第2話 普通っていいもんな
黒い狼煙が、空を走った。
それは煙というより、昼の空に刻まれた黒い傷のようだった。
カラント軍港の方角では、まだ怒号と警笛が響いている。遠くで砲声が鳴り、海が大きく揺れる音がした。
「合図です。向かいます」
セリカが短く告げる。
俺は振り返った。
ナザルは戻ってこない。
海坊主で軍港をめちゃくちゃにしたあと、軍艦も追っ手もまとめて引きつけていった。
俺たちを逃がすためだ。
黒い狼煙の方へ進むと、街道脇に黒牙の構成員たちが待っていた。
馬が数頭。
護衛用の騎馬。
そして、黒牙の紋が小さく刻まれた馬車が一台。
さっきまでの魔装馬車とは違う。
剣先のついた車輪も、三重結界も、兵士の怒号もない。
揺れはするが、ちゃんと座れる馬車だった。
俺は、少女を先に馬車へ乗せた。
まだ名前は知らない。
ただ、助けた少女。
いや、盗んだ荷物。
その言い方が、頭の奥に引っかかった。
少女は抵抗しなかった。
逃げようともしなかった。
ただ、言われた通りに馬車へ乗った。
その様子が、逆に気味が悪かった。
馬車の中には、俺、セリカ、少女、スイレンが乗った。
黒牙の構成員たちは周囲を固め、馬車はルヴェリアへ向かって走り出す。
カラント軍港の騒ぎが、少しずつ遠ざかっていった。
しばらく、誰も喋らなかった。
車輪が石を踏む音だけが続く。
少女は窓の外を見ている。
怯えているわけでも、安心しているわけでもない。
ただ、どこかへ運ばれている荷物みたいに、そこにいた。
セリカが口を開いた。
「質問します」
少女は視線だけを動かした。
「名前は?」
「エルナ」
短い答えだった。
「エルナ。あなたは、なぜ護送されていたのですか」
「売られたから」
答えは早かった。
考えるまでもない、というように。
「誰にですか」
「最初は、両親に」
馬車の中の空気が、少し重くなる。
俺は何か言いかけて、やめた。
両親に売られた。
その言葉に対して、何を返せばいいのか分からなかった。
怒ればいいのか。
同情すればいいのか。
そんな親は最低だと言えばいいのか。
どれも違う気がした。
エルナは、俺たちの沈黙を気にした様子もなく続ける。
「そのあと、何回か買い手が変わった」
「ですが、それだけでは説明がつきません」
セリカは冷静に言った。
「前後に武装魔装馬車。中央車両には三重結界。護衛の装備も南諸島連合式でした。普通の売買では、あそこまでの護送にはなりません」
「うん」
エルナは小さく頷いた。
「これが原因」
そう言って、エルナは胸元に手をかけた。
鎖骨の少し下。
服の合わせを、何のためらいもなく開こうとする。
その瞬間、セリカの手が俺の目を塞いだ。
「見ないでください」
「やめろ! ガキじゃねぇ!」
「そういう問題ではありません」
「いや、今は重要な場面だろ!」
「重要だからです」
俺がセリカの手を剥がそうとする。
だが、こいつは押さえ方がうまい。
力任せじゃなく、こっちの動きを封じるように目を塞いでくる。
俺がじたばたしている間に、スイレンが静かに息を呑んだ。
「……魂晶核」
その声は、さっきまでの限界社会人じみた軽さを失っていた。
セリカの指の隙間から、淡い光が見えた。
皮膚の下に埋まっている宝石のようなもの。
奇妙に澄んだ、けれど嫌なほど生々しい光。
俺はようやくセリカの手をどかした。
エルナは、もう服を戻していた。
「今のが、理由か」
俺が言うと、エルナは頷いた。
「魂晶が欲しかったんだと思う」
「魂晶ってのは、なんだ」
スイレンが答えた。
「魂晶種です」
「アニマ?」
「絶滅危惧種の亜人です。いえ、現在ではほぼ絶滅したとされています」
スイレンは、少しだけ目を細めた。
