはルーカスの腕を掴み、体ごと回す。
「え、ちょっ」
ルーカスの身体が、シャノンの進路を塞いだ。
「ルカ邪魔にゃ!」
「ごめん!」
そこへベルノの木刀が止まる。
味方を巻き込む角度。
振れない。
「判断は悪くねぇ」
ハルトはベルノの懐へ入った。
「でも遅い」
掌底。
今度は腹。
ベルノの身体がくの字に折れ、後ろへ下がる。
さらにハルトはルーカスの腕を離し、その背中を軽く押した。
ルーカスはシャノンもろとも転がった。
「にゃああ! でっかいの来たにゃ!」
「ごめんシャノン!」
ハルトは息も乱れていなかった。
白煙も出していない。
氷も使っていない。
短剣も抜いていない。
ただ、素手で三人を転がしている。
エルナは壁際で、その光景を見ていた。
昨日の街で、ハルトは少し乱暴で、不器用で、よく分からない人だった。
けれど今は違う。
強い。
ただ魔法で壊す強さではない。
壊さないと決めた相手を、壊さずに止める強さ。
倒して、転がして、でも傷つけすぎない強さ。
それが少しだけ、不思議だった。
「もう一回」
ルーカスが立ち上がる。
目が、少し変わっていた。
左手に、わずかに紫電が走りかける。
「ルカ」
ラインハルトの声が飛んだ。
ルーカスはぴたりと止まった。
「あ。すみません」
「それ以上は外でやれ」
「はい」
ハルトは肩をすくめた。
「本気出せば、もっと来れるだろ」
「道場が壊れるので」
「やっぱり基準それかよ」
しばらくして、三人は床に座り込んだ。
シャノンは額に汗を浮かべ、ベルノは肩で息をしている。
ルーカスだけは、まだ少し余裕があるように見えた。
だが、その目はさっきよりずっと真剣だった。
「ハルト様、強くなりましたね」
「お前に言われると妙な感じするな」
「前より、見えにくいです」
「俺が?」
「はい。速いというより、動く前が分かりにくいです」
ラインハルトが頷いた。
「気功術を、かなり物にし始めたな」
「そうか?」
ハルトは自分の手を開き、軽く握る。
以前のように、力が勝手に外へ漏れる感覚は少ない。
悪名補正が暴れ、身体の外側で棘のように膨らむ前に、腹の奥へ落とせる。
悪名の魔力が消えたわけではない。
弱くなったわけでもない。
ただ、少しだけ通り道ができた。
「悪名補正に振り回されるのではなく、流れに落とし込んでいる。まだ荒いが、以前より器が広がっている」
「器か」
「だが、そこからが長い」
ラインハルトは淡々と続けた。
「器を広げるのだ。終わりはない」
「終わりはないって、嫌な言い方すんな」
「力が増えるなら、器も広げ続けねばならん。止まれば、溢れる」
「……つまり、一生修行ってことかよ」
「そうだ」
「盗賊に言うことじゃねぇな」
「生きる者には必要だ」
ラインハルトは、真顔でそう言った。
それから、少しだけ満足そうに頷く。
「だが、良い」
「何が」
「逸材だ」
「それ、今日何回目だよ」
「何度言っても事実は変わらん」
「語彙を増やせ」
「語彙も鍛えれば増える」
「本当に何でも鍛錬で済ませるな、お前」
稽古を終え、道場を出る頃には、空の色が少しだけ傾いていた。
ハルトたちが門へ向かう中、エルナだけが一度足を止める。
ラインハルトは、稽古場の入口に立っていた。
エルナは少しだけ俯いた。
「……ありがとうございました。ラインハルトさん」
「うむ」
ラインハルトは短く頷く。
エルナはそのまま、指先で服の胸元を軽く握った。
何かを言おうとして、少し迷う。
それから、小さな声で続けた。
「……師匠」
ラインハルトの目が、見たこともないほど静かに輝いた。
「うむ」
「めちゃくちゃ嬉しそうじゃねぇか」
ハルトが横から言う。
ラインハルトは真顔のまま答えた。
「そんなことはない」
「嘘つけ」
「明日も来い」
「隠す気ねぇな」
あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。
よろしければ高評価、コメントお願いします!
今回はラインハルト道場回でした。
エルナにとっては、自分の中にある魂晶核を、初めて「知る」ための一歩になった回です。
好きにならなくてもいい。
受け入れられなくてもいい。
それでも、自分の中にあるものとして、まずは流れを知る。
ラインハルトは相変わらず弟子に飢えていますが、教えること自体はかなり真面目です。
そしてハルトも、気功術によって悪名補正を少しずつ制御できるようになっています。
強くなるほど、自分の力に振り回されないための器も必要になる。
白煙の成長はまだまだ続きます。
エルナの一週間も、少しずつ変化していきます。
次回もよろしくお願いします。