「魂晶核は、魔道兵器と相性が良すぎました。高密度の魔力を蓄え、制御し、変換できる。抜き取られた魂晶核が兵器へ転用され、暴走し、街が消えた記録もあります。一度ではありません。何度もです」
「街が……」
「はい。だから今では、魂晶核の摘出、移植、兵器転用は禁忌の実験です。協定で禁止されています」
馬車の中が、さらに重くなった。
俺はエルナを見た。
少女は、ただ座っている。
自分の胸元にあるものが、街を消す力を持つと言われても、表情を変えなかった。
慣れている。
そう思った。
自分ではなく、自分の中の核を見られることに。
自分の命ではなく、利用価値を語られることに。
「私は混血種だよ」
エルナは窓の外を見たまま言った。
「混血種……」
「隔世遺伝で、数年に一人くらい生まれるらしい。でも、ほとんどは自覚しないまま死ぬって聞いた。だから見つかる確率は、もっと低い」
「発現したのは、いつですか」
セリカが聞く。
「売られた後、すぐ」
エルナは淡々と言った。
「ストレスで発現することもあるんだって。最初の買い手が気づいた。それから値段が上がった。何回か買い手が変わって、最後にあの馬車に乗せられた」
値段が上がった。
人間に使う言葉じゃない。
けれど、エルナはそれを当たり前みたいに言った。
俺は黙っていた。
何かを言うべきだと思った。
けれど、言葉が出なかった。
売られた。
値段が上がった。
買い手が変わった。
それは品物の履歴だ。
でも、目の前にいるのは少女だった。
怖がらない。
泣かない。
怒らない。
助けてとも言わない。
その全部が、俺には気持ち悪かった。
この世界に来てから、俺は何度も思った。
自分は盗賊だ。
まともな側にはもう戻れない。
殺すことも覚えた。
奪うことも覚えた。
命令することも覚えた。
それでも。
目の前の少女を、荷物として処理することには、まだ慣れられなかった。
「南諸島連合は、今ごろ大慌てでしょうね」
スイレンが言った。
「表に出せない荷を、黒牙に奪われたわけですから」
「国は動くのか」
「公には動けないはずです。協定違反の可能性がありますから。ただし、裏では必ず動きます」
エルナは何も言わない。
その横顔を見ていると、また魂晶核として見られていることを、本人が当然のように受け入れている気がした。
「魂晶目当てなんでしょ」
エルナが言った。
俺は顔を上げる。
「何が」
「あなたたちも」
「……」
「盗賊なんでしょ」
エルナの目は、責めているわけではなかった。
諦めている目だった。
期待していない。
裏切られる前に、最初から何も信じていない。
俺は、そこで何か言い返そうとして、また言葉を飲んだ。
違う、と言いたかった。
魂晶なんて知らなかった、と言いたかった。
お前を助けに来た、と言えば聞こえはいい。
だが、それも違う。
俺は盗みに行った。
ナザルが匂うと言い、団長が行けと言い、怪しい荷を奪いに行った。
その中身が、エルナだっただけだ。
だから、今ここで綺麗な言葉を吐くのは、嘘になる。
俺は窓の外を見た。
「……着いてから考える」
それが、今言える精一杯だった。
エルナは何も返さなかった。
馬車はルヴェリアへ向かって走り続けた。
*
ルヴェリアへ戻る頃には、空が赤くなり始めていた。
王都の門をくぐる。
水路沿いの道を抜ける。
黒牙の構成員たちは、何も聞かず、馬車を奥へ通した。
その日のうちに、緊急の幹部会議が開かれた。
場所は黒牙本部の会議室。
長い黒卓。
壁に刻まれた黒牙の紋。
重い空気。
全員が揃っているわけではない。
第一席ノアは欠席。
第三席マグナは不在。
第九席ナザルも不在。
俺は空いた席を見た。
「ナザル、まだ帰ってないのか……」
「ほっとけ」
団長が短く言った。
「海ならそのうち帰ってくる」
扱いが雑だった。
だが、その雑さは、心配していないという意味でもあった。
誰も本気でナザルを案じていない。
海の上の大海を心配する方が、たぶん失礼なのだ。
代わりに、スイレンが第九席側の報告役として立っていた。
さすがに疲れているように見えるが、姿勢は崩していない。
俺は壁際に立っているエルナをちらりと見た。
エルナは、この場でも怯えなかった。
黒牙の幹部たちの前に立たされても、表情は薄い。
最初に口を開いたのは、イグニスだった。
「保護でいいでしょ」
椅子の背にもたれたまま、赤い髪を揺らす。
「研究対象にされた子を、また売るとかありえないから」
ラインハルトも静かに頷いた。
「同意する。少なくとも、本人の意思を確認する前に売却はない」
その言葉に、オルガンが片眼鏡を押し上げた。
「甘いのう」
茶色い髭の奥で、声は重い。
「ワシも子供を売る趣味はない。じゃが、これは火種じゃ。南諸島連合の軍事輸送を襲い、魂晶種を奪った。保護などと綺麗な名で抱え込めば、黒牙どころかルヴェリアごと厄介なことになる」
「だから売るって?」
イグニスの声が低くなる。
「売却先を選ぶという意味じゃ。少なくとも南諸島に戻すよりは、交渉材料として扱った方がよい」
「物じゃないんだけど」
「物ではない。じゃが、政治の場では人も札になる」
イグニスの炎が、わずかに揺れた。
ミレーユが指先を組んだまま言った。
「私も、ルヴェリアに置くのは反対」
声は冷たい。
だが、イグニスのような怒りでも、オルガンのような計算でもなかった。
「魂晶核が核撃に転用できる可能性があるなら、都市内に置くのは危険すぎる。本人にその意思があるかどうかは関係ない。奪われる。暴走する。利用される。どれでも最悪」
シオンは黙っていた。
リスティアも、珍しく何も言わない。
意見なし。
あるいは、団長の判断待ち。
副団長ヴァイスは、ゼギルの隣に立ったまま言った。
「私は団長の指示に従います」
全員の視線が、団長へ向く。
深淵のゼギル。
ゼギルは椅子に深く座ったまま、しばらく黙っていた。
その沈黙だけで、部屋の温度が一段落ちる。
やがて、ゼギルは言った。
「時期じゃねぇ」
低い声だった。
「真実の石版には、魂晶種に触れてる記述がある。だから、今後必要になる可能性はある」
黒卓の空気は揺れなかった。
真実の石版。
それが団長と副団長の目的であることを、ここにいる幹部たちは知っている。
俺も、もう知らない側ではない。
ゼギルは続けた。
「だが、石版はまだ集めきってねぇ。今この段階で、南諸島と戦争するほどの札じゃねぇ」
誰も口を挟まなかった。
「こいつが本当にアニマなら、国際問題だ。南諸島も公には動きにくい。軍旗も識別票も出してねぇ輸送だ。向こうも表に出せねぇ荷だったってことだ」
ゼギルの目が、エルナへ向いた。
「早めに西へ流す」
「西……亜人共和国ですか」
セリカが言う。
「ああ。あそこなら、アニマの扱いも多少は知ってるだろう。少なくとも南諸島よりはマシだ」
ヴァイスが静かに補足した。
「距離がある。私の長距離転移を使っても、直接送るには危険だ。中継地点と受け入れ先の確認、偽装経路、ツテの準備が必要になる」
「どれくらいかかりますか?」
俺が聞く。
「一週間前後だ」
ヴァイスが答えた。
ゼギルは俺を見た。
「それまで、お前が預かれ」
「俺が、ですか」
「お前が盗ったんだろ」
「……言い方は最悪ですけど、否定できないですね」
「なら決まりだ」
団長は当然のように言う。
「第六席の館なら、セリカがいる。補佐見習いどももいる。イグニスも出入りできる。変な奴が来れば、お前が凍らせればいい」
俺は一瞬、扱いが雑すぎると思った。
だが、これが黒牙なりの保護なのだろう。
安全な施設。
優しい職員。
綺麗な寝台。
そういうものを、この組織に求める方が間違っている。
ここで守るとは、敵を殺せる場所に置くという意味だ。
エルナは何も言わなかった。
自分の行き先が決まっても、ただ聞いているだけだった。
俺はその横顔を見て、胸の奥に嫌なものが残った。
また運ばれる。
またどこかへ渡される。
エルナ自身も、そう思っているのだろう。
けれど、今の俺には、その思い込みを壊せるだけの言葉がなかった。
*
会議が終わると、外はもう夜に近かった。
ルヴェリアの街には、明かりが灯り始めている。
水路に映る灯りが揺れ、屋台の煙が路地に流れていた。
俺はエルナを連れて、第六席館へ戻る途中で足を止めた。
「飯、食っていくか」
エルナが顔を上げる。
「……今?」
「ああ」
「どこで」
「そこ」
俺が指差したのは、串焼きの屋台だった。
油の焼ける匂い。
肉の焦げる匂い。
甘いタレの匂い。
セリカが少しだけ眉を寄せる。
「ハルト様。先に館へ戻った方が」
「腹減った」
「あなたの話ではありません」
「こいつも食ってないだろ」
セリカは一瞬だけエルナを見る。
それ以上は言わなかった。
俺は屋台へ歩きながら、エルナに言った。
「俺はハルト」
「聞いてないけど……」
「一週間も一緒に住むんだ。名前くらい覚えとけよ」
「……」
「こっちはセリカ。怒らせんなよ。怖いぞ」
「ハルト様」
セリカの声が、すぐ横から落ちた。
「話があります」
「ほらな」
「何が、ほらな、ですか」
「怖い」
「ハルト様」
「はい」
エルナは、そのやり取りを横で見ていた。
笑いはしない。
けれど、少しだけ目が動いた。
俺は串焼きを数本買った。
ついでに、近くの菓子屋台で小さな甘い焼き菓子も買った。
エルナは受け取った串焼きを見下ろした。
「毒は入ってねぇよ」
「分かってる」
「なら食え」
エルナは小さく口を開けて、肉をかじった。
噛む。
飲み込む。
表情は変わらない。
「どうだ?」
「普通」
俺は少しだけ笑った。
「そっか」
エルナは俺を見る。
「怒らないの?」
「なんでだよ」
「美味しいって言わないと、怒る人もいるから」
俺は少し黙った。
それから、自分の串焼きを一口食べた。
「普通っていいだろ」
「……そうなの?」
「少なくとも、まずいよりはいい」
「そう」
エルナはもう一口食べた。
今度は、少しだけゆっくり噛んだ。
俺は焼き菓子を差し出す。
「甘いのは?」
エルナはそれを受け取り、端を少しかじった。
「普通より、ちょっと上」
「なら良かった」
俺は夜の屋台通りを見ながら言った。
「普通っていいもんな」
エルナは、焼き菓子を持ったまま黙っていた。
屋台の煙。
水路の灯り。
人の声。
馬車の音。
誰かの笑い声。
特別ではない夜だった。
高価な食事でもない。
安全な未来が決まったわけでもない。
エルナの問題が解決したわけでもない。
ただ、串焼きを食べて、甘いものを少し食べただけ。
普通の夜だった。
エルナは小さく言った。
「……そうだね」
その声は、ほとんど夜に溶けるくらい小さかった。
一日目が終わった。
あとがき
第6章、アニマ編の本格開始です。
今回はハルトたちが盗んだものの正体と、エルナがどういう存在なのかが少しだけ明かされました。
魂晶種は、ただ珍しい亜人というだけではなく、世界の戦争や魔道兵器にも関わるかなり危険な存在です。
なので黒牙側も、簡単に保護とも処分とも言えない状況になっています。
ただ、ハルトにとっては難しい政治や国際問題よりも、まず目の前の少女が「普通」を知らないことの方が引っかかっているのかもしれません。
一週間だけの保護生活。
ここからエルナが何を見て、何を感じるのか。
そして南諸島連合がこのまま黙っているのか。
次回もよろしくお願いします。




